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  • 空海の代表作品:風信帖(ふうしんじょう)を解説/臨書に役立てたい書き方・特徴

    空海の代表作品:風信帖(ふうしんじょう)を解説/臨書に役立てたい書き方・特徴

    風信帖ふうしんじょう」は、平安時代初期の僧である空海くうかい最澄さいちょうに宛てた手紙で、空海の代表作の一つです。この作品は、当時の文化を知る貴重な資料としても高く評価されています。

    この記事では、風信帖の書き方や特徴について詳しく解説し、空海と最澄の関係にも触れます。歴史的背景を理解することで、風信帖の内容をより深く理解できるでしょう。

    風信帖を学びたい方や、書道に興味がある方にとって、役立つ情報をお届けします。

    風信帖(ふうしんじょう)について解説

    空海筆 風信帖
    空海筆 風信帖

    風信帖ふうしんじょうとは、空海が最澄さいちょう(767~822)にあてた手紙(風信帖・忽披帖こっぴじょう忽恵帖こっけいじょう)計3通をつなげて1巻に仕立てた総称です。

    巻尾の跋文によると、 もとは5通あったものが、 1通は盗難にあって紛失し、もう1通は関白かんぱく豊臣秀次とよとみひでつぐ(1568~1595)の所望しょもうにより献上したと記されています。この出来事がきっかけで、2通がどこかへ失われてしまいました。

    風信帖ふうしんじょう」という名前は、第1通目の書き出しに「風信雲書、自天翔臨(風信雲書ふうしんうんしょてんより翔臨しょうりんす)」と書かれていることからきています。第2通目は「忽披枉書~」の書き出しにより「忽披帖こっぴじょう」、第3通目は「忽恵書礼~」の書き出しにより「忽恵帖こっけいじょう」と呼ばれています。
    また、これら3通をあわせて「風信帖」と呼んでいます。

    時代は平安時代初期、弘仁こうにん(810~823)の初めに書かれたもので、空海の30歳代の末、または40代に初めの書跡です。

    3通とも行書体ですが、書風はそれぞれ少しずつ違っています。しかし、すべて王羲之風を主とし、そのれに顔真卿風も少し加わり、また、空海のならではの個性も加えられています。力のこもった線質、激しく筆圧を加える転折など、文字は骨格が強く、また構成は即興性の強い手紙ならではの軽妙さも備わっています。

    料紙は縦28,8センチ、長さ158センチ。現在風信帖は、空海ゆかりの東寺に所蔵されています。

    風信帖の作者:空海とは

    空海の肖像
    空海の肖像

    風信帖の作者である空海(くうかい・774~835)は、平安時代初期の僧侶で、真言宗しんごんしゅうの開祖として広く知られています。

    804年(延暦23年)、31歳のときに留学僧として中国・とうに渡り、都の長安ちょうあん真言密教しんごんみっきょうを学びました。また、書や詩文など幅広い分野の学問にも精通し、2年後に帰国しました。

    帰国後、空海は日本において密教を広め、真言宗の創始者として大きな役割を果たしました。さらに、土木工事や教育など多方面にわたり影響を与え、その功績は宗教にとどまらず、日本文化全体に及んでいます。

    空海は835年(承和2年)に63歳で亡くなりましたが、921年(延喜21年)に醍醐天皇だいごてんのうより「弘法大師こうぼうだいし」の諡号しごうを賜り、以後、弘法大師として後世にその名を残しています。

    空海についてさらに詳しく知りたい方は、「空海の書道においての活躍/日本の書道の源流に位置する人物/代表作品も紹介」をご覧ください。

    風信帖を書いた空海と最澄の関係

    真言宗の開祖である弘法大師空海と、天台宗の開祖である伝教大師最澄。平安時代の仏教界を代表するこの二人の関係は、最初は別々の道を歩んでおり、お互いを意識することはありませんでした。しかし、遣唐使としての経験や、空海が持ち帰った密教の教えが、二人の交流を深める大きなきっかけとなりました。

    ここからは、空海と最澄がどのように出会い、その後どのように交流を深めていったかをご紹介します。

    2人が出会うまで:空海と最澄の遣唐使としての旅

    最澄は767年(神護景雲じんごけいうん元年)に近江国おうみのくにで生まれ、12歳で近江の大国行表ぎょうひょうのもとで出家しました。785年(延暦4年)4月6日には東大寺で具足戒ぐそくかいを受けましたが、その年の7月中旬には比叡山に登り、788年(延暦7年)には22歳で比叡山寺を建立しました。

    一方、空海は774年(宝亀5年)に讃岐国さぬきのくにで生まれ、15歳のときに母方のおじにあたる阿刀大足あとのおおたりに連れられて京に上り、18歳で大学に入学しました。しかし、まもなく退学し、四国や大和、紀伊などの山野を巡りながら求聞持法ぐもんじほうの修行を続けました。そして、24歳で『三教指帰さんごうしき』三巻を著し、出家の志を固めました。

    804年(延暦23年)5月12日、難波(大阪)の港から遣唐使の四船団が出航しました。第一船には大使の藤原葛野麻呂と共に、空海や橘逸勢ら23名が乗り、第二船には遣唐副使の菅原清公と共に、最澄や訳語僧(通訳)の義真ら27名が乗り込みました。彼らは7月6日に肥前国田ノ浦を出発し、唐への旅に出ました。

    この時、最澄はすでに平安仏教界を代表する僧侶で、桓武天皇からの信頼も厚く、短期間の視察を目的とした還学生でした。入唐の費用として、安殿親王から金銀数百両が支給されました。

    一方、空海は長い間私度僧として活動しており、いわば半僧半俗の立場にありましたが、渡航の際に急遽、東大寺戒壇院で出家し、具足戒を受けました。そして、20年の長期留学を目的とする留学生に任命されました。彼のパトロンはおそらく伊予親王だったと考えられています。

    このとき、最澄は38歳、空海は7歳年下の31歳でした。

    この入唐の時期、最澄と空海はまだ一度も顔を合わせたことがありませんでした。第一船は8月10日に福州の赤岸鎮に漂着し、その後11月3日に福州を出発、12月23日に長安に到着しました。一方、第二船は9月1日に明州の寧波府に到着し、最澄はすぐに天台山へ向かいました。このように、二人は唐に渡った後も、異なる目的でそれぞれ別々に行動していました。

    出会いのきっかけ:空海の『請来目録』に驚愕した最澄

    最澄は、遣唐使としての任務を終え、805年(延暦24年)6月5日に葛野麻呂の遣唐船で対馬に帰国しました。

    一方、空海は長安ちょうあんに滞在し、青竜寺しょうりゅうじの恵果(けいか)に師事して密教の伝授を受けました。そして、806年(大同元年)10月ごろに遣唐副使の高階遠成(たかしなのとおなり)の遣唐船で帰国し、太宰府に留まりました。空海は、唐から持ち帰った膨大な経典や仏像、曼荼羅まんだら(密教で生まれた絵)などのリストである『請来目録(しょうらいもくろく)』を上奏文に添えて高階遠成に託し、彼は12月13日に入京して帰国報告を行いました。

    しかし、空海の入京許可はすぐには下りませんでした。その理由はいくつか考えられますが、20年の留学予定がわずか2年で帰国したため、朝廷は空海の扱いに戸惑ったのではないかと考えられます。

    その後、空海の『請来目録しょうらいもくろく』が平城天皇(かつて最澄のパトロンであった安殿親王で、桓武天皇の第一皇子)の手に渡り、その影響で最澄もこの『請来目録』を見ることになりました。

    最澄は帰国間際に越州で順暁じゅんぎょうに出会い、2ヶ月間だけ善無畏ぜんむい系のいわば直系ではない密教を学んだにすぎませんでしたが、桓武天皇は最澄を密教の最高権威者として認め、信頼を寄せていました。806年(延暦24年)9月初旬に高雄山寺で行われた伝法灌頂でんぼうかんじょうも、日本における最初の密教の儀式として行われたものでした。

