カテゴリー: 書家

  • 嵯峨天皇の書道と空海との文化交流:光定戒牒から李嶠雑詠まで

    嵯峨天皇の書道と空海との文化交流:光定戒牒から李嶠雑詠まで

    嵯峨天皇(さがてんのう)は、平安へいあん時代初期の重要な文化人であり、書道の才能でも高く評価されています。

    彼の代表的な作品には、「光定戒牒こうじょうかいちょう」や「般若心経はんにゃしんぎょう」、「李嶠雑詠りんきょうざつえい」などがあり、その筆跡には中国とう時代の文化への強い影響が見られます。
    また、嵯峨天皇は空海くうかいと深い文化的な交流を通じて、唐からの書跡や詩文を取り入れ、書道の世界でも大きな影響を与えました。

    本記事では、嵯峨天皇の代表作品や空海との関係を通じて、彼の書道と文化への貢献を詳しくご紹介します。

    嵯峨天皇とは

    嵯峨天皇御影
    嵯峨天皇御影

    嵯峨天皇は、桓武天皇かんむてんのうの第二皇子として長岡京ながおかきょうで生まれ、809年(大同4年)4月に兄である平城天皇へいぜいてんのうの後を継いで即位しました。

    幼い頃から読書が好きで、成長するにつれて中国の経典に興味を持つようになり、漢詩や文章にも優れていました。彼の作品は『凌雲集りょううんしゅう』や『文華秀麗集ぶんかしゅうれいしゅう』に多く収められています。

    また、嵯峨天皇は唐の文化を非常に好み、儀式や服装などを唐風に整えるだけでなく、書道にも深い関心を持っていました。その書風には初唐の書家たちの影響が見られます。

    嵯峨天皇と空海の関係

    806年(大同元年)に中国から帰国した空海は、嵯峨天皇から屏風両帖びょうぶりょうじょうを賜り、その屏風に劉義慶りゅうぎけいが編纂した『世説』8巻から選んだ美しい文章を揮毫して献上しました。これが809年(大同4年)10月のことで、当時空海は36歳、嵯峨天皇は24歳でした。

    同じ時期、空海は中国で恵果けいか(中国唐代の密教僧で日本の空海の師)から真言密教の奥義を授かり、それをもとに鎮護国家の修行を高雄山寺で行いたいという願いを上表文で提出しました。そして11月1日からその修行を実際に始めました。このことが、空海と嵯峨天皇を結びつける重要な接点となりました。

    空海はこれまでに19通の上表文を嵯峨天皇に提出しています。たとえば、以下のようなものです。

    1. 劉希夷りゅうきいが集を書して献納する表」弘仁2年6月(811年)
      • 劉希夷の詩集を空海が書き写し、献上した上表文。
    2. 「雑書迹しょせきを奉献する状」同年8月
      • 雑多な書跡を献上した際の上表文。ここで空海はさまざまな書風や文書を披露している。
    3. 劉廷芝りゅうていしが集を書して奉納する表」同年月日不明
      • 劉廷芝の詩集を書き、嵯峨天皇に献上した上表文。
    4. 「筆を奉献する表」弘仁3年6月(813年)
      • 書道に使う筆を献上した際の上表文。空海が持ち帰った書道具の一部を献上したとみられる。
    5. 「雑文を献ずる表」同年7月
      • 詩文や雑文を献上した際の上表文。空海の文化的な交流の一環として、さまざまな文書を献上している。
    6. 梵字ぼんじ并びに雑文を献ずる表」弘仁5年7月(814年)
      • 仏教に関連する梵字(サンスクリット文字)や雑文を献上した上表文。空海が仏教的な知識も天皇に紹介していたことがわかる。
    7. 「勅賜の屏風を書しおわって即ち献ずる表 詩を并せたり」弘仁7年6月(816年)
      • 嵯峨天皇からいただいた屏風に書を揮毫し、詩を添えて献上した際の上表文。

    これらの上表文から、空海が唐から持ち帰った書跡や詩文、雑文、筆などを少しずつ嵯峨天皇に献上していたことがわかります。嵯峨天皇は空海が優れた書家であることを認め、屏風に書を揮毫させていたことがわかります。

    こうして、唐の文化に強い関心を持ち、漢詩や漢文に秀でた文化人であった嵯峨天皇は、初めは書や唐からの献上品を通じて空海と親しくなったと考えられます。

    さらに、弘仁5年(814年)には、嵯峨天皇は高雄山にいた空海に綿百屯と詩1首を下賜し、空海は感謝の詩を捧げました。また、弘仁7年(816年)「弘法大師御厄を祈誓せし表」の上表文によると嵯峨天皇の病気の平癒を願って、空海が7日間の加持祈祷を行っています。

    このように、絶大な政治的権力を持つ嵯峨天皇と、真言宗を大成した空海の関係は徐々に深まり、特別な信頼関係が築かれていきました。その象徴として、弘仁7年(816年)「紀伊国伊都郡高野の峯にして入定の処を請け乞うの表」に空海は高野山に寺院を建てるための土地を求め、嵯峨天皇から許可を得ています。これは空海が、若い頃に行った山での修行を弟子たちにも経験させたいと願ったものでした。

