カテゴリー: 楷書

  • 【北魏の楷書】龍門造像記について詳しく解説/龍門石窟/龍門二十品

    【北魏の楷書】龍門造像記について詳しく解説/龍門石窟/龍門二十品

    「造像記(ぞうぞうき)」とは、仏像を制作する際に、発願者や制作の背景、由来などを仏像の横に刻んだ碑文のことを指します。中国北朝ほくちょう時代の造像記の中でも、「龍門二十品りゅうもんにじっぴんぴ」は特に名品とされ、古くから高い評価を受けています。その筆づかいは、一画一画が丁寧に書かれており、質朴でありながら緊張感が漂う書風が特徴です。

    今回は、この龍門造像記の背景、制作の歴史的意図、そしてその書風や芸術的価値について詳しく解説していきます。龍門二十品の奥深い魅力に迫ることで、北魏時代の仏教文化や書道の美しさを、より一層感じていただけることでしょう。

    造像記が刻まれた場所「龍門石窟」

    龍門石窟
    龍門石窟

    龍門石窟りゅうもんせっくつ」は、中国河南省の古都・洛陽から南に約14㎞の位置にあり、伊水(いすい)川を挟んで東西に広がる石灰岩の岩山に彫り込まれています。この石窟群は、2000年にユネスコの世界遺産にも登録され、国内外から多くの観光客が訪れる歴史的な文化遺産です。

    龍門という名前は、この狭く長い谷間が両側の岩山によってまるで門のように見えることに由来します。伊水を挟んだ両岸の岩山が「門」を形成し、「伊闕(いけつ、闕は門の意味)」とも呼ばれ、さらに「龍門」とも称されるようになりました。この「龍」は皇帝を指す表現としても使われています。

    龍門石窟が造られた理由〈平城から洛陽への遷都〉

    北魏の平城から洛陽への遷都(龍門石窟)
    北魏の平城から洛陽への遷都(雲崗石窟から龍門石窟)

    龍門石窟が作られるきっかけとなったのは、北魏ほくぎの第6代皇帝・孝文帝こうぶんていが、494年に都を北方の平城へいじょう(現在の山西省大同市)から中原の洛陽らくようへ移したことでした。

    北魏ほくぎという国は、北方少数民族であるモンゴル系遊牧民が、勢力の大きい漢人かんじんを抑え込んで建てた国です。
    そのため漢人をいかに自分たちの権力内にとりこむか、いかに人々の心をうまくとらえるか、が最大の課題でした。都を北の方にあった平城へいじょうから南の方の洛陽らくように移ったのもその政策の一環でした。

    そこで人々の心をつかむのに使われたのが宗教の力です。北魏は大乗仏教だいじょうぶっきょうによって民衆の教化、掌握しょうあくをはかり、みずからの正統性を主張するよりどころとしたのです。

    北魏の都がまだ平城へいじょうにあった5世紀後半、平城から西20㎞の場所に雲崗石窟うんこうせっくつが国家的事業として造られ、広く人々の信仰を集めました。そのため都を移した先の洛陽らくようにおいても、移り住んだ人々の信仰心を満たし、一体感を作るために、雲崗石窟の代わりの石窟として龍門石窟が造営されたのでした。
    龍門石窟りゅうもんせっくつは、そうした背景によって雲崗石窟うんこうせっくつの役割を受け継ぐものとして始まったのです。

    北魏という国について

    北魏ほくぎは、中国大陸の西北部、蒙古方面から山西の大同付近にかけて牧畜に従事していたモンゴル系遊牧民が建国した国です。

    彼らはもともと熱心な仏教信者でしたが、孝文帝こうぶんていのころ(5世紀)には一段と仏教が栄え、山西大同には雲崗石窟寺院が、やがて洛陽南郊に龍門石窟が開鑿されました。
    この2つの石窟に彫られた仏像郡が優れた芸術性を誇る石造彫刻として美術史上、また宗教史上重要視されています。そうした仏像の近辺に刻された造像記が歴史の事実を後世に伝える重要資料となっています。

    龍門石窟に刻まれた造像記「龍門二十品」を紹介

    龍門石窟内すべての造像記は3689種あるとされています。多くの造像記のなかから、とくに優れたものを抜粋して四品、十品、二十品、五十品、百品などの呼び方がされています。
    四品でいうと、「始平公」「孫秋生」「魏霊蔵」「楊大眼」の4つで、どれも龍門造像記を代表させるにふさわしい書風を誇っています。
    そこからさらに優品10種類を選んで龍門十品、さらに10種類を増やして龍門二十品、そしてまた小品をも加えて龍門五十品…と名付けたものも存在します。

    現在、もっとも一般に用いられるのは「龍門二十品」です。これをもって龍門造像記の代表作を精選したものと理解してよいでしょう。

    以下では「龍門二十品」をそれぞれ紹介していきます。

    1,牛橛造像記(ぎゅうけつぞうぞうき)

    牛橛造像記
    牛橛造像記 ※クリック/タップで拡大

    牛橛造像記ぎゅうけつぞうぞうきは、製作年代のわかる龍門造像記のなかでもっとも古いものです。

    内容は、司空公・長楽王であった丘穆陵きゅうぼくりょうりょう(451~502)の夫人尉遅うつちが、先に亡くなった息子の牛橛ぎゅうけつのために弥勒像1体を造り冥福を祈ったものです。
    丘穆陵氏は代々帝室と婚姻関係を結んでおり、孝文帝の側近として重要な地位にありました。

    文字の特徴は、点画の起筆・終筆が明快で、字形はよく整い、品格が高く、情趣に富んでいます。

    牛橛造像記について詳しくはこちらで解説しています。↓

    2,一弗造像記(いちふつぞうぞうき)

    一弗為造像記
    一弗為造像記 ※クリック/タップで拡大

    歩轝郎張元祖ほよろうちょうげんその妻一弗いちふつが釈迦像一軀を造り、亡くなった夫がただちに仏国に生まれられるよう祈ったものです。

    文字は北魏楷書として正しい筆法で書かれています。牛橛造像記の次に古い造像記で、わずか30字という小さなものですが、技巧の勝った優品と言えます。

    3,始平公造像記(しへいこうぞうぞうき)

    始平公造像記
    始平公造像記 ※クリック/タップで拡大

    始平公造像記しへいこうぞうぞうきは、龍門造像記としては珍しい陽刻ようこくで、しかも筆者(朱義章しゅぎしょう)と撰文者(孟達もうたつ)の名前が明記されています。

    発願者の比丘慧成びくえじょうは龍門石窟寺を創建した高僧です。内容は創建の由来を述べ、亡き父の使持節・光禄大夫・洛州刺史の始平公しへいこうを供養するために釈迦像一軀を造営したというものです。

    文字は肉太ですが鈍重な感はなく、厳しさと量感とを併せもっています。側筆を思わせるほど線は角ばっていますが、悠々とした安定感があり、龍門造像記を代表する作品です。

    4,北海王元詳造像記(ほっかいおうげんしょうぞうぞうき)

    北海王元詳造像記
    北海王元詳造像記 ※クリック/タップで拡大

    孝文帝こうぶんていの異母弟にあたる北海王ほっかいおう元詳げんしょうが生母こう氏の発眼にもとづき、弥勒像一軀を造営し、母子の長寿、一門の繁栄、一切衆生に功徳を受けることを願ったものです。
    元詳げんしょう(476~504)は献文帝の第7子ですが、汚職、不倫がもとで位階いかいを奪われ、造像記の造営から6年後の29歳で刑死しました。

    文字は鄭道昭ていどうしょう摩崖まがいに似て点画が柔軟であり、龍門二十品の中では筆意のよく暢達した雰囲気があります。

    5,解伯達造像記(かいはくたつぞうぞうき)

    解伯達造像記
    解伯達造像記 ※クリック/タップで拡大

    伊闕の警備にあたる解伯達かいはくたつが弥勒像一軀を造り、国家の興隆・安穏、父母の長寿、一切衆生の幸福などを願ったものです。
    警備が造像記を造っているという点から、造像の作成は各階層に広く浸透していたことがうかがえます。

    文字は細字ながら、鋭い点画を筆路のよく暢達した風格があります。牛橛造像記に似た書風です。

    6,魏霊蔵造像記(ぎれいぞうぞうぞうき)

    魏霊蔵造像記
    魏霊蔵造像記 ※クリック/タップで拡大

    河北鉅鹿出身の魏霊蔵ぎれいぞうと山西河東の薛法紹せつほうしょうの2人が釈迦像1体を造り、皇道の永興、一門の繁栄、成仏を願ったものです。

    筆路の暢達した、よく整った字形です。横画終筆部分に筆をはね上げる隷法がみられ、北方系のやや古様の風格があります。
    龍門の代表作の1つで、四品のなかにも数えられています。