    しかし、『請来目録』を目にした最澄は、インド直伝の正統な唐密教を日本にもたらしたのが空海であることを知り、驚愕と動揺を隠すことができませんでした。これは最澄にとって、空海の存在を強く意識するきっかけとなったのです。

    京都東寺に所蔵されている『請来目録』(国宝)は、最澄が書き写したものとされており、812~813年(弘仁3~4年)ごろの筆写と推定されています。これは、後に述べるように、二人の交流が最も親密だった時期に書かれたものです。

    交流の深まり

    空海は帰国後、翌年の6月に太宰府から近くの観世音寺に移りましたが、筑紫つくしでの滞在は予想以上に長引きました。

    しかし、809年(大同4年)2月3日、空海は最澄宛てに手紙を送りました。このころ、空海は最澄に会うために近畿地方に来ていたと考えられます。もしかすると、入京許可を得られなかった空海を、最澄が九州から呼び寄せた可能性も十分に考えられます。

    同年4月、平城天皇が嵯峨天皇(神野親王)に譲位し、情勢が一変しました。これにより、朝廷の空海に対する認識も変わったようです。8月24日付の書簡で、最澄は弟子の経珍きょうちんを空海のもとに送り、『大日経略摂念誦随行法』を含む十二部の密教経典を借りたいと申し出ました。その書き出しには挨拶がなく、「謹啓 借請法門事 合十二部…」と書かれているため、これ以前から密教経典の貸し借りや、二人の交流があったことがうかがえます。さらに、最澄は空海のために和気真綱わけのまつなに紹介状を書き、高雄山寺に住むことを斡旋しました。

    813年(弘仁3年)9月、最澄は乙訓寺おとくにでらで空海を訪ねました。同年11月15日、空海が高雄山寺で金剛界の結縁灌頂けちえんかんじょうを行った際、最澄は和気真綱わきのまつな美濃種入みののたねとと共にこれを受けました。さらに、12月14日に同じく高雄山寺で行われた胎蔵結縁灌頂では、最澄を含む145人が受灌しました。

    平安仏教界のリーダーである最澄が、新たに帰国した年下の空海に弟子入りし、両部の灌頂を受けたことは、多くの人々を驚かせたことでしょう。この出来事は、空海の存在が一気に注目を集めるきっかけとなりました。

    風信帖の内容

    風信帖の内容は、平安時代の僧である空海くうかい最澄さいちょうにあてた手紙です。
    現在、3通の手紙が現存しており、それぞれ9月11日、9月13日、9月5日に書かれています。偶然にも同じ9月に書かれた手紙ですが、それぞれ内容が異なるため、別々の年に書かれたものと考えられています。

    3通の手紙はいずれも、空海が最澄に対して抱いている尊敬、思いやり、そして感謝の気持ちが込められた内容となっています。
    以下は、それぞれの手紙の内容についての解説です。

    また、風信帖の内容についてより詳しく知りたい方は、「風信帖の内容を全文現代語訳で紹介」をチェックしましょう。

    1通目:風信帖の内容

    まず、最澄が贈ってくれた天台大師智顗(ちぎ)の『摩訶止観(まかしかん)』20巻について、空海は丁寧にお礼を述べています。そして、最澄から「比叡山に来てほしい」という誘いを受けていますが、空海は自身の都合が悪く、伺うことができないと伝えています。

    また、空海は最澄と室生山の堅慧(けんえ)の3人で集まり、仏教の根本的な問題について話し合い、仏教活動を活発にして仏の恩に報いたいと考えています。そのため、どうか手間を惜しまずに、この乙訓寺までお越しくださいとお願いしています。

    2通目:忽披帖の内容

    最澄からは、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)に宛てた手紙も届けられたようです。その手紙を拝受しました、と書いています。

    一方、空海は現在仏事で忙しいため、仏事が終わったら詳しく返信すると伝えています。このことから、おそらく空海宛ての手紙も含まれていたのでしょう。現代のメールで例えるなら、「確認してから返答します」といった状況です。

    3通目:忽恵帖の内容

    3通目も、最澄からの手紙に対する返事です。

    空海は、別便で託された香やその他の贈り物を9月3日に受け取ったことを伝えています。そして、3日から始めた修法が9日までに終わる予定であり、10日の早朝に最澄の元を訪れたいので、そのつもりでお待ちくださいとお願いしています。

    続いて、2つの要件が記されています。
    1つ目は、山城と石川の2人の仏教者が深く最澄の徳を敬い、ぜひお会いして話したいと望んでいること。2つ目は、仁王経などの経典を借りたいという依頼があったが、それらの経典は国分寺の講師が持ち帰ってしまっているため、後日必ずお貸しするという内容です。

    風信帖の書風、特徴

    曲線

    風信帖は行書体で書かれているため、曲線が多いです。単にまるく書かれているのではなく、一画一画の直線的要素が加味されています。これにより線に強さを与えて、いわゆる骨力のある書を形づくっています。

    文字の傾斜

    風信帖を一見すると文字が全体に左に傾いていることに気づきます。傾斜の繰り返しは動きや変化を表現するためには、重要な要素です。

    筆圧の変化

    「風信」「恵止」「頂戴」といったすごいボリュームのある線質があるかと思えば、「供養」とか「遍照状上」といった細くて軽い線もあります。また、1文字の中にも筆圧の変化による軽重、太細、主従などの変化があります。

    行の構成

    連綿で文字と文字がつながっている部分は、下に来る字は上の文字よりも必ず右下に書かれていて、連綿に無理のないように配慮されています。

    また、1行の中で文字の中心が少しずつ左右に揺れています。行のうねりが生じています。

  • 曹全碑(そうぜんひ)の臨書作品制作に使える全文拓本画像

    曹全碑(そうぜんひ)の臨書作品制作に使える全文拓本画像

    この記事では、曹全碑そうぜんひの臨書作品制作に使える全文の拓本画像を紹介します。

    曹全碑の内容や書風、書き方については、下の記事でくわしく解説しています。

    曹全碑の拓本画像

  • 【北魏の楷書】龍門造像記について詳しく解説/龍門石窟/龍門二十品

    【北魏の楷書】龍門造像記について詳しく解説/龍門石窟/龍門二十品

    「造像記(ぞうぞうき)」とは、仏像を制作する際に、発願者や制作の背景、由来などを仏像の横に刻んだ碑文のことを指します。中国北朝ほくちょう時代の造像記の中でも、「龍門二十品りゅうもんにじっぴんぴ」は特に名品とされ、古くから高い評価を受けています。その筆づかいは、一画一画が丁寧に書かれており、質朴でありながら緊張感が漂う書風が特徴です。

    今回は、この龍門造像記の背景、制作の歴史的意図、そしてその書風や芸術的価値について詳しく解説していきます。龍門二十品の奥深い魅力に迫ることで、北魏時代の仏教文化や書道の美しさを、より一層感じていただけることでしょう。

    造像記が刻まれた場所「龍門石窟」

    龍門石窟
    龍門石窟

    龍門石窟りゅうもんせっくつ」は、中国河南省の古都・洛陽から南に約14㎞の位置にあり、伊水(いすい)川を挟んで東西に広がる石灰岩の岩山に彫り込まれています。この石窟群は、2000年にユネスコの世界遺産にも登録され、国内外から多くの観光客が訪れる歴史的な文化遺産です。

    龍門という名前は、この狭く長い谷間が両側の岩山によってまるで門のように見えることに由来します。伊水を挟んだ両岸の岩山が「門」を形成し、「伊闕(いけつ、闕は門の意味)」とも呼ばれ、さらに「龍門」とも称されるようになりました。この「龍」は皇帝を指す表現としても使われています。