    嵯峨天皇は幼い頃から書道を学び、書の才能が高く評価されていましたが、天皇の真筆である「光定戒牒こうじょうかいちょう」を見ると、空海が唐から持ち帰り、献上した唐の書跡、とくに欧陽詢おうようじゅんの書風を学ばれていたことが明らかです。さらに、その中には空海特有の文字も見られます。嵯峨天皇は空海の書に非常に傾倒していたため、天皇が勅賜の屏風に詩を書かせて献上させるほどでした。このため、天皇の書に空海の字形や筆法が現れているのは、意識していたかどうかにかかわらず、自然なことと言えるでしょう。

    嵯峨天皇の代表作品

    嵯峨天皇の筆跡は「光定戒牒こうじょうかいちょう」「般若心経はんにゃしんぎょう」「李嶠雑詠りんきょざつえい」の3点が伝わっています。

    光定戒牒(こうじょうかいちょう)

    嵯峨天皇の光定戒牒(こうじょうかいちょう)
    嵯峨天皇の光定戒牒(こうじょうかいちょう)

    嵯峨天皇の代表的な作品として「光定戒牒(こうじょうかいちょう)」が挙げられます。これは823年、嵯峨天皇が38歳の時に書かれたものです。

    この戒牒は、最澄の弟子である光定(779~858)が延暦寺の一乗止観院で大乗菩薩戒を受けた際に授けられたもので、戒律を受けた証としての書類です。光定が嵯峨天皇に深く信頼されていたため、特別に授けられたものと考えられています。

    この書が嵯峨天皇の直筆だとされる理由の一つは、光定自身が「伝述一心戒文」の中で「天皇が自らの筆で私に戒牒を書き、勅命として賜った。それは永遠の宝である」と述べている点です。

    また、この戒牒の末尾に署名している藤原三守は、10年後に円珍(智証大師)の戒牒にも署名していることも確認されています。

    さらに、この戒牒に使われた料紙は「縦簾紙(じゅうれんし)」と呼ばれる白麻紙で、これは唐から伝わった紙で、平安時代の初期にかけてごく一部の特別な人物しか使用できませんでした。光明皇后の「楽毅論(がくきろん)」や空海の「聾瞽指帰(ろうこしいき)」にもこの紙が使われていたことから、嵯峨天皇の真筆であるとされています。

    「光定戒牒」の特徴としては、行書と草書が交じり合い、ところどころに大きな文字が配置されている点が挙げられます。
    この特徴は空海の「風信帖」にも見られます。

    般若心経(はんにゃしんぎょう)

    『般若心経(はんにゃしんぎょう)』は、紺色の綾(あや)布に銀泥で枠線が引かれ、経文は金で書かれています。

    伝えられるところによると、一字三礼(一文字書くごとに三度礼をする写経方法)で書写されたといいます。

    いくつか文字がはっきりしない部分もありますが、全体としては欧陽詢おうようじゅんの書風に似ています。

    李嶠雑詠(りんきょうざつえい)

    そのほか、嵯峨天皇の書と伝えられているものに、「李嶠雑詠(りんきょうざつえい)」があります。

    李嶠は、7世紀末から8世紀初めにかけて活躍した政治家であり、詩文の名手としても知られています。この作品は、李嶠の詩を行書体で書写した断簡(書物の一部分)です。

    また、縦簾紙じゅうれんしの白麻紙に書かれていることから、天皇自らの筆跡ではないかとされていますが、現在のところ確かな証拠はありません。

  • 褚遂良(ちょすいりょう)について解説/代表作品も紹介

    褚遂良(ちょすいりょう)について解説/代表作品も紹介

    褚遂良について解説

    褚遂良像
    褚遂良像

    雁塔聖教序がんとうしょうぎょうじょを書いたのは、褚遂良ちょすいりょうという人物です。

    褚遂良ちょすいりょう開皇かいこう16年(596)~顕慶けんけい3年(658)〉は、中国のとう時代に活躍した書道家で、虞世南ぐせいなん欧陽詢おうようじゅんと並んで「初唐しょとう三大家さんたいか」と呼ばれています。

    彼はとうの前王朝、ずい文帝ぶんていの開皇16年(596)に、銭塘せんとう(現在の浙江省せっこうしょう杭州こうしゅう)で生まれました。

    中国における書道の名手は、同時にその時代を動かしてきた政治家や学者でもありますが、褚遂良も例外ではなく、唐の建国期を支えた重臣でした。雁塔聖教序には「中書令」「尚書右僕射しょうしょうぼくや」という官職がしるされています。どちらも褚遂良が歴任した官職で、二碑に記されている官位が同時期となっている点については諸説あります。唐代においては宰相という長官クラスの要職です。

    褚遂良の父、りょう太宗たいそうの信任をうけ、有能な文学の士「秦府一八学士」の一人として、弘文館学士こうぶんかんがくし散騎常侍さんきじょうじなどの要職を歴任した人物でした。先に述べた欧陽詢・虞世南は二人とも褚遂良より30歳以上高齢でしたが、 父褚亮ちょりょうの同僚であり、親しい友人だったので、褚遂良は幼いころから付き合いがあったと考えられています。

    皇帝太宗のもとでの活躍

    褚遂良は書道をよくして、虞世南が亡くなった後に侍中の魏徴に推薦されて侍書となり、太宗の学問や書芸を語る相手として重用され、王羲之書跡の収集や鑑識も行いました。太宗に諫言することをおそれず厚い信頼を得ました。