    7,北海王国太妃高造像記(ほっかいおうこくたいひこうぞうぞうき)

    北海王国太妃高造像記
    北海王国太妃高造像記 ※クリック/タップで拡大

    北海王国太妃の高氏が、早世した孫の保のために弥勒像1体を造り、供養したものです。

    保という人物については、いつ亡くなったのか明らかではありませんが、高氏が504年(正始元年)に元詳とともに刑死しているので、それ以前の造営になります。

    文字は、円やかな姿、細味で柔軟な筆線が目立ち、元詳造像記に似た書風です。

    8,楊大眼造像記(ようたいがんぞうぞうき)

    楊大眼造像記
    楊大眼造像記 ※クリック/タップで拡大

    楊大眼は、西域(甘粛成県)出身の勇者で、孝文帝に従って軍功をあげた人物です。楊大眼の信者会員の喜捨を集めて釈迦像1体を造り、亡き孝文帝の追善供養をしたものです。

    下半分の損傷が目立ちますが、龍門四品の1つに数えられるように、その文字は骨力峻抜で、字形も整い、北魏の標準的な書ということができます。

    9,比丘道匠造像記(びくどうしょうぞうぞうき)

    比丘道匠造像記
    比丘道匠造像記 ※クリック/タップで拡大

    比丘道匠が仏像6体を造り、皇道の隆盛、師僧父母の成仏などを願ったものです。

    三角点の鋭い方筆ですが、横画の終筆をはね上げる隷法や、行書体があり、筆者の心の躍動が感じられます。

    10,鄭長猷造像記(ていちょうゆうぞうぞうき)

    鄭長猷造像記
    鄭長猷造像記 ※クリック/タップで拡大

    鄭長猷は、孝文帝の南侵攻時に戦功があり、南陽太守、洛陽侯に除せられ人物です。内容は、亡き父えんと母皇甫こうほ氏、児士龍しりょうのために弥勒像1体を造り供養したこと、まためかけ陳玉女ちんぎょくじょが亡き母じょ氏のために喜捨供養したことが書かれています。

    書風は二十品中では特異なもので、素朴で野趣に富みます。北魏書としては古様の姿を示すものです。 

    11,孫秋生造像記(そんしゅうせいぞうぞうき)

    孫秋生造像記

    新城県の孫秋生そんしゅうせい劉起祖りゅうきその2人が主催しゅさいし、会員200人の喜捨により釈迦像1体を造営したものです。483年(太和7年)からおよそ20年かけて完成したもので、願文末尾に撰文者(孟広達もうこうたつ)と書者(蕭顕慶しょうけんけい)の名前があり、よほど重要な造仏事業であったことがうかがえます。

    文字は、上段は方筆の特徴を発揮し、龍門四品の1つに数えられるように重厚で勁健けいけんな書風ですが、中下段の歴名は別のひとの筆で、その書格は落ちるようです。

    12,高樹解佰都等造像記

    高樹解佰都等造像記
    高樹解佰都等造像記

    主催者高樹、解佰都など32人の喜捨により、菩薩像1体を造営し、祖先や各一族の成仏を願ったものです。

    11番で紹介した孫秋生造像記に遅れることわずか3日でありその書風も似ています。しかし、孫秋生造像記に比べて規模は小さく、字間が狭く、見劣りします。

    13,比丘恵感造像記(びくえかんぞうぞうき)

    比丘恵感造像記
    比丘恵感造像記

    古陽洞の開鑿で活躍した比丘恵感びくえかんが亡き父母のために弥勒像1体を造り、国家の永遠、仏法の興隆、師僧・父母・一族の幸福を願ったものです。

    その書風は、6魏霊蔵造像記きれいぞうぞうぞうき、11孫秋生造像記そんしゅうせいぞうぞうきなどに近いです。

    14,賀蘭汗造像記(がらんかんぞうぞうき)

    賀蘭汗造像記
    賀蘭汗造像記

    広川王霊遵こうせんおうれいじゅんの祖母こう氏が、亡き夫の賀蘭汗がらんかんのために弥勒像1体を敬造し、供養したものです。侯氏は翌年にも弥勒像を造り、ともに二十品に数えられています(16広川王祖母太妃侯造像記)。

    広い空間に大小の文字、行立て、文字の傾きが自由奔放に置かれており、筆者の自然な心の躍動が表出されています。

    15,馬振拝造像記(ばしんぱいぞうぞうき)

    信仰団体の主、馬振拝ばしんぱい張子成ちょうしせい許興族きょこうぞく34人が、皇帝の長寿と国家の隆盛を願い、宣武皇帝のために仏像事業に参加、喜捨したことを記しています。

    この造像記は唐刻の優塡王うでんおう造像記に代わり、龍門二十品に加えられたものです。その書風は龍門様式の特徴を有しています。

    16,広川王祖母太妃侯造像記(こうせんおうそぼたいひこうぞうぞうき)

    広川王祖母太妃侯造像記
    広川王祖母太妃侯造像記

    14賀蘭汗造像記につづき、広川王祖母の侯氏が弥勒像1体を造営し、幼孫広川王の永興、仏法の流布などを願ったものです。夫を失い、幼い孫を養育して王国を守らんとする立場にあって、仏にすがる彼女の不安な心境と、あつい信仰ぶりとがうかがえます。

    17,比丘法生造像記(びくほうしょうぞうぞうき)

    比丘法生造像記
    比丘法生造像記

    比丘法生びくほうしょうは龍門造営に貢献した僧侶の1人と考えられています。孝文帝と北海王元詳およびその母高氏のために釈迦像1体を造り、供養したものです。

    18,安定王元燮造像記(あんていおうげんしょうぞうぞうき)

    安定王元燮造像記
    安定王元燮造像記

    安定王の元燮げんしょうが釈迦像1体を造り、亡き祖父母および亡き父母を供養し、一族の成仏を願ったものです。

    19,斉郡王元祐造像記(せいぐんおうげんゆうぞうぞうき)

    斉郡王元祐造像記
    斉郡王元祐造像記

    仏教の功徳を説き、ゆうの人柄や仏教の教理に精通していることを述べているもので、斉郡王裕のために弥勒像1体を造営したものと思われます。

    書風は温厚なまとまりで、ほかの造像記と雰囲気が異なります。

    20,比丘尼慈香慧政造像記(びくにじこうえしょうぞうぞうき)

    比丘尼慈香慧政造像記
    比丘尼慈香慧政造像記

    比丘尼の慈香と慧政とが仏像1体を造営し、仏教の功徳や衆生に幸福あらんことを願ったものです。

    書風は龍門二十品のなかでとても特殊なもので、行草書体のような柔軟な用筆、細太のいりまじった変わった書風です。

    龍門造像記の流行

    龍門石窟は北魏人の信仰心の強さ、信仰集団の豊富さを物語るものですが、書道としての造像記の文字は、同じ石窟内の彫像に比べるとあまり注目されていませんでした。とう時代に褚遂良ちょすいりょうが伊闕仏龕碑(641)を揮毫し、杜甫とほは「遊龍門奉先寺詩」に、白居易はくきょいは「修香山寺記」にそれぞれ龍門について詠んでいますが、この時期は造像記の書風について触れられていません。
    書法の技術を重んじる帖学派じょうがくはの人々にとっては、三角・鋭角な線はノミで彫るからできるもの、あるいは石工の彫り損じであるとし、むしろ卑俗、粗野なものと無視していたからです。

    書道として北魏の書風が注目されるようになるのはしん時代の乾隆けんりゅうごろからです。金石学きんせきがくの盛行につれて書作品としての面白さが謳われだし、龍門を著録するものが増えました。そして石窟研究の深まりとともに作品制作の面でも北朝の碑刻を尊ぶ風潮は栄え、やがて造像記の墨拓本が流行するようになりました。

    繆筌孫みょうせんそん『藝風堂金石文字目』の1100種をはじめ、呉式芬ごしきふんは932種、洛陽知事の曾炳章そうへいしょうは1700種を集めたといいます。
    楊守敬ようしゅけいは『寰宇貞石図』に14種を縮印、そして開封の関百益かんはくえきは2000余種を詳備した目録『伊闕石刻図表』2冊を著わし、北魏造像記の大半を網羅しました。