    龍門石窟が造られた理由〈平城から洛陽への遷都〉

    北魏の平城から洛陽への遷都(龍門石窟)
    北魏の平城から洛陽への遷都(雲崗石窟から龍門石窟)

    龍門石窟が作られるきっかけとなったのは、北魏ほくぎの第6代皇帝・孝文帝こうぶんていが、494年に都を北方の平城へいじょう(現在の山西省大同市)から中原の洛陽らくようへ移したことでした。

    北魏ほくぎという国は、北方少数民族であるモンゴル系遊牧民が、勢力の大きい漢人かんじんを抑え込んで建てた国です。
    そのため漢人をいかに自分たちの権力内にとりこむか、いかに人々の心をうまくとらえるか、が最大の課題でした。都を北の方にあった平城へいじょうから南の方の洛陽らくように移ったのもその政策の一環でした。

    そこで人々の心をつかむのに使われたのが宗教の力です。北魏は大乗仏教だいじょうぶっきょうによって民衆の教化、掌握しょうあくをはかり、みずからの正統性を主張するよりどころとしたのです。

    北魏の都がまだ平城へいじょうにあった5世紀後半、平城から西20㎞の場所に雲崗石窟うんこうせっくつが国家的事業として造られ、広く人々の信仰を集めました。そのため都を移した先の洛陽らくようにおいても、移り住んだ人々の信仰心を満たし、一体感を作るために、雲崗石窟の代わりの石窟として龍門石窟が造営されたのでした。
    龍門石窟りゅうもんせっくつは、そうした背景によって雲崗石窟うんこうせっくつの役割を受け継ぐものとして始まったのです。

    北魏という国について

    北魏ほくぎは、中国大陸の西北部、蒙古方面から山西の大同付近にかけて牧畜に従事していたモンゴル系遊牧民が建国した国です。

    彼らはもともと熱心な仏教信者でしたが、孝文帝こうぶんていのころ(5世紀)には一段と仏教が栄え、山西大同には雲崗石窟寺院が、やがて洛陽南郊に龍門石窟が開鑿されました。
    この2つの石窟に彫られた仏像郡が優れた芸術性を誇る石造彫刻として美術史上、また宗教史上重要視されています。そうした仏像の近辺に刻された造像記が歴史の事実を後世に伝える重要資料となっています。

    龍門石窟に刻まれた造像記「龍門二十品」を紹介

    龍門石窟内すべての造像記は3689種あるとされています。多くの造像記のなかから、とくに優れたものを抜粋して四品、十品、二十品、五十品、百品などの呼び方がされています。
    四品でいうと、「始平公」「孫秋生」「魏霊蔵」「楊大眼」の4つで、どれも龍門造像記を代表させるにふさわしい書風を誇っています。
    そこからさらに優品10種類を選んで龍門十品、さらに10種類を増やして龍門二十品、そしてまた小品をも加えて龍門五十品…と名付けたものも存在します。

    現在、もっとも一般に用いられるのは「龍門二十品」です。これをもって龍門造像記の代表作を精選したものと理解してよいでしょう。

    以下では「龍門二十品」をそれぞれ紹介していきます。

    1,牛橛造像記(ぎゅうけつぞうぞうき)

    牛橛造像記
    牛橛造像記 ※クリック/タップで拡大

    牛橛造像記ぎゅうけつぞうぞうきは、製作年代のわかる龍門造像記のなかでもっとも古いものです。

    内容は、司空公・長楽王であった丘穆陵きゅうぼくりょうりょう(451~502)の夫人尉遅うつちが、先に亡くなった息子の牛橛ぎゅうけつのために弥勒像1体を造り冥福を祈ったものです。
    丘穆陵氏は代々帝室と婚姻関係を結んでおり、孝文帝の側近として重要な地位にありました。

    文字の特徴は、点画の起筆・終筆が明快で、字形はよく整い、品格が高く、情趣に富んでいます。

    牛橛造像記について詳しくはこちらで解説しています。↓

    2,一弗造像記(いちふつぞうぞうき)

    一弗為造像記
    一弗為造像記 ※クリック/タップで拡大

    歩轝郎張元祖ほよろうちょうげんその妻一弗いちふつが釈迦像一軀を造り、亡くなった夫がただちに仏国に生まれられるよう祈ったものです。

    文字は北魏楷書として正しい筆法で書かれています。牛橛造像記の次に古い造像記で、わずか30字という小さなものですが、技巧の勝った優品と言えます。

    3,始平公造像記(しへいこうぞうぞうき)

    始平公造像記
    始平公造像記 ※クリック/タップで拡大

    始平公造像記しへいこうぞうぞうきは、龍門造像記としては珍しい陽刻ようこくで、しかも筆者(朱義章しゅぎしょう)と撰文者(孟達もうたつ)の名前が明記されています。

    発願者の比丘慧成びくえじょうは龍門石窟寺を創建した高僧です。内容は創建の由来を述べ、亡き父の使持節・光禄大夫・洛州刺史の始平公しへいこうを供養するために釈迦像一軀を造営したというものです。

    文字は肉太ですが鈍重な感はなく、厳しさと量感とを併せもっています。側筆を思わせるほど線は角ばっていますが、悠々とした安定感があり、龍門造像記を代表する作品です。

    4,北海王元詳造像記(ほっかいおうげんしょうぞうぞうき)

    北海王元詳造像記
    北海王元詳造像記 ※クリック/タップで拡大

    孝文帝こうぶんていの異母弟にあたる北海王ほっかいおう元詳げんしょうが生母こう氏の発眼にもとづき、弥勒像一軀を造営し、母子の長寿、一門の繁栄、一切衆生に功徳を受けることを願ったものです。
    元詳げんしょう(476~504)は献文帝の第7子ですが、汚職、不倫がもとで位階いかいを奪われ、造像記の造営から6年後の29歳で刑死しました。

    文字は鄭道昭ていどうしょう摩崖まがいに似て点画が柔軟であり、龍門二十品の中では筆意のよく暢達した雰囲気があります。

    5,解伯達造像記(かいはくたつぞうぞうき)

    解伯達造像記
    解伯達造像記 ※クリック/タップで拡大

    伊闕の警備にあたる解伯達かいはくたつが弥勒像一軀を造り、国家の興隆・安穏、父母の長寿、一切衆生の幸福などを願ったものです。
    警備が造像記を造っているという点から、造像の作成は各階層に広く浸透していたことがうかがえます。

    文字は細字ながら、鋭い点画を筆路のよく暢達した風格があります。牛橛造像記に似た書風です。

    6,魏霊蔵造像記(ぎれいぞうぞうぞうき)

    魏霊蔵造像記
    魏霊蔵造像記 ※クリック/タップで拡大

    河北鉅鹿出身の魏霊蔵ぎれいぞうと山西河東の薛法紹せつほうしょうの2人が釈迦像1体を造り、皇道の永興、一門の繁栄、成仏を願ったものです。

    筆路の暢達した、よく整った字形です。横画終筆部分に筆をはね上げる隷法がみられ、北方系のやや古様の風格があります。
    龍門の代表作の1つで、四品のなかにも数えられています。

    7,北海王国太妃高造像記(ほっかいおうこくたいひこうぞうぞうき)

    北海王国太妃高造像記
    北海王国太妃高造像記 ※クリック/タップで拡大

    北海王国太妃の高氏が、早世した孫の保のために弥勒像1体を造り、供養したものです。

    保という人物については、いつ亡くなったのか明らかではありませんが、高氏が504年(正始元年)に元詳とともに刑死しているので、それ以前の造営になります。

    文字は、円やかな姿、細味で柔軟な筆線が目立ち、元詳造像記に似た書風です。

    8,楊大眼造像記(ようたいがんぞうぞうき)