    太宗が亡くなってからは、皇太子(後の高宗)を支えて、653年(永徽4年)には尚書右僕射しょうしょうぼくやとなり政務に参画しました。

    しかし、高宗が武氏(後の則天武后そくてんぶこう)を皇后に立てようとしたことに反対し、怒りを買って左遷され、のとに愛州あいしゅう(ベトナム北部)に退けられて客死しました。

    書道家としての褚遂良

    書道は若くして虞世南を学び、のちに王羲之の書法を体得しました。また、隋の史陵しりょうに学んだとも伝えられます。

    太宗のもとで王羲之書跡の鑑識や臨模にあたり、楷書は王羲之のうつくしさを得て華やかさを増したといい、その趣は虞世南や欧陽詢すら一歩譲るとも評価されています。

    58歳のときの「雁塔聖教序」はその代表作品です。

    褚遂良の代表作品

    雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)

    雁塔聖教序#1
    雁塔聖教序 ※クリック/タップで拡大

    雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)は、褚遂良の代表作品としてもっとも有名です。

    雁塔聖教序がんとうしょうぎょうじょは、陝西せんせい西安せいあん市南郊の慈恩寺じおんじ境内けいだいにある大雁塔にはめ込まれた「大唐三蔵聖教之序」碑と「大唐三蔵聖教序記」碑の2つの碑をあわせた総称です。

    内容は、仏教の教理や仏教の経緯を述べ、次に、西遊記さいゆうきの登場人物「三蔵法師」こと玄奘げんじょうの人徳とその業績をたたえています。

    褚遂良の雁塔聖教序にについては下の記事で詳しく紹介しています。↓

    孟法師碑(もうほうしひ)

    孟法師碑

    孟法師碑は褚遂良の他の碑、初唐の三大家の虞世南や欧陽詢の碑にくらべても、初心者の楷書手本として特に優れています。

    孟法師碑の「孟法師」とは、人物の名前で、碑文の内容は孟法師の功績をつづられています。

    孟法師碑について詳しくは↓

  • 近衛信尹(このえのぶただ)を紹介/能書としての活躍【寛永の三筆】

    近衛信尹(このえのぶただ)を紹介/能書としての活躍【寛永の三筆】

    近衛信尹(このえのぶただ)を紹介

    近衛信尹筆:三十六歌仙帖
    近衛信尹筆:三十六歌仙帖1

    近衛信尹このえのぶただ(1565~1614)は、安土・桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した能書のうしょ(書の巧みな人)です。
    初めの名は信基のぶもと、つぎに信輔のぶすけと改名、さらに信尹のぶただに変えました。

    性格は血の気の多い性格だったようで、摂関せっかん家の名門の出ですが、豊臣秀吉とよとみひでよしによる朝鮮出兵「文禄ぶんろくえき」が起こると、自ら軍に入ることを希望しました。(しかし許可は下りなかった)

    書道家としては、本阿弥光悦ほんあみこうえつ松花堂昭乗しょうかどうしょうじょうとならんで「寛永かんえい三筆さんぴつ」と称されるほどで、その書は三藐院流さんみゃくいんりゅうと呼ばれて流行しました。

    近衛信尹の官途

    近衛信尹年譜
    近衛信尹年譜

    信尹の官途については『公卿補任』や『諸家伝』などからたどることができます。

    関白・近衛前久まきひさ(1536~1612)の嫡男ちゃくなんとして生まれ、生まれながらに貴族の権威を持っていました。

    1577年(天正5年)うるう7月13歳のとき、元服、正五位下に叙され、禁色昇殿きんじきしょうでんを許されました。加冠の役は、時の内大臣・織田信長おだのぶなが(1534~1582)。彼の名の1字を与えられて、信基のぶもとと名乗るようになります。その年は残り半年足らず。その間、2度の叙位、しかもそれは越階という超スピード昇進で、11月には従三位・左中将でした。
    翌年、正三位・権大納言。そして、天正8年、従二位・内大臣、10年正二位に昇ります。この年、信輔のぶすけと改名しました。

    天正13年、左大臣、そして7月11日、50歳の豊臣秀吉が従一位・関白に任じたその日、21歳の信尹は従一位に昇りました。

    朝鮮への出征を希望

    近衛信尹筆:三十六歌仙帖
    近衛信尹筆:三十六歌仙帖2

    摂関家の嫡男として生まれた強度の自負心が、その性格を形成して、血の気の多い衝動に駆り立てられる性格だったようです。

    豊臣秀吉とよとみひでよしによる朝鮮出兵(「文禄の役」)のころになると、自身も軍に入り渡海することを希望したのです。

    27歳、左大臣の要職についていましたが、後陽成天皇にその従軍を願い出ましたが、神代以来連綿と続いた名門が絶えることを心配して許されませんでした。しかし、彼はあきらめず、1593年(文禄2年)2月には、肥前・名護屋の本営に参着して、在陣の諸将軍に自分の希望を述べて説得をはかりました。が、天皇はその月10日付の書面を秀吉に送って、これをとどめました(『三藐院記さんみゃくいんき』『駒井日記こまいにっき』)。

    しかし、そんなことでひるむ信輔(信尹)ではありませんでした。なかなかあきらめない彼に手を焼いた秀吉は、京都所司代前田玄以(1539~1602)を介して、この旨を後陽成天皇に報告しました。その間の事情は、翌年4月12日付で右大臣菊亭晴季ほか2名の公卿にあてて出された覚書(「荻野文書」)によって知ることができます。