    清時代の書道史上においては、阮元げんげんの『北魏南帖論』『南北書派論』の影響を受けて碑学派が台頭し、包世臣ほうせいしん呉熙載ごきさい、さらに北魏書と形容される趙之謙ちょうしけんのような龍門様式の追随者を輩出しました。

  • 顔勤礼碑について解説【特徴・書き方】【顔真卿の楷書】

    顔勤礼碑について解説【特徴・書き方】【顔真卿の楷書】

    顔勤礼碑がんきんれいひは、中国のとう時代に活躍した書道家、顔真卿がんしんけいが書いた楷書の作品です。

    本記事では、作者である顔真卿について、その作品顔勤礼碑について、特徴・書き方も紹介します。

    著者・顔真卿について

    伝顔真卿肖像 『歴代聖賢半身像』より
    伝顔真卿肖像 『歴代聖賢半身像』より

    顔真卿がんしんけい〈景龍3年(709)~貞元元年(785)〉、あざな清臣せいしん、開元22年(734)進士しんしに及第しました。

    書道に優れた人物で、初唐しょとう三大家さんたいか欧陽詢おうようじゅん虞世南ぐせいなん褚遂良ちょすいりょう)に顔真卿を加えて「とう四大家したいか」といわれます。
    新しい書風を提唱し、書聖・王羲之おうぎしとともに歴代の能書家のうしょかの中の双璧とされています。

    顔真卿について詳しくは下の記事で紹介しています。↓

    顔勤礼碑について

    顔勤礼碑
    顔勤礼碑

    顔勤礼碑がんきんれいひは、顔真卿がんしんけい曾祖父そうそふ顔勤礼がんきんれいのために陝西せんせい長安ちょうあん郊外の萬年県寧安郷鳳栖原にあるその墓側に建てた神道碑で、撰文せんぶん書丹しょたんともに顔真卿自身によるものです。

    銘文がないため建碑の年代は確定できませんが、碑文によれば顔氏家廟碑がんしかびょうひ(建中元年・780)より少しさかのぼる大暦だいれき14年(779)ごろ、顔真卿が71歳前後であると考えられています。

    顔勤礼という人物について

    顔勤礼がんきんれい(字は敬)は唐時代初期における著名な学者・顔師古がんしこの弟で、李世民りせいみん(のちのとう太宗たいそう)にしたがって長安ちょうあんに入り、朝散正議大夫ちょうさんせいぎたいふを授けられ、秘書省ひしょしょう校書郎こうしょろうとなりました。のち崇賢館学士すうけんかんがくしとなり、秘書省ひしょしょう著作郎ちょさくろうにいたりました。
    高宗こうそう王皇后おうおうごうの一族の娘をめとり、これが昇進の糸口となるはずでしたが、永徽えいき6年(655)王皇后おうこうごう寵愛ちょうあいを失い廃されると、そのまきぞえをおい左遷させんされ、やがて顕慶けんけい6年(661)上護軍を加え、官舎に率しています。

    顔勤礼碑の構成

    顔勤礼碑は、発見時から石が2つに割れていたので、毎行1・2文字欠けています。文は4面に環刻されており、碑陽は19行で毎行38字、碑陰は20行で毎行38字、左側面は5行で毎行37字、右側は銘文が刻されていたようですが、すでに切り取られていました。『金石録』跋によれば、この部分は北宋の元祐年間にはもうなくなっていたらしく、したがって現在、およそ1600余り字が数えられます。

    碑陰の文字は4㎝平方の大きさで縦18㎝、横89㎝のところに700文字以上がびっしりと書かれています。行間、字間はほとんどありません。

    顔勤礼碑の特徴

    顔勤礼碑と多宝塔碑の比較

    44歳に書かれた多宝塔碑たほうとうひと顔勤礼碑を比較してみると、多宝塔碑の方は肉太で力を入れた整斉な書風ですが、顔勤礼碑の方は縦画と横画の調子が軽妙であるため、スケールが大きく見え、かなり変化に富んだ印象を受けます。

    文字が四角のマスにおさまるように構築されていて、手足や頭が出ていません。それでも横画を鋭く細めに、縦画を丸く太めに書き、文字自体のなかに空気がたくさん吸収されているため、全体的に明るい印象をもちます。
    これは向勢にまとめられているからで、これこそ顔真卿の大きな特徴です。

    顔勤礼碑の書き方

    次に、顔勤礼碑の書き方を紹介します。

    横画の書き方

    横画の起筆には2通りの方法がみられます。

    顔勤礼碑の起筆比較

    「士」の1画目のように穂先をしっかりみせてするどいものと、「童」のようにまず穂先を進行方向と逆におろし、起筆をまるくしているものがあります。
    筆の入れ方によって線が穏やかになったり、厳しくなったりするので、よく見てください。

    運筆は、筆を入れてから一旦浮かし、最後までねばりのある線でのびやかさをもあらわして運んでいます。

    終筆は筆管を右下へねじるようにして柔らかな丸さを表現しています。

    縦画の書き方

    顔勤礼碑は向勢

    顔勤礼碑の縦画は向勢で書かれています。

    「仁」「同」のように起筆を緩やかにして、そのままの太さで運筆されています。ねばりと厚さが表現されていて、ゆっくりとした慎重な筆遣いが伝わってきます。

    また「中」のように下から筆を突き上げて穂先を丸めこんでから引きおとしたものもあります。
    この場合、筆を抜くところまでけっして気力をゆるめていません。つまり、先端に精神が宿るように運んでいます。この筆法を懸針けんしんと呼んでいます。

    九成宮や雁塔聖教序では針のようですが、顔勤礼碑では太くくいのようです。

    また、縦画が2本3本とならぶ文字でも、向勢の特徴を乱さないようないろいろな工夫がみられます。
    線の太さも変化しているので注意してみてください。

    左はらいの書き方

    左はらいにもさまざまな変化がみられます。

    顔勤礼碑の左はらい

    ①「軍」の2画目は強い打ち込みのあと細く鋭くなっています。
    短い左はらいは、起筆でしっかり押さえこんで反動をつけるような気持ちでで腰をあげ、左下へはねます。

    ②「後」では1画目と2画目とは筆の運びが違っています。
    やや短い「後」の2画目のようなはらいでは、先端まで鋭さを含みながらも表面には暖かさと柔らかさが加わっていいます。

    また、③「大」と④「君」の左ハライを比較してみると、進路の方向によって起筆や太さまでも違い、表情がかなり異なっています。

    右はらいの書き方

    顔勤礼碑の右ハライの書き方

    右はらいは、太らせながら最後に一旦止まり、再度逆もどりをして右へはねだします。太くゆったりとした様子は、横画の細さを比較すればわかりやすいでしょう。

    顔真卿の書は左はらいにくらべて右はらいにかなりのウエイトをおいています。それが顔真卿の特徴の1つでもあります。

    折れの書き方

    顔勤礼碑の折れ、転折の書き方

    折れは、横画から縦画への接点をやや細めにし、下へ引き下ろすにしたがって力が加わり、曲線を描きながら終筆までもってきています。中には線の内側は直線に近く、外側のみが曲線で肉太になっているものもあります。

    「加」のように、まず横画を引き、曲がり角で一旦筆を離し、再度縦画を書くものもあります。

    ハネの書き方

    顔勤礼碑のハネの書き方

    縦画からのハネは、上からおりてきた筆を一旦止めて少し上へもどし、再度左下へおろして左上方へ力をあふれださせます。
    九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめいの「事」では右へ向かって三角形を作るように押しますが、顔真卿の書ではジャンプするような動きがみられます。

    顔勤礼碑の乙脚のハネの書き方

    「尤」「兄」などの乙脚部分では、すぐにはねるのではなく、進んできた方向へ逆もどりするように筆をはじきだします。

    顔勤礼碑の上達には道具も大切

    ここまで顔勤礼碑の書き方を紹介してきましたが、これらの技法や筆づかいを表現するためには、適切な道具が不可欠です。
    特に筆の選び方は非常に重要です。適切な筆を使わないと、上達しないばかりか、間違った方法を覚えてしまうこともあります

    もし、「お手本通りにうまく書けない…」や「筆が思うように動かない…」と感じる方は、普段使っている筆を見直してみると良いかもしれません。

    書道筆「小春」は、その書きやすさと使いやすさから、多くの書道愛好者に支持されています。
    筆選びで迷っている方は「書道筆『小春』の魅力:初心者からプロまで愛される万能筆の秘密」を参考にしてみてください。

    まとめ

    ここまで顔勤礼碑について解説、特徴・書き方も紹介しました。

    自分の作品の中に重厚さをもたせたい。線が細いので、太い線のどっしりとした作品を創りたい。
    あるいは、自分の字は線と線の余白が狭く見えるので、ふところの大きなものにしたい。
    このように考えている方は、顔勤礼碑をはじめとする顔真卿の楷書を学べば、きっと自身の書風改善の大きな助けとなるでしょう。

  • 九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)の全文拓本画像【李琪本】

    九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)の全文拓本画像【李琪本】

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    九成宮醴泉銘【李琪本】#20
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    九成宮醴泉銘【李琪本】#49
    九成宮醴泉銘【李琪本】#50
    九成宮醴泉銘【李琪本】#51
  • 初唐の三大家とは?【彼らの功績・代表作品とその特徴】

    初唐の三大家とは?【彼らの功績・代表作品とその特徴】

    初唐しょとう三大家さんたいか』とは、中国のとう時代初期に活躍した書道家、欧陽詢おうようじゅん虞世南ぐせいなん褚遂良ちょすいりょうの3人を合わせた総称です。

    それぞれ独自の書風と特徴を持つ代表的な作品は、楷書の発展に大きく貢献しました。
    彼らは書道の歴史において非常に重要な存在となっています。

    この記事では、初唐しょとう三大家さんたいかそれぞれ3人の生涯や代表作、その書風などについて詳しく紹介します。

    初唐の三大家とは?