    楊大眼造像記
    楊大眼造像記 ※クリック/タップで拡大

    楊大眼は、西域(甘粛成県)出身の勇者で、孝文帝に従って軍功をあげた人物です。楊大眼の信者会員の喜捨を集めて釈迦像1体を造り、亡き孝文帝の追善供養をしたものです。

    下半分の損傷が目立ちますが、龍門四品の1つに数えられるように、その文字は骨力峻抜で、字形も整い、北魏の標準的な書ということができます。

    9,比丘道匠造像記(びくどうしょうぞうぞうき)

    比丘道匠造像記
    比丘道匠造像記 ※クリック/タップで拡大

    比丘道匠が仏像6体を造り、皇道の隆盛、師僧父母の成仏などを願ったものです。

    三角点の鋭い方筆ですが、横画の終筆をはね上げる隷法や、行書体があり、筆者の心の躍動が感じられます。

    10,鄭長猷造像記(ていちょうゆうぞうぞうき)

    鄭長猷造像記
    鄭長猷造像記 ※クリック/タップで拡大

    鄭長猷は、孝文帝の南侵攻時に戦功があり、南陽太守、洛陽侯に除せられ人物です。内容は、亡き父えんと母皇甫こうほ氏、児士龍しりょうのために弥勒像1体を造り供養したこと、まためかけ陳玉女ちんぎょくじょが亡き母じょ氏のために喜捨供養したことが書かれています。

    書風は二十品中では特異なもので、素朴で野趣に富みます。北魏書としては古様の姿を示すものです。 

    11,孫秋生造像記(そんしゅうせいぞうぞうき)

    孫秋生造像記

    新城県の孫秋生そんしゅうせい劉起祖りゅうきその2人が主催しゅさいし、会員200人の喜捨により釈迦像1体を造営したものです。483年(太和7年)からおよそ20年かけて完成したもので、願文末尾に撰文者(孟広達もうこうたつ)と書者(蕭顕慶しょうけんけい)の名前があり、よほど重要な造仏事業であったことがうかがえます。

    文字は、上段は方筆の特徴を発揮し、龍門四品の1つに数えられるように重厚で勁健けいけんな書風ですが、中下段の歴名は別のひとの筆で、その書格は落ちるようです。

    12,高樹解佰都等造像記

    高樹解佰都等造像記
    高樹解佰都等造像記

    主催者高樹、解佰都など32人の喜捨により、菩薩像1体を造営し、祖先や各一族の成仏を願ったものです。

    11番で紹介した孫秋生造像記に遅れることわずか3日でありその書風も似ています。しかし、孫秋生造像記に比べて規模は小さく、字間が狭く、見劣りします。

    13,比丘恵感造像記(びくえかんぞうぞうき)

    比丘恵感造像記
    比丘恵感造像記

    古陽洞の開鑿で活躍した比丘恵感びくえかんが亡き父母のために弥勒像1体を造り、国家の永遠、仏法の興隆、師僧・父母・一族の幸福を願ったものです。

    その書風は、6魏霊蔵造像記きれいぞうぞうぞうき、11孫秋生造像記そんしゅうせいぞうぞうきなどに近いです。

    14,賀蘭汗造像記(がらんかんぞうぞうき)

    賀蘭汗造像記
    賀蘭汗造像記

    広川王霊遵こうせんおうれいじゅんの祖母こう氏が、亡き夫の賀蘭汗がらんかんのために弥勒像1体を敬造し、供養したものです。侯氏は翌年にも弥勒像を造り、ともに二十品に数えられています(16広川王祖母太妃侯造像記)。

    広い空間に大小の文字、行立て、文字の傾きが自由奔放に置かれており、筆者の自然な心の躍動が表出されています。

    15,馬振拝造像記(ばしんぱいぞうぞうき)

    信仰団体の主、馬振拝ばしんぱい張子成ちょうしせい許興族きょこうぞく34人が、皇帝の長寿と国家の隆盛を願い、宣武皇帝のために仏像事業に参加、喜捨したことを記しています。

    この造像記は唐刻の優塡王うでんおう造像記に代わり、龍門二十品に加えられたものです。その書風は龍門様式の特徴を有しています。

    16,広川王祖母太妃侯造像記(こうせんおうそぼたいひこうぞうぞうき)

    広川王祖母太妃侯造像記
    広川王祖母太妃侯造像記

    14賀蘭汗造像記につづき、広川王祖母の侯氏が弥勒像1体を造営し、幼孫広川王の永興、仏法の流布などを願ったものです。夫を失い、幼い孫を養育して王国を守らんとする立場にあって、仏にすがる彼女の不安な心境と、あつい信仰ぶりとがうかがえます。

    17,比丘法生造像記(びくほうしょうぞうぞうき)

    比丘法生造像記
    比丘法生造像記

    比丘法生びくほうしょうは龍門造営に貢献した僧侶の1人と考えられています。孝文帝と北海王元詳およびその母高氏のために釈迦像1体を造り、供養したものです。

    18,安定王元燮造像記(あんていおうげんしょうぞうぞうき)

    安定王元燮造像記
    安定王元燮造像記

    安定王の元燮げんしょうが釈迦像1体を造り、亡き祖父母および亡き父母を供養し、一族の成仏を願ったものです。

    19,斉郡王元祐造像記(せいぐんおうげんゆうぞうぞうき)

    斉郡王元祐造像記
    斉郡王元祐造像記

    仏教の功徳を説き、ゆうの人柄や仏教の教理に精通していることを述べているもので、斉郡王裕のために弥勒像1体を造営したものと思われます。

    書風は温厚なまとまりで、ほかの造像記と雰囲気が異なります。

    20,比丘尼慈香慧政造像記(びくにじこうえしょうぞうぞうき)

    比丘尼慈香慧政造像記
    比丘尼慈香慧政造像記

    比丘尼の慈香と慧政とが仏像1体を造営し、仏教の功徳や衆生に幸福あらんことを願ったものです。

    書風は龍門二十品のなかでとても特殊なもので、行草書体のような柔軟な用筆、細太のいりまじった変わった書風です。

    龍門造像記の流行

    龍門石窟は北魏人の信仰心の強さ、信仰集団の豊富さを物語るものですが、書道としての造像記の文字は、同じ石窟内の彫像に比べるとあまり注目されていませんでした。とう時代に褚遂良ちょすいりょうが伊闕仏龕碑(641)を揮毫し、杜甫とほは「遊龍門奉先寺詩」に、白居易はくきょいは「修香山寺記」にそれぞれ龍門について詠んでいますが、この時期は造像記の書風について触れられていません。
    書法の技術を重んじる帖学派じょうがくはの人々にとっては、三角・鋭角な線はノミで彫るからできるもの、あるいは石工の彫り損じであるとし、むしろ卑俗、粗野なものと無視していたからです。

    書道として北魏の書風が注目されるようになるのはしん時代の乾隆けんりゅうごろからです。金石学きんせきがくの盛行につれて書作品としての面白さが謳われだし、龍門を著録するものが増えました。そして石窟研究の深まりとともに作品制作の面でも北朝の碑刻を尊ぶ風潮は栄え、やがて造像記の墨拓本が流行するようになりました。

    繆筌孫みょうせんそん『藝風堂金石文字目』の1100種をはじめ、呉式芬ごしきふんは932種、洛陽知事の曾炳章そうへいしょうは1700種を集めたといいます。
    楊守敬ようしゅけいは『寰宇貞石図』に14種を縮印、そして開封の関百益かんはくえきは2000余種を詳備した目録『伊闕石刻図表』2冊を著わし、北魏造像記の大半を網羅しました。