    その結果は、やはり名門の信尹が朝鮮へ出兵することは認められず、むしろ信尹は天皇の勅勘ちょっかん(天皇の命令で罰せられること)を受けるはめとなってしまいました。
    これを見聞した興福寺の僧が、その一部始終を日記に書きとどめています(『多聞院日記』文禄3年4月13日条)。勅勘ちょっかんの内容は、軍紀を乱し、高官公卿にあるまじき軽率なふるまいをしたという理由で、1594年(文禄3年)の4月15日、遠い薩摩さつまの南端、坊津ぼうのつに配流されました。
    その道中の様子は、秀吉の右筆ゆうひつを務めた駒井重勝の『駒井日記こまいにっき』や信尹自身の日記『三藐院記さんみゃくいんき』、あるいは自筆の紀行文(京都・陽明文庫蔵)などによって知ることができます。

    落ち行く先は九州の果て鹿児島。藩主島津義久(1533~1611)の厚遇を受けて立野のやかたに入りましたが、ほどなく、鹿児島の西南、坊津に移りました。配所での彼は、歌道に余念がなく花鳥風月を友とする在留3年の流謫るたく生活を過ごしました。

    1596年(慶長元年)4月、秀吉の仲介で京都へ戻ることをゆるされましたが、京都に帰着したのは9月に入ってからのことでした。

    彼が名前を信尹のぶただと改名したのは、京都へ戻ったあと、慶長4年、35歳のときでした。その後還任げんにんして、慶長6年37歳のとき再び左大臣さだいじんになり、慶長11年42歳のとき関白かんぱくとなり左大臣をやめました。牛車ぎっしゃ随身ずいしん兵仗ひょうじょう(どれも関白として宮廷入りの行粧)の宣下せんげがあり、くらい人臣じんしんを極めたのでした。

    法名は大徳寺の春屋和尚しゅんおくわじょうの命名で、同徹大初、院号は三藐院さんみゃくいん。仏典のなかの三藐三菩提(仏の完全な悟り)の経句に由来するものです。
    後世、もっぱらこの三藐院の名前で親しまれ、近衛このえ三藐院さんみゃくいんとして知られます。

    能書としての近衛信尹

    近衛信尹筆:三十六歌仙帖
    近衛信尹筆:三十六歌仙帖3

    近衛信尹の書は、当時随一という評価を受けていました。それは自他ともに共通の認識だったようです。

    それを語る1つの逸話いつわがあります。
    『続近世畸人伝きじんでん』(5冊・寛政5年〈1793〉刊、三熊思考著)という本に見えるものです。長い引用ですが、紹介します。

    「或時、近衛三藐院さんみゃくいん殿、光悦こうえつにたづねたまふ。今天下に能書といふは誰とかするぞ、と。光悦先づさて次は君、次は八幡の坊也。藤公、その先づとは誰ぞと仰たまふに、恐れながら私なりと申す。此時此三筆天下に名あり。
     また、或時藤公にはかに光悦を召しければ、何事ぞとあはてて参るを即ちおまへにめして、悦が手をきととらせ給ひ、汝は…と言もあららかに仰たまふに、悦思ひよらざることなれば、御意にたがひし覚は侍らずと、恐れ…申ければ、公打わらはせ給ひ、何としてかくはよく書くぞと戯れたまふこともあり。又松花堂とともに藤公へまいる。夜のふくるまで御物語申せし時、今古の書家を品評したまひ、孫過庭・虞世南ともに王右軍を学といへども、其風なし。今人はその風を学んでその心を学ばず、其姿を真似るを書奴といふ。書奴の名を得んよりは、おのおの我好にまかせて一家を成べしと言ふ。二子、我等も常に思ひ侍る所也とて、あすともに書を成して、おまへに戦はしめんとて、帰りぬ。約のごとく明日、二子まいり、公の御書とならべて、おの…一風を書出せしをくらべける。今日、近衛流・光悦流・滝本流とて世にもてはやさる、」

    内容は、
    三藐院さんみゃくいん信尹のぶただ)が、「今、天下に能書といふは誰とかするぞ」(現在、世間で能書というのは、いったいだれであろうか)とたずねました。三藐院さんみゃくいんは、本阿弥光悦ほんあみこうえつがきっと、それはあなた様です、とお追従ついしょうをいうであろうと期待していたのですが、答えはそれを裏切りました。
    光悦こうえつの口から出た第一声は、それはまず私です、と。心憎いばかりの自信のほどです。

    しかし、この『続近世畸人伝きじんでん』の著者が、その以下に述べるように、三藐院さんみゃくいんの書に対しても高い評価を与えています。信尹の書流は、このように近衛流このえりゅうと呼ばれて、多くの人々に学ばれました。この近衛流は当時から別に、「三藐院さんみゃくいん殿流ともいひ近衛様このえようとも申すなり」(『類聚名物考』巻第45)とも呼ばれていました。

    今日では、『続近世畸人伝きじんでん』に挙げられている、近衛信尹このえのぶただ本阿弥光悦ほんあみこうえつ松花堂昭乗しょうかどうしょうじょうの3人を「寛永の三筆」として並称するのが書道史の常識となっています。