    初唐の三大家年表
    初唐の三大家年表

    中国とう時代に活躍した書道家のなかでも、特に優れた手腕をもち、後世に大きな影響を及ぼした3人の大家、欧陽詢おうようじゅん虞世南ぐせいなん褚遂良ちょすいりょうを「初唐しょとう三大家さんたいか」と呼んでいます。

    3人とも王羲之おうぎしの筆跡を熱心に学び、各書体をよくしましたが、とりわけ楷書の技法に傑出し、それぞれ特徴のある作品をのこしています。

    彼らは唐の太宗たいそう皇帝(唐の第2代皇帝)に仕えた官僚かんりょうで、太宗からの信頼が厚く、貴族や高官の弟子たちに書道を指導する役割を果たしたことでも知られています。

    なお、初唐の三大家と唐の中期に活躍した顔真卿がんしんけいをあわせて、「唐の四大家」と呼ぶこともあります。

    初唐の三大家の3人を紹介

    欧陽詢(おうようじゅん)

    欧陽詢おうようじゅん(557~641)は、並み外れて博学で聡明そうめいな人物であったといわれています。

    はじめずい時代には高官として仕え、唐時代においても政府の重鎮として活躍しました。

    唐の太宗のもとでは、厚い信頼を受けて、宮廷内の教育係として貴族や高官の弟子たちの書道の指導に当たりました。

    彼の代表作品である九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめい皇甫誕碑こうほたんひなどの端正で謹厳な書風の楷書は、後世「楷法の極則きょくそく」とまで称えられ、古くから楷書の典型として高い評価を受けています。

    子の欧陽詢おうようとう(?~691)も父に学んで楷書をよくしました。

    虞世南(ぐせいなん)

    虞世南像
    虞世南像

    虞世南ぐせいなん(558~638)は、体つきが弱々しいながらも芯が強く、決して正論を曲げることがなかったといわれています。

    欧陽詢と同じくずい時代から仕官し、とう時代においても高官として活躍しました。

    太宗たいそう皇帝は特に彼を重用し、自らも師とあおいで書道を学んだとされています。

    王羲之の7世の孫にあたる智永に書道を学んだといいます。

    楷書は代表作品の孔子廟堂碑こうしびょうどうひにみられるように、つよさを内に秘めた温雅な味わいに富んでいる点が特徴です。

    褚遂良(ちょすいりょう)

    褚遂良像
    褚遂良像

    褚遂良ちょすいりょう(596~658)は、優れた政治手腕をもって太宗たいそうに仕え、太宗が集めた王羲之おうぎしの書跡が本物かどうかを1つも間違えることなく鑑定したといわれています。

    王羲之おうぎしの書を学び、楷書は虞世南ぐせいなん欧陽詢おうようじゅんの書法に立脚りっきゃくしつつ、晩年ばんねんには筆圧の変化に富む躍動やくどう感に満ちた独特な書風を打ち立てました。
    雁塔聖教序がんとうしょうぎょうじょはその代表例です。

    初唐の三大家の代表作品を紹介

    欧陽詢の代表作品「九成宮醴泉銘」

    九成宮醴泉銘
    九成宮醴泉銘

    九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめいは、とう太宗たいそうが、夏の暑さを避けるための離宮(九成宮)から、き水が出たことを喜んで、当時の学者魏徴ぎちょうに文を作らせ、欧陽詢おうようじゅんに書かせた石碑のことです。

    九成宮醴泉銘は欧陽詢の代表作品で、後世「楷法かいほう極則きょくそく」と評価されています。

    欧陽詢の楷書は、「欧法おうほう」と呼ばれ、厳密で切れ味鋭い筆法の、端正な字形により、厳正な楷書の美しさを表現しています。

    虞世南の代表作品「孔子廟堂碑」

    孔子廟堂碑
    孔子廟堂碑

    孔子廟堂碑こうしびょうどうひは、初唐の三大家の1人である虞世南ぐせいなんの晩年の書です。

    とう太宗たいそうが、即位後、長安ちょうあん孔子廟こうしびょうを再建した際の記念碑で、文も虞世南が作りました。

    虞世南の楷書は、「虞法ぐほう」と呼ばれ、よく整った字形で、明るく穏やかな用筆・運筆であり、横画や右払いがのびのびと書かれています。

    欧陽詢の書とは違った独特の気品と温雅なおもむきが感じられます。

    虞世南と欧陽詢は、ずい・唐の2王朝に仕え、ともに唐の太宗に重んじられたことでも知られています。

    褚遂良の代表作品「雁塔聖教序」

    雁塔聖教序
    雁塔聖教序

    雁塔聖教序がんとうしょうぎょうじょは、初唐の三大家の1人、褚遂良ちょすいりょうの書です。

    玄奘げんじょう法師がインドから持ち帰った仏典を漢訳した大事業をたたえて、太宗たいそう皇帝が序文を作り、皇太子(後の高宋こうそう)による記の文とともに2つの碑に刻しました。

    長安ちょうあん(現在の西安せいあん市)の慈恩寺じおんじ大雁塔だいがんとうに安置されたのでこの名前がつけられました。

    褚遂良の楷書は、法と呼ばれ、筆の弾力を生かした自在で軽快な筆遣いに特色があります。

    まとめ:初唐の三大家は楷書の名家の総称

    ここまで「初唐の三大家」の3人についてと、その代表作品を紹介しました。

    中国のとう時代は彼らの活躍もあり、楷書が流行した時代であり、文化活動が盛んに行われた豊かな時代でした。

    書道の世界では、楷書の臨書をするならまずこの「初唐の三大家」からはじめるのが基本となっています。
    とくに、欧陽詢おうようじゅんの代表作『九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめい』は、学校で習う楷書の字形の参考にも使われており、もっとも最初にとりくむべき古典でしょう。

    九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめい』については、「九成宮醴泉銘について詳しく解説/臨書の書き方のコツ/気をつけたい3つの特徴を紹介」で解説しています。

  • 柳公権の玄秘塔碑(げんぴとうひ)について解説

    柳公権の玄秘塔碑(げんぴとうひ)について解説

    中国とう時代の書道家柳公権りゅうこうけんは、「とうの四大家」の1人、顔真卿がんしんけいの第1の後継者として有名です。

    顔真卿は、どくとくな書風の楷書で有名ですが、柳公権はその書風を受け継ぎました。

    今回は、そんな顔真卿がんしんけいの弟子柳公権りゅうこうけんの代表作品である「玄秘塔碑げんぴとうひ」について紹介します。

    柳公権について

    柳公権像
    柳公権像

    柳公権りゅうこうけん(778年〈大暦13年〉~865年〈咸通6年〉)は、京兆華原県けいちょうかげんけん(陝西)の人です。

    あざな誠懸せいけん

    河東かとうの名族りゅう氏の出で、父の子温しおん丹州刺史たんしゅうしし、兄の公綽こうしゃく御史大夫ぎょしたいふ、山南東道節度使せつどし兵部尚書へいぶしょうしょなどを歴任した大官で、柳公権はこうした家庭環境のなかで育ちました。