    清時代の書道史上においては、阮元げんげんの『北魏南帖論』『南北書派論』の影響を受けて碑学派が台頭し、包世臣ほうせいしん呉熙載ごきさい、さらに北魏書と形容される趙之謙ちょうしけんのような龍門様式の追随者を輩出しました。

  • 顔勤礼碑について解説【特徴・書き方】【顔真卿の楷書】

    顔勤礼碑について解説【特徴・書き方】【顔真卿の楷書】

    顔勤礼碑がんきんれいひは、中国のとう時代に活躍した書道家、顔真卿がんしんけいが書いた楷書の作品です。

    本記事では、作者である顔真卿について、その作品顔勤礼碑について、特徴・書き方も紹介します。

    著者・顔真卿について

    伝顔真卿肖像 『歴代聖賢半身像』より
    伝顔真卿肖像 『歴代聖賢半身像』より

    顔真卿がんしんけい〈景龍3年(709)~貞元元年(785)〉、あざな清臣せいしん、開元22年(734)進士しんしに及第しました。

    書道に優れた人物で、初唐しょとう三大家さんたいか欧陽詢おうようじゅん虞世南ぐせいなん褚遂良ちょすいりょう)に顔真卿を加えて「とう四大家したいか」といわれます。
    新しい書風を提唱し、書聖・王羲之おうぎしとともに歴代の能書家のうしょかの中の双璧とされています。

    顔真卿について詳しくは下の記事で紹介しています。↓

    顔勤礼碑について

    顔勤礼碑
    顔勤礼碑

    顔勤礼碑がんきんれいひは、顔真卿がんしんけい曾祖父そうそふ顔勤礼がんきんれいのために陝西せんせい長安ちょうあん郊外の萬年県寧安郷鳳栖原にあるその墓側に建てた神道碑で、撰文せんぶん書丹しょたんともに顔真卿自身によるものです。

    銘文がないため建碑の年代は確定できませんが、碑文によれば顔氏家廟碑がんしかびょうひ(建中元年・780)より少しさかのぼる大暦だいれき14年(779)ごろ、顔真卿が71歳前後であると考えられています。

    顔勤礼という人物について

    顔勤礼がんきんれい(字は敬)は唐時代初期における著名な学者・顔師古がんしこの弟で、李世民りせいみん(のちのとう太宗たいそう)にしたがって長安ちょうあんに入り、朝散正議大夫ちょうさんせいぎたいふを授けられ、秘書省ひしょしょう校書郎こうしょろうとなりました。のち崇賢館学士すうけんかんがくしとなり、秘書省ひしょしょう著作郎ちょさくろうにいたりました。
    高宗こうそう王皇后おうおうごうの一族の娘をめとり、これが昇進の糸口となるはずでしたが、永徽えいき6年(655)王皇后おうこうごう寵愛ちょうあいを失い廃されると、そのまきぞえをおい左遷させんされ、やがて顕慶けんけい6年(661)上護軍を加え、官舎に率しています。

    顔勤礼碑の構成

    顔勤礼碑は、発見時から石が2つに割れていたので、毎行1・2文字欠けています。文は4面に環刻されており、碑陽は19行で毎行38字、碑陰は20行で毎行38字、左側面は5行で毎行37字、右側は銘文が刻されていたようですが、すでに切り取られていました。『金石録』跋によれば、この部分は北宋の元祐年間にはもうなくなっていたらしく、したがって現在、およそ1600余り字が数えられます。

    碑陰の文字は4㎝平方の大きさで縦18㎝、横89㎝のところに700文字以上がびっしりと書かれています。行間、字間はほとんどありません。

    顔勤礼碑の特徴

    顔勤礼碑と多宝塔碑の比較

    44歳に書かれた多宝塔碑たほうとうひと顔勤礼碑を比較してみると、多宝塔碑の方は肉太で力を入れた整斉な書風ですが、顔勤礼碑の方は縦画と横画の調子が軽妙であるため、スケールが大きく見え、かなり変化に富んだ印象を受けます。

    文字が四角のマスにおさまるように構築されていて、手足や頭が出ていません。それでも横画を鋭く細めに、縦画を丸く太めに書き、文字自体のなかに空気がたくさん吸収されているため、全体的に明るい印象をもちます。
    これは向勢にまとめられているからで、これこそ顔真卿の大きな特徴です。

    顔勤礼碑の書き方

    次に、顔勤礼碑の書き方を紹介します。

    横画の書き方

    横画の起筆には2通りの方法がみられます。

    顔勤礼碑の起筆比較

    「士」の1画目のように穂先をしっかりみせてするどいものと、「童」のようにまず穂先を進行方向と逆におろし、起筆をまるくしているものがあります。
    筆の入れ方によって線が穏やかになったり、厳しくなったりするので、よく見てください。

    運筆は、筆を入れてから一旦浮かし、最後までねばりのある線でのびやかさをもあらわして運んでいます。

    終筆は筆管を右下へねじるようにして柔らかな丸さを表現しています。

    縦画の書き方

    顔勤礼碑は向勢

    顔勤礼碑の縦画は向勢で書かれています。

    「仁」「同」のように起筆を緩やかにして、そのままの太さで運筆されています。ねばりと厚さが表現されていて、ゆっくりとした慎重な筆遣いが伝わってきます。

    また「中」のように下から筆を突き上げて穂先を丸めこんでから引きおとしたものもあります。
    この場合、筆を抜くところまでけっして気力をゆるめていません。つまり、先端に精神が宿るように運んでいます。この筆法を懸針けんしんと呼んでいます。

    九成宮や雁塔聖教序では針のようですが、顔勤礼碑では太くくいのようです。

    また、縦画が2本3本とならぶ文字でも、向勢の特徴を乱さないようないろいろな工夫がみられます。
    線の太さも変化しているので注意してみてください。

    左はらいの書き方

    左はらいにもさまざまな変化がみられます。

    顔勤礼碑の左はらい

    ①「軍」の2画目は強い打ち込みのあと細く鋭くなっています。
    短い左はらいは、起筆でしっかり押さえこんで反動をつけるような気持ちでで腰をあげ、左下へはねます。

    ②「後」では1画目と2画目とは筆の運びが違っています。
    やや短い「後」の2画目のようなはらいでは、先端まで鋭さを含みながらも表面には暖かさと柔らかさが加わっていいます。

    また、③「大」と④「君」の左ハライを比較してみると、進路の方向によって起筆や太さまでも違い、表情がかなり異なっています。

    右はらいの書き方

    顔勤礼碑の右ハライの書き方

    右はらいは、太らせながら最後に一旦止まり、再度逆もどりをして右へはねだします。太くゆったりとした様子は、横画の細さを比較すればわかりやすいでしょう。

    顔真卿の書は左はらいにくらべて右はらいにかなりのウエイトをおいています。それが顔真卿の特徴の1つでもあります。

    折れの書き方

    顔勤礼碑の折れ、転折の書き方

    折れは、横画から縦画への接点をやや細めにし、下へ引き下ろすにしたがって力が加わり、曲線を描きながら終筆までもってきています。中には線の内側は直線に近く、外側のみが曲線で肉太になっているものもあります。

    「加」のように、まず横画を引き、曲がり角で一旦筆を離し、再度縦画を書くものもあります。

    ハネの書き方

    顔勤礼碑のハネの書き方

    縦画からのハネは、上からおりてきた筆を一旦止めて少し上へもどし、再度左下へおろして左上方へ力をあふれださせます。
    九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめいの「事」では右へ向かって三角形を作るように押しますが、顔真卿の書ではジャンプするような動きがみられます。

    顔勤礼碑の乙脚のハネの書き方

    「尤」「兄」などの乙脚部分では、すぐにはねるのではなく、進んできた方向へ逆もどりするように筆をはじきだします。

    顔勤礼碑の上達には道具も大切

    ここまで顔勤礼碑の書き方を紹介してきましたが、これらの技法や筆づかいを表現するためには、適切な道具が不可欠です。
    特に筆の選び方は非常に重要です。適切な筆を使わないと、上達しないばかりか、間違った方法を覚えてしまうこともあります