    近衛信尹の書風

    近衛信尹作:和歌屏風 屏風に大字仮名を揮毫した
    近衛信尹作:和歌屏風 屏風に大字仮名を揮毫した

    近衛信尹の書風は、はじめ青蓮院流しょうれんいんりゅうでしたが、年とともに徐々に変化し、信尹と改名したころから個性がわかりやすい書風になり、近衛流このえりゅうまたは三藐院流さんみゃくいんりゅうといわれました。

    信尹の書の特徴は、自由に大胆に書き、大きくて力強いです。「や」「み」などにある大きな右回旋みぎかいせんはとくに特徴的です。

    これまでの仮名は小字のみでしたが、信尹は六曲屏風ろっきょくびょうぶに和歌一首を散らし書きにし、今までだれも書いたことのない大字仮名を初めて書きました。

  • 荻生徂徠(おぎゅうそらい)を紹介:書家としての活躍

    荻生徂徠(おぎゅうそらい)を紹介:書家としての活躍

    荻生徂徠(おぎゅうそらい)を紹介

    川原慶賀筆:荻生徂徠肖像
    川原慶賀筆:荻生徂徠肖像

    荻生徂徠は、江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者です。

    生没は1666年~1728(寛文6年~享保13年)。徳川綱吉の侍医方庵の子。江戸の生まれ。名前は双松なべまつ徂徠そらい雅号がごうです。

    1679年(延宝7年)14歳のとき、父方庵は事に座して上総国(千葉県)に蟄居ちっきょ(江戸時代の刑罰のひとつ)し、1690年(元禄3年)ゆるされて江戸に帰るまで、一家は流落の生活をおくりました。
    このころ徂徠は書跡を精読して学問を修めることに努めました。

    江戸に帰ると芝の増上寺の門前に住んで、朱子学しゅしがくを講じましたが、貧しくて苦労しました。
    苦労しながらも『訳文筌蹄』を著わし、文名を天下に知られました。31歳のとき増上寺の了也の推挙によって柳沢吉保やなぎさわよしやすに召しかかえられ、将軍徳川綱吉にもたびたび講義しました。当時五百石を給せられていました。

    徂徠は元禄年間に古文辞学こぶんじがくを提唱しました。1709年(宝永6年)44歳のとき日本橋茅場町かやばちょうに家塾を開くことを許されました。この年綱吉が亡くなり、吉保が隠退しましたが、徂徠は従来どり俸禄を給せられました。
    その後は学問と著述に専念しました。

    荻生徂徠(おぎゅうそらい)の書

    荻生徂徠おぎゅうそらい蒙放もうほう不羈ふきの性格の人であり、自負心の強い人であったため、書作品も大胆に、そして自由奔放にかきました。

    草書を好み、得意としました。

    人はその片紙隻字へんしせきじを得ても、これを珍蔵したといいます。

    近世の儒者のうちで徂徠と頼山陽らいさんようはもっとも優れた能書のうしょといわれています。

    橘南谿たちばななんけいは、徂徠の書を評価して、
    「徂徠の書、其超凡の趣、近世他の書家の及ぶ所にあらず、其頃、(北島)雪山せつざん・(平林)惇信あつのぶ・(細井)広沢こうたくなど、世に鳴り、明代の書風時運に叶ひて行われし折節にも、徂徠独り時運に引(か)れずして、一家を成す」
    といっています。

    徂徠の真跡には「草書詩巻そうしょしかん」「甲午新正詩こうごしんせいし」および消息、草書手本『大暦帖』などがあります。

  • 新井白石(あらいはくせき)を紹介

    新井白石(あらいはくせき)を紹介

    新井白石(あらいはくせき)を紹介

    新井白石肖像画
    新井白石肖像画

    生没は1657年~1725(明暦めいれき3年~享保きょうほう10年)。正済まさなりの子。江戸の生まれ。名前は君美きみよしあざなは済美、白石は雅号がごうです。

    幼少のころから聡明で、若年のころから学問を修めました。

    1686年(貞享じょうきょう3年)30歳のころ、木下順庵きのしたじゅんあんの門に入り、やがて「木門の十哲」のひとりに数えられました。

    1693年(元禄6年)順庵じゅんあんの推挙で徳川家宣とくがわいえのぶ(江戸幕府の第6代将軍)の侍講じこう(将軍に対して学問を講じる)になり、1709年(宝永6年)将軍家宣に信任され、前代の弊政の改革に努めました。

    1711年(正徳元年)従五位じゅうごい下・筑後守ちくごしゅになりました。翌年家継いえつぐ(江戸幕府の第7代将軍)が将軍になると、側用人間部詮房そぼよういんまなべあきふさと政治に努めました。

    白石は仁愛の精神で政治をおこない、礼楽の振興に努めましたが、理想に走りがちでした。また妥協することがなく、協調性に欠けていたので、孤立せざるをえなくなり、晩年は失意の日々を送りました。

    白石は儒学者といわれていますが、その研究領域は儒学の枠をはるかに超え、文字どおり博学のひとでした。
    白石は儒学を修めたので漢詩・漢文にも長じていましたが、和文にも長じ、著述には和文が多いです。自叙伝『折たく柴の記』は文学作品としてもすぐれています。

    白石は4,5歳のころ富田某が『太平記』を読むのを聞き、6斎のとき上松某が七言絶句の講説をするのを聞きました。8歳のときから手習いをはじめ、9歳のときには毎日昼間行書・草書を3千字書き、夜また千字書くことを日課としました。