    幼少より学問を好み、『新唐書』は12歳にしてすでに辞賦じふに巧みであったといい、経学けいがくに明るく、とりわけ春秋左氏しゅんじゅうさしでんに精通していました。

    806年(元和初年)、科挙かきょ(官僚登用試験)に合格して進士しんしに及第し、秘書省ひしょしょう校書郎こうしょろうとなり、その後、兄公綽こうしゃく斡旋あっせんにより右司郎中うしろうちゅう弘文館学士こうぶんかんがくしとなりましたが、ほとんど侍書学士として穆宗ぼくそう敬宗けいそう文宗ぶんそう宣宗せんそうの緒帝に仕え、とくに文宗ぶんそうの信任を得て、中書舎人ちゅうしょしゃじん翰林侍書学士りんかんじしょがくしに任命されました。838年(開成3年)工部侍郎こうぶじろうに転じ、学士承旨がくししょうしにうつります。

    やがて武宗ぶそうがたつと右散騎常侍うさんきじょうじとなり、さらに集賢院学士しゅうけんいんがくし知院事ちいんじとなりますが、李徳裕りとくゆうに嫌われて

    太子詹事たいしせんじ(皇太子付きの閑職)に左遷させんされ、賓客ひんきゃくに改められました。

    李徳裕りとくゆうは国粋主義・理想主義を標榜する門閥派の領袖で、一方の現実主義的な牛僧孺ぎゅうそうじゅ派と対立していたのですが、柳公権は後者に属していたため地位を下げられてしまったのです。

    しかし、地方へ追いやられることもなく、40年以上も中央政府におり、その間、文芸と書をもって緒帝に奉仕するにふさわしい官職を与えられました。

    宣宗せんそう大中だいちゅう年間、河東郡かとうぐん開国公かいこくこうに封ぜられ、国子祭酒にこくしさいしゅ復し、工部尚書こうぶしょうしょをへて、太子少傅たいししょうふより同少師しょうしに進みましたが、やがて太子太保たいしたいほをもって官職を引退し、865年(咸通6年)88歳で亡くなり、太子太師たいしたいしおくられました。

    書道家としての柳公権

    柳公権は、よく「顔柳二家」と並称されるように、顔真卿がんしんけいの第1の後継者として有名です。

    顔真卿がんしんけい安禄山あんろくざんの乱によって突如として歴史の上に登場し、李希烈りきれつの乱において悲劇の主人公として凜烈な生涯を終えたのに対し、
    柳公権の方は官僚としても平穏な道を歩み、その間に書家として大成し、盛名一時に高くなりました。

    彼が研究した近代の筆法とは、やはり顔真卿の書法が中心になっていたでしょう。

    柳公権は行書、草書も巧みであったといいますが、やはり楷書の名手ということができます。

    楷書の作品例としては、

    • 金剛経こんごうきょう(長慶4年・47歳)
    • 李晟碑りせいひ(太和3年・52歳)
    • 馮宿碑ふうしゅくひ(開成2年・60歳)
    • 符璘碑ふりんひ(開成3年・61歳)
    • 玄秘塔碑げんぴとうひ(会昌元年・64歳)
    • 神策軍紀聖徳碑しんさくぐんきせいとくひ(会昌3年・66歳)
    • 劉沔碑りゅうべんひ(大中2年・71歳)
    • 高元裕碑こうげんゆうひ(大中7年・76歳)
    • 魏公先廟󠄀碑ぎこうせんびょうひ(大中10年・79歳)

    などが挙げられます。

    柳公権の碑刻は、顔真卿の碑と同じようにその数の多く、これらのなかでも彼の代表作品として古来謳われるのが今回紹介する玄秘塔碑げんぴとうひです。

    玄秘塔碑について

    玄秘塔碑げんぴとうひは、大達法師だいたつほうし端甫たんほの業績と、その遺骨が納められた塔である玄秘塔げんぴとうの由来を記した碑です。

    碑石は現在も陝西省博物館せんせいしょうはくぶつかん(西安碑林)に保管されています。

    篆額12字「唐故左街僧録大達法師碑銘」が3行4字で書かれ、碑身は28行、毎行54字に区画されています。
    額、本文ともに柳公権の書です。このとき柳公権は64歳です。

    文章を考えた撰者は裴休はいきゅうです。

    碑の主人公端甫(たんほ)について

    碑の主人公である端甫たんほ(770~836)は、陝西せんせい天水てんすいの人です。俗姓はちょう氏。

    長安ちょうあん安国寺あんこくじの僧侶で、797年(貞元13年)徳宗皇帝に召されて信任を得て、常に宮廷に出入りして皇太子(のちの順宗)に親侍し、のち憲宗の知遇を得て、806年(元和元年)には左街僧録(寺院の総取締役)・内供奉となりました。

    その後、内外の尊崇を受け、多くの優れた門弟にめぐまれながら、文宗の836年(開成元年)6月1日、67歳で亡くなりました。
    それから5年後の841年(会昌元年)にいたりこの玄秘塔碑が建てられました。

    碑の文章を考えた裴休(はいきゅう)について

    文章を作った撰者の裴休はいきゅうは、河南かなん済源せいげんの人で、字は公美こうび

    進士しんしに及第して官途かんとに就き、宣宗の852年(大中6年)から宰相の位に就き、財政方面で活躍しました。熱心な仏教信者で、僧侶との交友も広く、彼自身も仏典を深く研究し、教理にも精通していました。

    文章に長け、柳公権りゅうこうけんの影響を受けて書も得意だったようです。
    彼の代表作品である圭峰褝師碑けいほうぜんじひには柳公権が篆額を書いており、この玄秘塔碑とともに2人の親密な関係をうかがい知ることができます。

    玄秘塔碑の特徴

    玄秘塔碑を書いた柳公権は、顔真卿の弟子なので、顔真卿の書風に似ています。

    よく「顔筋柳骨」という言葉があるように、柳公権の書は顔真卿に比べると線が細く、骨ばっています。

    字形も顔真卿のように方形ではなく、やや縦長です。

    そして字形と筆遣いをよく整理し、洗練された結果、顔真卿よりもみるからに骨ばり、縦長の字形の美しさだけが目立つようになりました。

  • 【顔真卿の楷書】多宝塔碑(たほうとうひ)について解説/特徴・書き方・内容/臨書に使える全文画像

    【顔真卿の楷書】多宝塔碑(たほうとうひ)について解説/特徴・書き方・内容/臨書に使える全文画像

    顔真卿がんしんけいは、中国とう時代に活躍した書道家です。

    彼の楷書は独特な書風をしていることで有名で、その代表作品には「顔氏家廟碑がんしかびょうひ」「麻姑仙壇記まこせんだんき」「多宝塔碑たほうとうひ」「顔勤礼碑がんきんれいひ」などがあります。

    今回は、そのなかでも古来、書道初心者の手本としてよく用いられてきた「多宝塔碑たほうとうひ」について解説します。

    多宝塔碑(たほうとうひ)について

    多宝塔碑 整本
    多宝塔碑 整本

    多宝塔碑たほうとうひは、中国とう時代の752年(天宝11年)、顔真卿がんしんけいが44歳、武部員外郎ぶぶいんがいろう在任中の作品です。 

    長安ちょうあん千福寺せんぷくじ楚金褝師そきんぜんじ舎利塔しゃりとう(お釈迦様の遺骨が納められた塔)を建てた経緯を勅命により記したものです。

    碑はもともと陝西省せんせいしょう興平こうへい県の千福寺にありましたが、みん時代に西安せいあんの府学に移され、現在は陝西省博物館せんせいしょうはくぶつかん西安碑林せいあんひりんの第二室に保管展示されています。

    螭首ちしゅをもつ碑石の高さは約239㎝、幅127㎝で、亀趺きふ(台)の上にたっているため全体の高さは3m近くもあります。

    碑文は34行、毎行66字、全部で2000字あります。

    螭首の中央には2行8字の隷書の題額「大唐多宝塔感応碑だいとうたほうとうかんのうひ」が書かれています。
    この題字は顔真卿の先輩徐浩じょこう(703~782・浙江越州のひと)が書いたもので、骨格のしっかりした見事な出来栄えです。

    碑の文章は岑勛しんくんの撰です。

    作者の顔真卿について

    伝顔真卿肖像 『歴代聖賢半身像』より
    伝顔真卿肖像 『歴代聖賢半身像』より

    筆者の顔真卿がんしんけい(709~785)は、琅邪臨沂ろうやりんぎ(山東省)の人。あざな清臣せいしん

    学家に生まれた顔真卿は、早く父を失ったので、伯父および兄の允南いんなんから教育を受け、若いころから書をよくし、博学で辞章に優れていました。

    743年(開元22年)には、科挙かきょ(官僚登用試験)に合格して進士しんしとなりました。

    755年(天平14年)、安禄山あんろくざんの乱がおこったとき、平原太守であった顔真卿は義兵を挙げ、大功をたてました。
    その活躍ぶりから武将のイメージが強いですが、もともとは文官で、玄宗げんそう粛宗しゅくそう代宗だいそう徳宗とくそうの4代に仕え、書人としても初唐の三大家とあわせて四大家に数えられています。