    もし、「お手本通りにうまく書けない…」や「筆が思うように動かない…」と感じる方は、普段使っている筆を見直してみると良いかもしれません。

    書道筆「小春」は、その書きやすさと使いやすさから、多くの書道愛好者に支持されています。
    筆選びで迷っている方は「書道筆『小春』の魅力:初心者からプロまで愛される万能筆の秘密」を参考にしてみてください。

    まとめ

    ここまで顔勤礼碑について解説、特徴・書き方も紹介しました。

    自分の作品の中に重厚さをもたせたい。線が細いので、太い線のどっしりとした作品を創りたい。
    あるいは、自分の字は線と線の余白が狭く見えるので、ふところの大きなものにしたい。
    このように考えている方は、顔勤礼碑をはじめとする顔真卿の楷書を学べば、きっと自身の書風改善の大きな助けとなるでしょう。

  • 石鼓文(せっこぶん)の臨書に使える全文拓本画像【中権本】

    石鼓文(せっこぶん)の臨書に使える全文拓本画像【中権本】

    こちらの記事では、石鼓文の拓本画像を紹介しています。

    なお、石鼓文について詳しくは以下の記事で紹介しています。↓

    石鼓文#1
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  • 九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)の全文拓本画像【李琪本】

    九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)の全文拓本画像【李琪本】

    九成宮醴泉銘【李琪本】#1
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    九成宮醴泉銘【李琪本】#49
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    九成宮醴泉銘【李琪本】#51
  • 興福寺断碑について解説【臨書に使える全文拓本画像】

    興福寺断碑について解説【臨書に使える全文拓本画像】

    興福寺断碑こうふくじだんぴは、中国しん時代の書家・王羲之おうぎしの文字を集字して作られた碑です。
    集王聖教序しゅうおうしょうぎょうじょ蘭亭序らんていじょとともに、彼の書法を解明するうえでもっとも貴重なものの1つです。

    興福寺断碑を臨書することで、王羲之の美しい行書に近づくことができるでしょう。

    今回は、王羲之の興福寺断碑について解説し、臨書につかえる全文拓本画像も紹介します。

    興福寺断碑について解説

    興福寺断碑
    興福寺断碑 全装本

    興福寺断碑こうふくじだんぴは、集王聖教序しゅうおうしょうぎょうじょと同じく王羲之の文字を集字して作られています。
    大雅たいがによって集字されました。

    碑はみん時代の萬暦年間(1573~1620)の末に西安城の南のからぼりで、底にたまった土砂や汚物を取り除いている際に出土しました。しかし、すでに上半分が欠失していて、下半分の残碑の約93×126㎝、35行1行23~25文字、残存字数約730字のみでした。
    現在、陝西省博物館西安碑林の第2室に列置されています。

    興福寺断碑の全文拓本画像

    興福寺断碑
    興福寺断碑#1 クリック/タップで拡大
    興福寺断碑
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    興福寺断碑
    興福寺断碑#22
  • 乙瑛碑(いつえいひ)について解説【書き方・特徴・書風・臨書作品に使える全文拓本画像】

    乙瑛碑(いつえいひ)について解説【書き方・特徴・書風・臨書作品に使える全文拓本画像】

    乙瑛碑(いつえいひ)について解説

    乙瑛碑 整本
    乙瑛碑 整本 東京国立博物館蔵

    乙瑛碑いつえいひは、中国後漢ごかん時代、153年(元興元年)に建てられた碑です。

    場所は、立碑のときからそのまま山東省さんとうしょう曲阜市きょくふし孔子廟こうしびょうにあります。現在は孔子廟内の東廡「漢魏碑刻陳列室」(通称「孔廟碑林)に置かれています。

    碑の大きさは、260×129㎝。
    題額はありません。
    構成は、18行、行ごとに40字。碑陰は無字。全文で766文字あります。

    この碑には題額がないためもあって、さまざまな別称があります。
    ・魯相置孔子廟卒史碑(『集古録跋尾』巻2)
    ・孔廟置守廟百石孔龢碑(『隷釈』巻1)
    ・魯相乙瑛置孔子廟卒史碑(『金石史』巻上)
    ・魯相乙瑛請置百石卒史孔龢碑(『庚子銷夏記』巻五)
    ・孔廟置守廟百石卒史碑(『両漢金石記』巻6)
    そのほか多数の呼び方があります。

    また百石卒史碑、孔龢碑の略称もありますが、一般に乙瑛碑(翁方綱『蘇斎題跋』巻13が初見)と呼ばれています。 

    乙瑛碑の内容

    乙瑛碑の文の内容は、4段にわかれています。

    孔子こうしの19世の孫である孔麟こうりんの時代に、孔子廟は荒れ果て、管理の手も行き届かなくなっていたのでしょう。孔麟は、当時の国の前長官であった乙瑛に、孔子廟の保護について相談したのが奏請のきっかけです。

    第1段

    乙瑛が時の司徒呉雄ごゆう、司空趙戒ちょうかいに、孔子廟に1名の百石卒史(俸禄高百石の役人)を常置し、廟の守護と儀礼用祭器を管理させたい旨を上申しました。
    (司徒臣雄~須報)

    第2段

    呉雄ごゆう趙戒ちょうかいは、宗廟の祭儀担当官の掾属である馮牟ふうぼう郭玄かくげんに、これに関する故事をただしたところ、乙瑛の奏請は容れるべきであるとの返答をえたので、呉雄ごゆう趙戒ちょうかいの名前で朝廷に奏請しました。
    (謹問~以聞)

    第3段

    153年(元嘉3年)3月17日、奏請を許可する決裁がおりました。司徒、司空府よりただちに百石卒史として、年齢が40歳以上で、経書の1つにくわしい者を選ぶようにという意味の詔書が、永興元年(元嘉3年5月改元)に、魯相のへい(乙瑛の後任者)に伝達されました。

    そこで通達の趣旨にそって、孔龢こうわ孔憲こうけん孔覧こうらんなどを試験した結果、『春秋厳氏経』にくわしく、親孝行ものでかつ衆望のある孔龢をえらび、これを公文書にして司空府に報告しました。
    (制曰可~上司空府)

    第4段

    このことに尽力した魯の前長官の乙瑛、百石卒史の官舎を造った曲阜令の鮑畳ほうじょう、またそもそもの発案者であるの名前を銘記し、その功績を称えています。
    (讃曰~是於始□)

    乙瑛碑の書き方・特徴・書風

    乙瑛碑いつえいひは、礼器碑れいきひ曹全碑そうぜんひとともに漢碑かんぴ(隷書)の代表作品として有名です。

    3つの碑の中でも乙瑛碑はすべての点画にまで波勢のリズムがいきわたった隷書の典型と言えるのではないでしょうか。

    「波勢」のリズム

    隷書の特徴、活字との比較

    活字の「書」では、横画はくるいのない水平、平行です。

    一方、乙瑛碑いつえいひでは、どの横画も曲線の味わいがあります。
    水平方向への安定を保ちながら線が引かれ、かつ最後まで波うつリズムが感じられます。

    これが「波勢はせい」と呼ばれる隷書特有の運筆のリズムです。
    活字からは、このリズムや息づかいが伝わってきません。

    乙瑛碑から生態感が伝わってくるのは、太い細い、強い弱い、遅い速いなど変化の要素にくわえ、この波勢のリズムがあるからなのです。

    隷書の横画

    楷書の隷書の筆法の比較

    隷書の横画の起筆は、右斜め上から筆を入れ、筆を巻くように方向転換させます。
    そして右上がりにならないように気を配りながら右水平方向に送筆します。

    楷書の起筆とは違うため、はじめのうちは思うようにできないかもしれませんが、これが隷書の筆法なのです。

    「三」の3画目の終筆には、ひときわ目立つ「はらい」があります。
    波勢のリズムをともなったこの「はらい」を「波磔はたく」といいます。

    波磔はたくは一般的に主画(形をとる上でもっとも重要な画)につきます。

    そのため波磔はたくのついた横画はとても長い筆画になりますが、扁平な字形を保ち、横方向への波勢のリズムをより強調する効果をもっています。

    また、波磔のつかない横画の終筆においては、波勢のリズムをそのままスッと筆を抜きます。
    けっして楷書のように止めて押さえてはいけません。隷書は楷書よりも古い書体のため、楷書になって発生し完成した用筆法はすべて捨てなければならないということなのです。