    白石の書は文書・詩文をかくための書であるので小字が多く、大字はありません。

    主な著書に『読史余論とくしよろん』『西洋紀聞せいようきぶん』などがあります。

    新井白石作:詠詩三首
    新井白石作:詠詩三首
  • 北島雪山(きたじませつざん)を紹介

    北島雪山(きたじませつざん)を紹介

    北島雪山(きたじませつざん)を紹介

    細井広沢『紫薇字様』雪山肖像画
    細井広沢『紫薇字様』雪山肖像画

    北島雪山(きたじませつざん)は江戸時代前期に活躍した書道家で、日本において唐様からよう(中国風)の書風の基礎を築いたことで注目されます。

    生没は江戸時代の1636~1697(寛永かんえい13年~元禄げんろく10年)、肥後国(熊本県)の人。医を業とした北島宗宅の子。
    名は三立さんりゅう雪山せつざん雅号がごうです。

    幼少のころ図南堂日収となんどうにっしゅうについて書法を学びました。

    20歳ごろ医術を修める目的で父にしたがって兄の江庵こうあんとともに長崎へ行き、長崎で渡来中国人の独立どくりゅう即非そくひおよび愈立徳ゆりつとくに書法を学びました。独立どくりゅうは医術・詩・書・篆刻てんこくけていました。即非そくひは詩・文・書画をよくし、隠元いんげん木庵もくあんとともに「黄檗おうばく三筆さんぴつ」といわれています。愈立徳ゆりっとくみん文徴明ぶんちょうめいの書法を習得した人といわれ、渡来僧の雪機せっきに書法を学んだともいわれています。

    雪山は寛文のはじめに長崎で陽明学ようめいがくを修め、熊本の細井家に仕えて食禄三百石を給せられましたが、寛文9年(1669)34歳のとき、陽明学を修めた者が罷免ひめんされ、雪山も罷免されました。

    1677年(延宝5年)雪山は江戸に移り、書道家として有名になりました。

    その門人に細井広沢ほそいこうたくらがいます。細井光沢ほそいこうたくは雪山に文徴明ぶんちょうめいの筆法を学んでいます。雪山は、王羲之おうぎしの筆法の正脈を伝えているのはげん趙孟頫ちょうもうふみん文徴明ぶんちょうめいの2人だけであり、趙孟頫ちょうもうふ文徴明ぶんちょうめいの筆法を学ぶことを広沢に教えました。
    王羲之の真跡は残っていないし、墨本の法帖は翻刻を重ねているため筆意がわからなくなっているので、趙孟頫ちょうもうふ文徴明ぶんちょうめいの真跡を学ぶべきであるといいました。

    晩年には長崎へ帰っています。

    書道家としての逸話

    北島雪山作:行書十字
    北島雪山作:行書十字

    雪山はつねに貧しかったので、家の屋根がこわれて雨漏りをしていても、それを修理するお金がなく、壁の高いたらいをつくり、その下に座って書道を学んだといいます。

    あるとき長崎の橋下で一夜をあかし、翌朝付近の酒家にはいって酒を求めました。酒家の主人が代金を請求しますが、雪山は無いといいました。家はどこかとたずねても雪山は無いと返事をするので、それでは何をする者であるかとたずねたら、雪山が物書きであると答えました。そこで主人は雪山に酒売日記を書くことを依頼して、それでもってその酒代にあてようと約束しました。雪山は何日も泊まり、毎日酒売日記を書いていましたが、主人もその能書ぶりに感心し、また雪山の人柄の無我なのを信用して、とうとう何くれとなく世話をした。
    といわれています。

    その後、となりの国の某侯が額の揮毫きごうを中国へ依頼しようとして、その草案(下書き)を雪山に書かせたとき、大きい筆をもっていなかったので、軒にかけた簾󠄀の萱を取って打ちくじき、それで書きました。そうして中国へ送ると、中国にもこのような能書はいないといって返してきたので、すぐにこの草案を額にしました。またそれから長崎の人は雪山の能書を知って、揮毫を求めたといわれています。

    また、雪山は長崎に帰ってのち16年の間、権貴におもねらず、つにに弊衣を着て、髭を剃らず、爪を切ることもなく、狂人か乞食のようであったといわれ、酒を飲むと、いくらでも書を書きました。

    あるとき雪山が東叡山とうえいざんの桜が満開と聞き、弟子の細井広沢ほそいこうたくに向かって「晴れた日には人出が多くてやかましい。雨の中の花を見よう」と約束し、ちょうどそのとき曇ったので、雪山は広沢をはじめ2,3人をともない、酒を携えて東叡山に行ったところ、雨が降ってきましたが、雪山は濡れながら杯を傾けて楽しんでいました。やがて桜の木から落ちる雨のしずくに全身びしょ濡れになり、ますます大酔しで泥まみれになりながら帰ったといいます。

    長崎の人はこのような雪山を尊敬して名前を呼ぶ者はなく、先生とのみいったといいます。

    雪山の書跡はどれも脱俗超妙。細井広沢は雪山の学問を「非常之学識」といい、雪山の書を「非常之筆迹ひっせき」といっています。

    北島雪山作:一行書「得声不離門(こえをえてもんをはなれず)」
    北島雪山作:一行書「得声不離門(こえをえてもんをはなれず)
  • 松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)を紹介

    松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)を紹介

    松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)を紹介

    松花堂昭乗作:三十六歌仙帖
    松花堂昭乗作:三十六歌仙帖

    松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)は、江戸時代に活躍した書道家、画家で、特に書道においては「寛永かんえい三筆さんぴつ」の1人として数えられ、江戸時代を代表する書道家です。