    顔真卿について詳しく知りたい方は「顔真卿(がんしんけい)について詳しく解説【彼の壮絶な人生、書風の特徴、書き方を解説」をチェックしましょう。

    多宝塔碑の内容

    多宝塔碑の内容を紹介します。

    西京さいきょう龍興寺りゅうこうじの僧楚金そきん(695~759)が静夜に法華経ほけきょう(お経)を唱えて修行中、多宝塔が目前に現れました。

    その霊感に感激して多宝塔建立の計画をたて、許王瓘きょおうかん趙崇ちょうすう普意ふいの賛助・寄付を受け、場所を千福寺せんぶくじに選び、742年(天宝元年)に着工しました。

    翌天宝2年、朝廷から多宝塔の額をもらい、天宝4年に工事を完成、毎年春秋の2回、同行大徳49名を集めて法華三昧ほっけざんまいを修行することを恒式とする勅許を受けました。

    また法華経ほけきょう菩薩戒経ぼさつかいきょう観普賢行経かんふげんこうぎょうを血書し、皇帝や民衆のために1000部の法華経を書写して塔中に置いたこと、大量の舎利しゃりを感得したことなどを列挙し、さらに法華経がいかに優れたものであるかを述べ、法華経信仰に立つ楚金そきん禅師の事業を称賛しています。

    多宝塔碑の特徴

    多宝塔碑たほうとうひは、顔真卿が壮年そうねんの時に書いたもののせいか、さらに後の楷書碑にくらべてやや固い感じがします。
    用筆は厳正、字形は緊密で、一点一画をもゆるぎません。

    入筆は蔵鋒、
    晩年のような「向勢こうせい」の構えは現れず、縦画はどれも垂直、
    蚕頭燕尾さんとうえんび」のはねは現れず、普通にはらっています。

    この多宝塔碑は古来、書道初心者の手本としてよく用いられてきました。それは字形の整斉、法度をまもった書であることに加えて、碑の保存状態がよく、碑文がはっきりしていることが理由でしょう。

    多宝塔碑(顔真卿)への評価

    ここで、多宝塔碑(顔真卿)について評価した書論しょろんがあるため紹介します。

    或曰、公之於書、殊少媚態。又似太露筋骨。安得越虞褚而偶義献耶。答曰、公之媚非不能、恥而不為也。退之嘗云、羲之俗書姿媚。蓋以為病耳。求合流俗、非公志也。又其大露筋骨者、蓋欲不踵前蹟、自成一家。豈与前輩競其妥帖研媸哉。今所伝《千福寺碑》、公少為武部員外時也。遒勁婉熟、已与欧虞徐沈晩筆相上下。而魯公中興以後、筆迹迥与前異者、豈非年彌高学愈精耶。以此質之、則公於柔媚円熟、非不能也、恥而不為也。

    『続書断』神品・顔真卿

    ある人は、「顔真卿の書はなまめいた美しさに欠ける。またことさら筋骨を露呈しているようだ。このような書がどうして虞世南や褚遂良をさしおいて、王羲之や王献之に比肩できようか」と評価する。
    それには、「顔真卿はなまめいた美しさを表現できないのではなく、恥じてそうしないのである。韓愈はかつて『王羲之の俗な書は見た目の姿の美しさに走ったのだ』と言った。その点を王羲之の欠点と考えたのであろう。世俗に迎合するのは、顔真卿の意図するところではない。また筋骨をことさら露呈するのは、先人の書風を踏襲せず、みずから一家をなそうとするものと思われる。現在伝わる《千福寺多宝塔碑》は、顔真卿が若くして武部員外郎になった時の作品である。力強く円熟しており、すでに欧陽詢・虞世南・徐浩・沈伝師の晩年の筆に匹敵するほどである。しかし、唐の中興以後、顔真卿の筆跡が一変したのは、年をとるにつれて書学にますます精通したからではないだろうか。このことから考えると、顔真卿はなまめいた美しさや円熟味を表現できなかったのではなく、恥じてそうしなかったのである」と答えよう。

    臨書に使える多宝塔碑の全文画像

    多宝塔碑#1
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    多宝塔碑#2
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    多宝塔碑#3
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    多宝塔碑#4
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    多宝塔碑#6
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    多宝塔碑#7
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    多宝塔碑#9
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    多宝塔碑#18
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    多宝塔碑#19
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    多宝塔碑#20
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    多宝塔碑#21
    多宝塔碑#21
  • 雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)の臨書に使える全文拓本画像・釈門

    雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)の臨書に使える全文拓本画像・釈門

    雁塔聖教序の臨書に使える全文拓本画像・釈門

    雁塔聖教序#1
    雁塔聖教序#1 ※クリック/タップで拡大

    大唐三蔵聖教序。太宗文皇帝製。
    盖聞。二儀有象。顯覆載以含生。四時無形。潛寒暑以化物。是以窺天鑒地。庸愚皆識其端。明隂洞陽。賢哲罕窮

    雁塔聖教序#2
    雁塔聖教序#2 ※クリック/タップで拡大

    其數。然而天地苞乎隂陽。而易識者。以其有象也。陰陽處乎天地。而難窮者。以其無形也。故知。象顯可徴。雖愚不惑。形潛莫覩。在智猶迷。況乎佛道

    雁塔聖教序#3
    雁塔聖教序#3 ※クリック/タップで拡大

    宗虚。乗幽控寂。弘濟萬品。典御十方。擧威靈而無上。抑神力而無下。大之則弥於宇宙。細之則攝於豪釐。無滅無生。歴千劫而不古。若隠若顯。運百

    雁塔聖教序#4
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    福而長今。妙道凝玄。遵之莫知其際。法流湛寂。挹之莫測其源。故知。蠢蠢凡愚。區區庸鄙。投其旨趣。能無疑惑者哉。然則大教之興。基乎西土。騰漢

    雁塔聖教序#5
    雁塔聖教序#5 ※クリック/タップで拡大

    庭而皎夢。照東域而流慈。昔者分形分蹟之時。言未馳而成化。當常現常之世。人仰徳而知遒。及乎晦影歸真。遷儀越世。金容掩色。不鏡三千之光。

    雁塔聖教序#6
    雁塔聖教序#6 ※クリック/タップで拡大

    麗象開圖。空端四八之相。於是微言廣被。拯含類於三途。遺訓遐宣。導羣生於十地。然而真教難仰。莫能一其指歸。曲學易遵。邪正於焉紛糺。所以

    雁塔聖教序#7
    雁塔聖教序#7 ※クリック/タップで拡大

    空有之論。或習俗而是非。大小之乗。乍沿時而隆替。有玄奘法師者。法門之領袖也。幼懐貞敏。早悟三空之心。長契神情。先苞四忍之行。松風水月。未

    雁塔聖教序#8
    雁塔聖教序#8 ※クリック/タップで拡大

    足比其清華。仙露明珠。詎能方其朗潤。故以智通無累。神測未形。超六塵而迥出。隻千古而無對。凝心内境。悲正法之陵遅。栖慮玄門。慨深文之訛

    雁塔聖教序#9
    雁塔聖教序#9 ※クリック/タップで拡大

    謬。思欲分條析理。廣彼前聞。截偽續真。開茲後學。是以翹心浄土。往遊西域。乗危遠邁。杖策孤征。積雪晨飛。塗間失地。驚砂夕起。空外迷天。萬里山

    雁塔聖教序#10
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    川。撥煙霞而進影。百重寒暑。躡霜雨而前縦。誠重勞軽。求深願逹。周遊西宇。十有七年。窮歴道邦。詢求正教。雙林八水。味道飡風。鹿菀鷲峯。瞻奇仰

    雁塔聖教序#11
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    異。承至言於先聖。受真教於上賢。探賾妙門。精窮奥業。一乗五律之道。馳驟於心田。八蔵三篋之文。波濤於口海。爰自所歴之國。揔将三蔵要文。凡

    雁塔聖教序#12
    雁塔聖教序#12 ※クリック/タップで拡大

    六百五十七部。譯布中夏。宣揚勝業。引慈雲於西極。注法雨於東垂。聖教缺而復全。蒼生罪而還福。濕火宅之乾燄。共拔迷途。朗愛水之昬波。同臻

    雁塔聖教序#13
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    彼岸。是知。悪因業墜。善以縁昇。昇墜之端。惟人所託。譬夫桂生高嶺。雲露方得泫其花。蓮出淥波。飛塵不能汙其葉。非蓮性自潔。而桂質本貞。良由