    乙瑛碑の上達には道具も大切

    ここまで九成宮醴泉銘の書き方を紹介してきましたが、これらの技法や筆づかいを表現するためには、適切な道具が不可欠です。
    特に筆の選び方は非常に重要です。適切な筆を使わないと、上達しないばかりか、間違った方法を覚えてしまうこともあります。

    もし、「お手本通りにうまく書けない…」や「筆が思うように動かない…」と感じる方は、普段使っている筆を見直してみると良いかもしれません。

    書道筆「小春」は、その書きやすさと使いやすさから、多くの書道愛好者に支持されています。
    筆選びで迷っている方は「書道筆『紫乃』の魅力:初心者からプロまで愛される万能筆の秘密」を参考にしてみてください。

    乙瑛碑の臨書に使える全文拓本画像

  • 初唐の三大家とは?【彼らの功績・代表作品とその特徴】

    初唐の三大家とは?【彼らの功績・代表作品とその特徴】

    初唐しょとう三大家さんたいか』とは、中国のとう時代初期に活躍した書道家、欧陽詢おうようじゅん虞世南ぐせいなん褚遂良ちょすいりょうの3人を合わせた総称です。

    それぞれ独自の書風と特徴を持つ代表的な作品は、楷書の発展に大きく貢献しました。
    彼らは書道の歴史において非常に重要な存在となっています。

    この記事では、初唐しょとう三大家さんたいかそれぞれ3人の生涯や代表作、その書風などについて詳しく紹介します。

    初唐の三大家とは?

    初唐の三大家年表
    初唐の三大家年表

    中国とう時代に活躍した書道家のなかでも、特に優れた手腕をもち、後世に大きな影響を及ぼした3人の大家、欧陽詢おうようじゅん虞世南ぐせいなん褚遂良ちょすいりょうを「初唐しょとう三大家さんたいか」と呼んでいます。

    3人とも王羲之おうぎしの筆跡を熱心に学び、各書体をよくしましたが、とりわけ楷書の技法に傑出し、それぞれ特徴のある作品をのこしています。

    彼らは唐の太宗たいそう皇帝(唐の第2代皇帝)に仕えた官僚かんりょうで、太宗からの信頼が厚く、貴族や高官の弟子たちに書道を指導する役割を果たしたことでも知られています。

    なお、初唐の三大家と唐の中期に活躍した顔真卿がんしんけいをあわせて、「唐の四大家」と呼ぶこともあります。

    初唐の三大家の3人を紹介

    欧陽詢(おうようじゅん)

    欧陽詢おうようじゅん(557~641)は、並み外れて博学で聡明そうめいな人物であったといわれています。

    はじめずい時代には高官として仕え、唐時代においても政府の重鎮として活躍しました。

    唐の太宗のもとでは、厚い信頼を受けて、宮廷内の教育係として貴族や高官の弟子たちの書道の指導に当たりました。

    彼の代表作品である九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめい皇甫誕碑こうほたんひなどの端正で謹厳な書風の楷書は、後世「楷法の極則きょくそく」とまで称えられ、古くから楷書の典型として高い評価を受けています。

    子の欧陽詢おうようとう(?~691)も父に学んで楷書をよくしました。

    虞世南(ぐせいなん)

    虞世南像
    虞世南像

    虞世南ぐせいなん(558~638)は、体つきが弱々しいながらも芯が強く、決して正論を曲げることがなかったといわれています。

    欧陽詢と同じくずい時代から仕官し、とう時代においても高官として活躍しました。

    太宗たいそう皇帝は特に彼を重用し、自らも師とあおいで書道を学んだとされています。

    王羲之の7世の孫にあたる智永に書道を学んだといいます。

    楷書は代表作品の孔子廟堂碑こうしびょうどうひにみられるように、つよさを内に秘めた温雅な味わいに富んでいる点が特徴です。

    褚遂良(ちょすいりょう)

    褚遂良像
    褚遂良像

    褚遂良ちょすいりょう(596~658)は、優れた政治手腕をもって太宗たいそうに仕え、太宗が集めた王羲之おうぎしの書跡が本物かどうかを1つも間違えることなく鑑定したといわれています。

    王羲之おうぎしの書を学び、楷書は虞世南ぐせいなん欧陽詢おうようじゅんの書法に立脚りっきゃくしつつ、晩年ばんねんには筆圧の変化に富む躍動やくどう感に満ちた独特な書風を打ち立てました。
    雁塔聖教序がんとうしょうぎょうじょはその代表例です。

    初唐の三大家の代表作品を紹介

    欧陽詢の代表作品「九成宮醴泉銘」

    九成宮醴泉銘
    九成宮醴泉銘

    九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめいは、とう太宗たいそうが、夏の暑さを避けるための離宮(九成宮)から、き水が出たことを喜んで、当時の学者魏徴ぎちょうに文を作らせ、欧陽詢おうようじゅんに書かせた石碑のことです。

    九成宮醴泉銘は欧陽詢の代表作品で、後世「楷法かいほう極則きょくそく」と評価されています。

    欧陽詢の楷書は、「欧法おうほう」と呼ばれ、厳密で切れ味鋭い筆法の、端正な字形により、厳正な楷書の美しさを表現しています。

    虞世南の代表作品「孔子廟堂碑」

    孔子廟堂碑
    孔子廟堂碑

    孔子廟堂碑こうしびょうどうひは、初唐の三大家の1人である虞世南ぐせいなんの晩年の書です。

    とう太宗たいそうが、即位後、長安ちょうあん孔子廟こうしびょうを再建した際の記念碑で、文も虞世南が作りました。

    虞世南の楷書は、「虞法ぐほう」と呼ばれ、よく整った字形で、明るく穏やかな用筆・運筆であり、横画や右払いがのびのびと書かれています。

    欧陽詢の書とは違った独特の気品と温雅なおもむきが感じられます。

    虞世南と欧陽詢は、ずい・唐の2王朝に仕え、ともに唐の太宗に重んじられたことでも知られています。

    褚遂良の代表作品「雁塔聖教序」

    雁塔聖教序
    雁塔聖教序

    雁塔聖教序がんとうしょうぎょうじょは、初唐の三大家の1人、褚遂良ちょすいりょうの書です。

    玄奘げんじょう法師がインドから持ち帰った仏典を漢訳した大事業をたたえて、太宗たいそう皇帝が序文を作り、皇太子(後の高宋こうそう)による記の文とともに2つの碑に刻しました。

    長安ちょうあん(現在の西安せいあん市)の慈恩寺じおんじ大雁塔だいがんとうに安置されたのでこの名前がつけられました。

    褚遂良の楷書は、法と呼ばれ、筆の弾力を生かした自在で軽快な筆遣いに特色があります。

    まとめ:初唐の三大家は楷書の名家の総称

    ここまで「初唐の三大家」の3人についてと、その代表作品を紹介しました。

    中国のとう時代は彼らの活躍もあり、楷書が流行した時代であり、文化活動が盛んに行われた豊かな時代でした。

    書道の世界では、楷書の臨書をするならまずこの「初唐の三大家」からはじめるのが基本となっています。
    とくに、欧陽詢おうようじゅんの代表作『九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめい』は、学校で習う楷書の字形の参考にも使われており、もっとも最初にとりくむべき古典でしょう。