    1584~1639(天正12年~寛永16年)、父母は不詳。幼名は辰之助たつのすけ。幼少のころから桑栄で、柔和であったといいます。

    1600年(慶長5年)17歳のとき出家して、石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう瀧本坊たきもとぼうの実乗に師事し、密教を学びました。

    宝弁ほうべんから両部灌頂りょうぶかんじょうを授けられ、1627年(寛永4年)44歳のとき、瀧本坊たきもとぼうの住職になりました。
    寛永11年以前に瀧本坊たきもとぼうを弟子に譲り、隠退して惺々しょうじょうと号し、空職と称して風雅を友とした余生を送りました。
    寛永14年54歳のとき、瀧本坊たきもとぼうの南の丘に方丈の松花堂しょうかどうを建てて、ここに住んで松花堂と称しました。

    文化人としての松花堂昭乗

    松花堂昭乗作:和歌屏風
    松花堂昭乗作:和歌屏風
    『続古今和歌集』から、春歌9首、夏歌4首、秋歌8首、冬歌4首の都合25首を抄出して、金泥の霞引きをほどこした6曲1双の屏風に散らし書きしたもの。     

    松花堂昭乗は、能書にして画家であり、また茶人でした。和乗の絵は茶人に特別に愛好され、珍重されました。

    書道においては、青蓮院流しょうれんいんりゅう大師流だいしりゅうを学び、さたに上代様じょうだいようを学びました。
    真言宗の僧侶であったので、真言宗の開祖である空海(大師)を尊宗し、空海の書風を求めました。

    昭乗は四天王寺へ行って、中国かん時代の張芝ちょうし臨池りんちの故事にならい、亀井の水をくんで墨を磨り、日夜筆法の工夫をしていたところ、どこからともなく現れた老法師が空海の書法の「六体余体ろくじゅうよたい」ならびに「六書八体りくしょはったい」を伝授し、この老法師を空海と思い、ありがたく感嘆にむせんだといわれています。

    昭乗は近衛信尹このえのぶただ本阿弥光悦ほんあみこうえつとともに「寛永かんえい三筆さんぴつ」といわれています。

    昭乗の上代様の書は、漢字もかなも字形がよく整っていて、運筆はもっとも巧妙です。
    漢字の点画は秀潤温雅で、かなの線は流麗にして連綿は自然です。

    昭乗の書風は松花堂流または瀧本流などといわれ、広く流行しました。

    昭乗の真跡には「和漢朗詠集わかんろうえいしゅう」「恵慶集えぎょうしゅう」および色紙・自画像賛などがあります。

  • 鳥丸光広(からすまるみつひろ)を紹介

    鳥丸光広(からすまるみつひろ)を紹介

    鳥丸光広(からすまるみつひろ)を紹介

    鳥丸光広作:聚楽第行幸和歌巻
    鳥丸光広作:聚楽第行幸和歌巻 晩年の烏丸光広が、和歌を揮毫(きごう)したもの。筆運びに彼独自のリズム感を発揮しており、奔放かつ自在な筆致が見どころの1つ。

    鳥丸光広(からすまるみつひろ)
    天正7年~寛永15年(1579~1638)、准大臣光宣みつのぶの子。3歳のとき従五位下になり、5歳え元服して侍従になり、11歳のとき右少弁になりました。

    1606年(慶長11年)28歳のとき参議になりました。

    31歳のとき勅勘ちょっかんをこうむって解官されましたが、徳川家康のとりなしで流罪を免れました。

    慶長17年勅勘を許され、参議に復帰し、1616年(元和2年)38歳のとき権大納言になり正二位になりました。

    漢籍は清原きよはら船橋ふなばし秀賢ひでかたに学び、和歌は細川幽斎ほそかわゆうさいに学びました。とくに和歌に熱心であったので古今伝授こきんでんじゅを受けました。家集に『黄葉和歌集こうようわかしゅう』があります。

    鳥丸光広にまつわる伝説

    寛永(1624~1643)のころに江戸へ下る際、駿河国(静岡県)の三島で暴風雨にあいました。
    光広が三島明神に和歌を献じると、暴風雨がやみ、箱根山を無事に越えることができました。

    江戸から帰京する途中、浜松で宿屋に泊まろうとしたところ、どの宿屋も病人ばかりで泊まることができません。光広が疫鬼をはらうといって和歌をよみ、紙に書いてそれを門戸にはると、疫鬼が退散したので病人が起きることができました。

    雨が降るのを祈ったり、雨がやむのを祈ったりして不思議な効きめがあったといわれています。

    書道家としての鳥丸光広

    鳥丸光広作:東行記 光広独自の書風を確立した晩年の筆跡。

    歌人としてすぐれていた光広は能書をしてもすぐれていました。

    光広の書は自由に早く書かれ、変化がおおいです。

    また、古筆の鑑識に長じ、光広が奥書をかいた古筆はたくさんあります。
    古筆了佐こひつりょうさは光広に古筆の鑑定を学んだといわれています。

    光広の真跡には俵屋宗達の「つた細道屏風ほそみちびょうぶ」や「西行法師行状絵詞さいぎょうほうしぎょうじょうえことば」の、賛の和歌や詞があります。

  • 本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)を紹介

    本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)を紹介

    本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)を紹介

    本阿弥光悦
    本阿弥光悦

    本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は、書・陶芸・漆芸・能楽・茶の湯などに携り、後世の日本文化に大きな影響を与えた人物として有名です。