    雁塔聖教序#14
    雁塔聖教序#14 ※クリック/タップで拡大

    所附者高。則微物不能累。所憑者淨。則濁類不能霑。夫以卉木無知。猶資善而成善。况乎人倫有識。不縁慶而求慶。方冀茲経流施。将日月而無窮。

    雁塔聖教序#15
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    斯福遐敷。與乾坤而永大。
    永徽四年歳次癸丑十月己卯朔十五日癸巳建。
    中書令臣褚遂良書。
    大唐皇帝述三蔵

    雁塔聖教序#16
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    聖教序記。
    夫顯揚正教。非智無以廣其文。崇闡微言。非賢莫能定其旨。盖真如聖教者。諸法之玄宗。衆経之軌躅也。綜括宏遠。奥旨遐深。極

    雁塔聖教序#17
    雁塔聖教序#17 ※クリック/タップで拡大

    空有之精微。體生滅之機要。詞茂道曠。尋之者。不究其源。文顯義幽。理之者。莫測其際。故知。聖慈所被。業無善而臻。妙化所敷。縁無悪而不翦。開

    雁塔聖教序#18
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    法網之綱紀。弘六度之正教。拯羣有之塗炭。啓三蔵之秘扃。是以名無翼而長飛。道無根而永固。道名流慶。歴遂古而鎮常。赴感應身。経塵劫而不

    雁塔聖教序#19
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    朽。晨鍾夕梵。交二音於鷲峯。慧日法流。轉雙輪於鹿菀。排空寶盖。接翔雲而共飛。荘野春林。與天花而合彩。伏惟。皇帝陛下。上玄

    雁塔聖教序#20
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    資福。垂拱而治八荒。徳被黔黎。斂衽而朝萬國。恩加朽骨。石室歸貝葉之文。澤及昆蟲。金匱流梵説之偈。遂使阿耨達水。通神甸之八川。耆闍崛山。

    雁塔聖教序#21
    雁塔聖教序#21 ※クリック/タップで拡大

    接嵩華之翠嶺。窃以。法性凝寂。靡歸心而不通。智地玄奥。感懇誠而遂顯。豈謂重昬之夜。燭慧炬之光。火宅之朝。降法雨之澤。於是百川異流。同會

    雁塔聖教序#22
    雁塔聖教序#22 ※クリック/タップで拡大

    於海。万區分義。揔成乎實。豈與湯武校其優劣。堯舜比其聖徳者哉。玄奘法師者。夙懐聡令。立志夷簡。神清齓齓之年。體拔浮華之世。凝情定室。匿

    雁塔聖教序#23
    雁塔聖教序#23 ※クリック/タップで拡大

    跡幽巌。栖息三樿。巡遊十地。超六塵之境。獨歩伽維。會一乗之旨。随機化物。以中華之無質。尋印度之真文。遠渉恒河。終期満字。頻登雪嶺。更獲半

    雁塔聖教序#24
    雁塔聖教序#24 ※クリック/タップで拡大

    珠。問道往還。十有七載。備通釋典。利物為心。以貞觀十九年二月六日。奉勅於弘福寺。翻譯聖教要文。凡六百五十七部。引大海之法流。洗塵勞而

    雁塔聖教序#25
    雁塔聖教序#25 ※クリック/タップで拡大

    不竭。傳智燈之長燄。皎幽暗而恒明。自非久植勝縁。何以顯揚斯旨。所謂法相常住。齊三光之明。我皇福臻。同二儀之固。伏見

    雁塔聖教序#26
    雁塔聖教序#26 ※クリック/タップで拡大

    御製衆経論序。照古騰今。理含金石之聲。文抱󠄁風雲之潤。治輒以軽塵足嶽。墜露添流。略擧大綱。以為斯記。皇帝在春宮日製此文。

    雁塔聖教序#27
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    永徽四年歳次癸丑。十二月戊寅朔十日丁亥建。
    尚書右僕射上柱國河南郡開國公臣褚遂良。書萬文韶刻字。

  • 九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)の全文拓本画像/日本端方旧蔵海内第一本/三井文庫蔵

    九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)の全文拓本画像/日本端方旧蔵海内第一本/三井文庫蔵

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    九成宮醴泉銘の題額#1
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    九成宮醴泉銘の題額#2
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    九成宮醴泉銘#6
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  • 高貞碑(こうていひ)について解説/碑の内容・特徴・釈門なども

    高貞碑(こうていひ)について解説/碑の内容・特徴・釈門なども

    高貞碑(こうていひ)について

    高貞碑の全体
    高貞碑の全体

    高貞碑こうていひは、中国北魏ほくぎ時代、西暦523年に建てられた碑で、高貞こうていという人物について書かれています。

    題額は12文字「魏故営州刺史懿侯高君之碑」は4行、1行3字で陽刻されています。その書風は装飾的な篆書で、めずらしいです。

    碑文は楷書で24行、毎行46字に陰刻され、末行に「大代正光四年歳次癸卯月管黄鐘六月…」の年紀があります。

    文章をつくった撰文者せんぶんしゃ、文字の筆者については記載がなく不明です。

    高貞碑は久しく埋没まいぼつしていましたが、近年になり山東省徳健県の衛河第三屯より出土しました。このあたりはこう氏一族が繁栄した地域です。

    碑は現在、山東省博物館に隣接する山東省文物高校研究所に保管されています。

    碑の大きさは、高さ約230余り㎝、幅90余り㎝、厚さ20余り㎝です。

    高貞碑は「徳州三高碑」の1つ

    高貞碑こうていひは、高慶碑こうけいひ高湛墓誌こうたんぼしとともに書風がとくに優れているため、「徳州三高碑」と称され、推賞されています。

    高貞の弟と思われる高慶こうけいの碑は、おそらく同一筆者によるもので、高貞碑よりすこし遅れて1897年(光緒23年)に出土しました。

    高湛は高貞の従兄弟にあたると思われる人物で、その墓誌は東魏の539年(元象2年)10月のものです。1749年(乾隆14年)に徳州の運河東岸が決壊したときに出土しました。

    高慶碑こうけいひ高湛墓誌こうたんぼしどちらも優れた作品です。

    高貞について

    碑の主人公である高貞こうていについて詳しく紹介します。

    高貞こうてい(489~514)は、『魏書ぎしょ』などには出てきませんが、碑文によるとあざな羽真うしん渤海ぼっかいしゅう(今の徳州とくしゅう)の人、高偃こうえんの子とあります。

    山東渤海さんとんぼっかいの一大豪族こう氏は、北魏ほくぎから北斉ほくせいにかけてもっとも盛んであり、皇帝の外戚がいせき(母方の親戚)になる名門でした。

    父の高偃こうえんについては、『魏書』(巻83下・列伝外戚第71下)の高肇こうちょうに付記されています。
    高肇こうちょうが一族のなかでもっとも高位にのぼったからでしょう。

    高肇こうちょうの長兄はこんで、渤海郡公ぼっかいぐんこうおそいましたが、早くに亡くなりました。高偃こうえんもまた兄にあたり、字は仲游ちゅうゆう安東将軍あんとんしょうぐん都督青州刺史ととくせいしゅうししに任命され、亡くなった後に荘侯そうこうおくりなされました。

    高肇こうちょうの妹は文昭皇后ぶんしょうこうごうであり、高偃こうえんのむすめ、すなわち高貞こうていの姉は宣武皇后せんぶこうごうとなっています。

    高貞こうていはこのような名門に生まれ、皇帝の外戚がいせきということもあって秘書郎ひしょろうとなり太子洗馬たいしせんばに任命されましたが、延昌えんしょう3年にわずか26歳で亡くなくなりました。

    若くして亡くなってしまったため、閲歴には特記することはありませんが、没後に䮾驤将軍ほうじょうしょうぐん営州刺史えいしゅうししという高位を追贈ついぞうされ、懿侯いこうおくりなされました。