    九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめい』については、「九成宮醴泉銘について詳しく解説/臨書の書き方のコツ/気をつけたい3つの特徴を紹介」で解説しています。

  • 柳公権の玄秘塔碑(げんぴとうひ)について解説

    柳公権の玄秘塔碑(げんぴとうひ)について解説

    中国とう時代の書道家柳公権りゅうこうけんは、「とうの四大家」の1人、顔真卿がんしんけいの第1の後継者として有名です。

    顔真卿は、どくとくな書風の楷書で有名ですが、柳公権はその書風を受け継ぎました。

    今回は、そんな顔真卿がんしんけいの弟子柳公権りゅうこうけんの代表作品である「玄秘塔碑げんぴとうひ」について紹介します。

    柳公権について

    柳公権像
    柳公権像

    柳公権りゅうこうけん(778年〈大暦13年〉~865年〈咸通6年〉)は、京兆華原県けいちょうかげんけん(陝西)の人です。

    あざな誠懸せいけん

    河東かとうの名族りゅう氏の出で、父の子温しおん丹州刺史たんしゅうしし、兄の公綽こうしゃく御史大夫ぎょしたいふ、山南東道節度使せつどし兵部尚書へいぶしょうしょなどを歴任した大官で、柳公権はこうした家庭環境のなかで育ちました。

    幼少より学問を好み、『新唐書』は12歳にしてすでに辞賦じふに巧みであったといい、経学けいがくに明るく、とりわけ春秋左氏しゅんじゅうさしでんに精通していました。

    806年(元和初年)、科挙かきょ(官僚登用試験)に合格して進士しんしに及第し、秘書省ひしょしょう校書郎こうしょろうとなり、その後、兄公綽こうしゃく斡旋あっせんにより右司郎中うしろうちゅう弘文館学士こうぶんかんがくしとなりましたが、ほとんど侍書学士として穆宗ぼくそう敬宗けいそう文宗ぶんそう宣宗せんそうの緒帝に仕え、とくに文宗ぶんそうの信任を得て、中書舎人ちゅうしょしゃじん翰林侍書学士りんかんじしょがくしに任命されました。838年(開成3年)工部侍郎こうぶじろうに転じ、学士承旨がくししょうしにうつります。

    やがて武宗ぶそうがたつと右散騎常侍うさんきじょうじとなり、さらに集賢院学士しゅうけんいんがくし知院事ちいんじとなりますが、李徳裕りとくゆうに嫌われて

    太子詹事たいしせんじ(皇太子付きの閑職)に左遷させんされ、賓客ひんきゃくに改められました。

    李徳裕りとくゆうは国粋主義・理想主義を標榜する門閥派の領袖で、一方の現実主義的な牛僧孺ぎゅうそうじゅ派と対立していたのですが、柳公権は後者に属していたため地位を下げられてしまったのです。

    しかし、地方へ追いやられることもなく、40年以上も中央政府におり、その間、文芸と書をもって緒帝に奉仕するにふさわしい官職を与えられました。

    宣宗せんそう大中だいちゅう年間、河東郡かとうぐん開国公かいこくこうに封ぜられ、国子祭酒にこくしさいしゅ復し、工部尚書こうぶしょうしょをへて、太子少傅たいししょうふより同少師しょうしに進みましたが、やがて太子太保たいしたいほをもって官職を引退し、865年(咸通6年)88歳で亡くなり、太子太師たいしたいしおくられました。

    書道家としての柳公権

    柳公権は、よく「顔柳二家」と並称されるように、顔真卿がんしんけいの第1の後継者として有名です。

    顔真卿がんしんけい安禄山あんろくざんの乱によって突如として歴史の上に登場し、李希烈りきれつの乱において悲劇の主人公として凜烈な生涯を終えたのに対し、
    柳公権の方は官僚としても平穏な道を歩み、その間に書家として大成し、盛名一時に高くなりました。

    彼が研究した近代の筆法とは、やはり顔真卿の書法が中心になっていたでしょう。

    柳公権は行書、草書も巧みであったといいますが、やはり楷書の名手ということができます。

    楷書の作品例としては、

    • 金剛経こんごうきょう(長慶4年・47歳)
    • 李晟碑りせいひ(太和3年・52歳)
    • 馮宿碑ふうしゅくひ(開成2年・60歳)
    • 符璘碑ふりんひ(開成3年・61歳)
    • 玄秘塔碑げんぴとうひ(会昌元年・64歳)
    • 神策軍紀聖徳碑しんさくぐんきせいとくひ(会昌3年・66歳)
    • 劉沔碑りゅうべんひ(大中2年・71歳)
    • 高元裕碑こうげんゆうひ(大中7年・76歳)
    • 魏公先廟󠄀碑ぎこうせんびょうひ(大中10年・79歳)

    などが挙げられます。

    柳公権の碑刻は、顔真卿の碑と同じようにその数の多く、これらのなかでも彼の代表作品として古来謳われるのが今回紹介する玄秘塔碑げんぴとうひです。

    玄秘塔碑について

    玄秘塔碑げんぴとうひは、大達法師だいたつほうし端甫たんほの業績と、その遺骨が納められた塔である玄秘塔げんぴとうの由来を記した碑です。

    碑石は現在も陝西省博物館せんせいしょうはくぶつかん(西安碑林)に保管されています。

    篆額12字「唐故左街僧録大達法師碑銘」が3行4字で書かれ、碑身は28行、毎行54字に区画されています。
    額、本文ともに柳公権の書です。このとき柳公権は64歳です。

    文章を考えた撰者は裴休はいきゅうです。

    碑の主人公端甫(たんほ)について

    碑の主人公である端甫たんほ(770~836)は、陝西せんせい天水てんすいの人です。俗姓はちょう氏。

    長安ちょうあん安国寺あんこくじの僧侶で、797年(貞元13年)徳宗皇帝に召されて信任を得て、常に宮廷に出入りして皇太子(のちの順宗)に親侍し、のち憲宗の知遇を得て、806年(元和元年)には左街僧録(寺院の総取締役)・内供奉となりました。

    その後、内外の尊崇を受け、多くの優れた門弟にめぐまれながら、文宗の836年(開成元年)6月1日、67歳で亡くなりました。
    それから5年後の841年(会昌元年)にいたりこの玄秘塔碑が建てられました。

    碑の文章を考えた裴休(はいきゅう)について

    文章を作った撰者の裴休はいきゅうは、河南かなん済源せいげんの人で、字は公美こうび

    進士しんしに及第して官途かんとに就き、宣宗の852年(大中6年)から宰相の位に就き、財政方面で活躍しました。熱心な仏教信者で、僧侶との交友も広く、彼自身も仏典を深く研究し、教理にも精通していました。

    文章に長け、柳公権りゅうこうけんの影響を受けて書も得意だったようです。
    彼の代表作品である圭峰褝師碑けいほうぜんじひには柳公権が篆額を書いており、この玄秘塔碑とともに2人の親密な関係をうかがい知ることができます。

    玄秘塔碑の特徴

    玄秘塔碑を書いた柳公権は、顔真卿の弟子なので、顔真卿の書風に似ています。

    よく「顔筋柳骨」という言葉があるように、柳公権の書は顔真卿に比べると線が細く、骨ばっています。

    字形も顔真卿のように方形ではなく、やや縦長です。

    そして字形と筆遣いをよく整理し、洗練された結果、顔真卿よりもみるからに骨ばり、縦長の字形の美しさだけが目立つようになりました。