    永禄元年~寛永14年(1558~1637)光二の子。京都の生まれ。初名を二郎三郎とい、のち光悦と改名、雅号は徳有斎とくゆうさい太虚庵たいきょあんなど。 

    本阿弥家の家業は、刀剣の鑑定(めきき)・研磨(とぎ)・浄拭(ぬぐい)でした。
    もともと本阿弥の家は、遠く足利尊氏の刀奉行を務めた妙本を始祖とする家柄で、当時、京の町においても屈指の裕福な町衆の1人でした。

    近衛信尹このえのぶただ松花堂昭乗しょうかどうしょうじょうとともに「平安(京都)の三筆さんぴつ」とか「洛下らくか(京都)の三筆」といわれ、また今日では「寛永かんえいの三筆」といわれています。

    7,8歳のころから四書(論語・孟子・大学・中庸)・五経(詩経・書経・易経・春秋・礼記らいか)の素読を習ったり、講釈を聞いたり、また和歌を学び、さらに家業を学びました。

    室町時代以来、青蓮院流しょうれんいんりゅうは広く流行し、もっとも尊重されていたので、光悦も1595年(文禄4年)38歳のとき、青蓮院門跡の尊朝法親王そんちょうほうしんのうから青蓮院流の伝授を受けました。

    1615年(元和元年)58歳のとき、徳川家康とくがわいえやすから光悦は京都の北郊の鷹ケ峯たかがみねの地を与えられ、晩年の20年余りは一家一門および職人とともにこの地に住んでいました。

    1625年(寛永2年)68歳のとき江戸に下っていた光悦の甥の光室が亡くなり、光悦は光室の後見人になっていたので江戸に下りました。その際に江戸城で将軍徳川家光に会い、光悦が書いた色紙を献上しました。家光からは光悦に時服じふくおよび銀子ぎんすが贈られました。その後、光悦はすぐに江戸をたって下総国(千葉県)の中山の法華経寺に参拝し、まもなく帰京しました。

    光悦は寛永(1624~1643)になって、ますます書道家として活躍し、和歌巻・詩歌巻・色紙・短冊などをたくさん書きました。

    光悦の家業は刀剣の目利き・研ぎ・拭きでしたが、慶長の中ごろには能書として有名になり、また光悦の書跡は多くの人に愛好されたので、揮毫きごうの依頼は絶えることがなかったようです。

    光悦は家業の収入がかなりあり、裕福であったので、書作品には華麗な料紙を用いました。光悦の書跡のうち『千載集』や『新古今集』など古歌を書写した料紙の下絵は、当時の倭絵やまとえの画家のうちでもっともすぐれていた俵屋宗達たわらやそうたつが描いたといわれています。

    鶴図下絵和歌巻(京都国立博物館)(重要文化財)
    鶴図下絵和歌巻(京都国立博物館)(重要文化財)
  • 池大雅(いけのたいが)を紹介

    池大雅(いけのたいが)を紹介

    池大雅(いけのたいが)について紹介

    福原五岳筆 池大雅像 ※Wikipediaより
    福原五岳筆 池大雅像 ※Wikipediaより

    池大雅(いけのだいが)、江戸時代に活躍した文人画家 、書道家です。
    享保8年~安永5年(1723~1776)、姓は池野、名は無名ありなあざな貸成かしなり、大雅は雅号です。

    幼少のころから聡明で、3歳のときから文字を書き(3歳のときの「金山」2字・池大雅美術館蔵)、5歳のときには上手にかくことができました。
    6歳のときに香月茅庵に素読を習い、7歳のときから清光院一井に養拙流ようせつりゅうの書法を習いました。

    宇治の万福寺で楷書の大字を書き、賞賛を博し、寺中の大衆は詩をつくって、大雅を称揚しました。

    15歳のとき、扇屋を開き、翌年彫印店を開きました。
    この年柳沢淇園やなぎさわきえんに画法を問い、さらに土佐派の画法を学びました。

    1741年(寛保元年)、19歳のころから篆刻てんこくに長じた高芙蓉こうふよう能書のうしょ韓天寿かんてんじゅに親近しました。

    1750年(寛延3年)、28歳のとき祇園南海ぎおんなんかいに会い、画法を学び、翌年白隠はくいんに参禅しました。次の年清人の伊孚九に画法を学びました。

    1771年(明和8年)、49歳のとき与謝蕪村よさのぶそんと「十便十宜帖じゅうべんじゅうぎじょう」を描きます。

    晩年は東山の真葛ケ原まくずがはらの草堂で絵を描き、書を書きました。

    大雅が小楷で賛を書いた「蘭亭・帰去来・西園雅集」の三幅の絵を75両で買った大名がおり、
    「近世の書画にてかかる高料はききも及ばず」と驚かれたといいます。

    世間で好評を得ている人でも上田秋成は多く酷評を下していますが、大雅については「大雅堂が書画の名海内かいだい(国内)に聞えて、今は字紙一まいが無価の宝珠なりし」と激賞しています。

    大雅の書は規模博大にして筆力が充実しており、迫力のある大雅独自の書です。
    楷書・行書・草書をとくによくしましたが、篆書・隷書も書くことができ、どちらも優れています。