    碑首の「魏故䮾驤将軍営州刺史高使君懿侯碑銘」と書かれているのは亡くなった後に贈られた官位を示すものです。

    高貞碑(こうていひ)の特徴

    高貞碑の特徴としては、一般に方正、または整斉といわれています。

    高貞碑は北魏の碑の中では比較的遅い方の作品で、張猛龍碑ちょうもうりゅうひと並ぶ北碑の代表名作ですが、北魏様式の強さという点からみると少し弱いように感じられます。

    これは作者が北朝特有の力を外に張る筆法よりも、南朝の内に蔵する構成の巧みさに重きを置いたからでしょう。

    異体字などもかなり多く使用されていますが、点画は明瞭で整然とそろっており、字形の経妙さ、筆力の強さ、抑揚の変化など、技術的にも高度なものを誇示しています。

    汪鋆おういんは『十二硯斎金石過眼録』のなかで
    「文は仍ち六朝の風格、書勢は遒麗平正、これ魏碑の佳なる者なり」
    といい、
    楊守敬ようしゅけいは『平碑記』に
    「書法は方整にして、寒険の気無し」
    と評価しています。

    つまりは穏やかな中にも厳しさ、強さを蔵しているというのです。

    高貞碑の方正な書風は潘存はんそん楊守敬ようしゅけいの影響を受けて、日本においても明治時代以降、日下部鳴鶴くさかべめいかくらおおくの書道家がこの碑を習っています。

  • 消息経(しょうそくぎょう)について解説/消息経の遺品も紹介 

    消息経(しょうそくぎょう)について解説/消息経の遺品も紹介 

    消息経(しょうそくぎょう)とは

    消息経(しょうそくきょう)は、故人の供養方法の1つで、生前に送られた手紙を集めて、き返し、色紙に染めて、写経したものです。

    もともと平安へいあん時代では、手紙のことを、消息しょそこふみ書札しょさつなど、いろいろな呼び方がされていました。

    消息経しょうそくきょうという呼び方がとくに用いられるようになったのは、明治めいじ時代中期からで、美術史や書道史の学問が次第に固められていく過程に生まれた専門用語です。

    したがって、これら手紙をき返して写経したものを、今日では一般に消息経とよんでいます。

    消息経が行われた記録

    消息経のことが記録にはじめてみえるのは、『日本紀略にほんきりゃく』(886年(仁和2)10月29日条)です。

    二十九日甲戌。正二位藤原朝臣多美子薨ず。右大臣贈正一位良相の少子にして、清和天皇の女御なり。天皇入道の日、出家して尼となる。晏駕あんが(天皇が亡くなる)の後、平生賜うところの御筆の手書を収拾して、紙をつくり、もって法花経を書し、大斎会を設けて、上皇の恩徳に酬い奉るなり。

    『日本紀略』(886年(仁和2)10月29日条)

    この記録は、清和天皇せいわてんのう女御にょうご藤原多美子ふじわらのたみこが亡くなったことを伝えるものです。

    内容としては、
    清和天皇せいわてんのうとともに、879年(元慶3)5月8日、落飾らくしょくしてあま(出家して仏門にはいった女性)となりました。清和天皇は、その翌年12月4日、31歳の若さで亡くなります。追慕ついぼの情もだしがたく、この女は生前清和天皇からもらっていた自筆の手紙や文書などを取り集めて、それを料紙に仕立てて、みずから筆を運んで『法華経ほけきょう』を書写した
    といいます。

    この文章から、亡くなった人をしのんで、その人の筆跡がしたためられた紙に写経するという文化があったことがわかります。

    消息経の料紙の仕立て方

    手紙の紙を写経の料紙として仕立てるときの方法を紹介します。

    主に以下の3つの方法があります。

    1. 手紙をこん色に染めて、その上に金泥の写経をする。
    2. 手紙の反故を水に浸してつき砕き、煮て、その繊維を再度き直す。
    3. 手紙の紙をそのまま継いで、表面にそのまま直接写経する、裏面の白紙の部分に写経するもの。あるいは表面に雲母きらをぬって文字を隠して、その上に写経する。

    1番は、手紙の文字が書かれた紙をあい染汁そめしるに何度も何度も紙をけて乾かし、また浸けて乾かし、という操作の繰り返すことで染め上げたものです。
    これによって、紙がこん色になるので、もともと書かれていた手紙の文字も見えなくなります。

    消息経の遺品を紹介

    消息経の遺品を紹介します。

    1. 宝篋印陀羅尼経ほうきょういんだらにきょう 1巻 大阪・金剛寺蔵
    2. 仏説転女成仏経ぶっせつてんにょじょうぶっきょう 1巻 東京国立博物館蔵
    3. 大毘盧遮那だいぴるしゃな成仏神変加持経じょうぶつじんぺんかじきょう巻第四 1巻 奈良国立博物館
    4. 金字阿弥陀経きんじあみだきょう 1巻 栃木・輪王寺蔵
    5. 仏頂尊勝陀羅尼ぶっちょうそんしょうだらに 1巻 大東急記念文庫蔵

    1,2は平安時代の遺品、3,4,5は鎌倉時代のものです。

    宝篋印陀羅尼経

    1番の宝篋印陀羅尼経ほうきょういんだらにきょうは、さまざまな反故ほごを継いで1巻をつくり、金泥のかいを引いて、金泥きんでいで書写をしています。反故の表面に、そのまま直接写経をしています。

    反故にはいろいろなものがあり、消息(1通)・歌集(未詳・46首)・今様いまようの歌詞(13首・平安時代の歌の1つ。七五調の4句からなる。和賛をもととしたものがおおく、とくに平安末期に流行しました)・願文や結縁けちえん文などが継がれています。

    今様いまようは、後白河法皇の『梁塵秘抄りょうじんひしょう』などとともに、数少ない平安末期の今様の歌詞を補う点で貴重な遺品です。

    書写年代については、中の
    「嘉応2年(1170)8月15(日)馳疎筆了。安応聖囚最末弟砂門寂真」
    から把握できます。

    仏説転女成仏経

    仏説転女成仏経
    仏説転女成仏経
    仏説転女成仏経

    2番の仏説転女成仏経ぶっせつてんにょじょうぶっきょうは、仮名の消息2枚を継いだ、短い写経です。

    その上にじかに金泥きんでいで文字を書いています。

    消息部分は、大ぶりな仮名文字でかかれています。それを書いた人の追善のための写経供養であると考えられます。

    大毘盧遮那成仏神変加持経巻第四

    大毘盧遮那成仏神変加持経 巻第四
    大毘盧遮那成仏神変加持経 巻第四 上
    大毘盧遮那成仏神変加持経 巻第四
    大毘盧遮那成仏神変加持経 巻第四 中
    大毘盧遮那成仏神変加持経 巻第四
    大毘盧遮那成仏神変加持経 巻第四 下

    3番の大毘盧遮那だいぴるしゃな成仏神変加持経じょうぶつじんぺんかじきょう巻第四は、ふつう『大日経』とよばれるもので、7巻からなります。

    仮名の消息を継ぎ足した、長い1巻です。

    両氏の両面、仮名の文字の上を雲母きらで塗りつぶしていますが、文字の判読は可能です。変転自在、流麗な仮名消息が書かれています。

    巻末にみえる、明治8年7月、東大寺惣持院住職佐保山晋円の筆によれば、仮名の消息の筆者を但馬守平経政、そして、経文の書写者は仁和寺の守覚法親王(1150~1202)といいます。

    金字阿弥陀経

    4番の金字阿弥陀経は、金銀の切箔きりはくをちりばめた華麗な装飾経そうしょくきょうです。金泥で『阿弥陀経あみだきょう』の経文を書写しています。

    本紙の第2紙あたりに、金銀の箔越しに、地紙に美しい仮名文字がみえます。読んでみると、

    あさひかげにほへるやまのさくらばな
    つれなくきえぬきかとぞみる

    と書いてあります。

    歌は新古今和歌集時代の代表歌人である藤原有家ありいえ(1155~1216)の歌で、『千五百番歌合』に収められているものです。

    仏頂尊勝陀羅尼

    仏頂尊勝陀羅尼ぶっちょうそんしょうだらには、ごくふつうの消息経です。

    この経の書写者は明らかではありませんが、珍しく巻末に奥書があります。

    承久四年三月三日丑刻、許於法性寺禅屋書写了。為過去出霊出離生死証大菩提、以後亡者手跡之裏、令写真文云々。

    もじどおり、まさしく「過去の出霊出離生死証大菩提」のための写経で、供養の意趣が述べられています。

    このほか、たとえば、鳥取・大雲院に蔵されている「金字法華経」巻第2・第4(重要文化財)などのように、紙の裏の消息と、表面の写経とが1人によって書かれたという、珍しい遺例もあります。
    これは、伏見天皇ふしみてんのうが、みずから逆修ぎゃくしゅ(生きているうちに、自分の冥福を祈る仏事をすること)のために、身辺に散乱する自身の消息をあつめて料紙をつくり、その裏面に金泥で写経をしたものです。