この記事では、曹全碑の臨書作品制作に使える全文の拓本画像を紹介します。
曹全碑の内容や書風、書き方については、下の記事でくわしく解説しています。
曹全碑の拓本画像













































この記事では、曹全碑の臨書作品制作に使える全文の拓本画像を紹介します。
曹全碑の内容や書風、書き方については、下の記事でくわしく解説しています。














































乙瑛碑は、中国後漢時代、153年(元興元年)に建てられた碑です。
場所は、立碑のときからそのまま山東省曲阜市の孔子廟にあります。現在は孔子廟内の東廡「漢魏碑刻陳列室」(通称「孔廟碑林)に置かれています。
碑の大きさは、260×129㎝。
題額はありません。
構成は、18行、行ごとに40字。碑陰は無字。全文で766文字あります。
この碑には題額がないためもあって、さまざまな別称があります。
・魯相置孔子廟卒史碑(『集古録跋尾』巻2)
・孔廟置守廟百石孔龢碑(『隷釈』巻1)
・魯相乙瑛置孔子廟卒史碑(『金石史』巻上)
・魯相乙瑛請置百石卒史孔龢碑(『庚子銷夏記』巻五)
・孔廟置守廟百石卒史碑(『両漢金石記』巻6)
そのほか多数の呼び方があります。
また百石卒史碑、孔龢碑の略称もありますが、一般に乙瑛碑(翁方綱『蘇斎題跋』巻13が初見)と呼ばれています。
乙瑛碑の文の内容は、4段にわかれています。
孔子の19世の孫である孔麟の時代に、孔子廟は荒れ果て、管理の手も行き届かなくなっていたのでしょう。孔麟は、当時の魯国の前長官であった乙瑛に、孔子廟の保護について相談したのが奏請のきっかけです。
乙瑛が時の司徒呉雄、司空趙戒に、孔子廟に1名の百石卒史(俸禄高百石の役人)を常置し、廟の守護と儀礼用祭器を管理させたい旨を上申しました。
(司徒臣雄~須報)
呉雄と趙戒は、宗廟の祭儀担当官の掾属である馮牟と郭玄に、これに関する故事を質したところ、乙瑛の奏請は容れるべきであるとの返答をえたので、呉雄と趙戒の名前で朝廷に奏請しました。
(謹問~以聞)
153年(元嘉3年)3月17日、奏請を許可する決裁がおりました。司徒、司空府よりただちに百石卒史として、年齢が40歳以上で、経書の1つにくわしい者を選ぶようにという意味の詔書が、永興元年(元嘉3年5月改元)に、魯相の平(乙瑛の後任者)に伝達されました。
そこで通達の趣旨にそって、孔龢、孔憲、孔覧などを試験した結果、『春秋厳氏経』にくわしく、親孝行ものでかつ衆望のある孔龢をえらび、これを公文書にして司空府に報告しました。
(制曰可~上司空府)
このことに尽力した魯の前長官の乙瑛、百石卒史の官舎を造った曲阜令の鮑畳、またそもそもの発案者であるの名前を銘記し、その功績を称えています。
(讃曰~是於始□)
乙瑛碑は、礼器碑や曹全碑とともに漢碑(隷書)の代表作品として有名です。
3つの碑の中でも乙瑛碑はすべての点画にまで波勢のリズムがいきわたった隷書の典型と言えるのではないでしょうか。

活字の「書」では、横画はくるいのない水平、平行です。
一方、乙瑛碑では、どの横画も曲線の味わいがあります。
水平方向への安定を保ちながら線が引かれ、かつ最後まで波うつリズムが感じられます。
これが「波勢」と呼ばれる隷書特有の運筆のリズムです。
活字からは、このリズムや息づかいが伝わってきません。
乙瑛碑から生態感が伝わってくるのは、太い細い、強い弱い、遅い速いなど変化の要素にくわえ、この波勢のリズムがあるからなのです。

隷書の横画の起筆は、右斜め上から筆を入れ、筆を巻くように方向転換させます。
そして右上がりにならないように気を配りながら右水平方向に送筆します。
楷書の起筆とは違うため、はじめのうちは思うようにできないかもしれませんが、これが隷書の筆法なのです。
「三」の3画目の終筆には、ひときわ目立つ「はらい」があります。
波勢のリズムをともなったこの「はらい」を「波磔」といいます。
波磔は一般的に主画(形をとる上でもっとも重要な画)につきます。
そのため波磔のついた横画はとても長い筆画になりますが、扁平な字形を保ち、横方向への波勢のリズムをより強調する効果をもっています。
また、波磔のつかない横画の終筆においては、波勢のリズムをそのままスッと筆を抜きます。
けっして楷書のように止めて押さえてはいけません。隷書は楷書よりも古い書体のため、楷書になって発生し完成した用筆法はすべて捨てなければならないということなのです。
ここまで九成宮醴泉銘の書き方を紹介してきましたが、これらの技法や筆づかいを表現するためには、適切な道具が不可欠です。
特に筆の選び方は非常に重要です。適切な筆を使わないと、上達しないばかりか、間違った方法を覚えてしまうこともあります。
もし、「お手本通りにうまく書けない…」や「筆が思うように動かない…」と感じる方は、普段使っている筆を見直してみると良いかもしれません。
書道筆「小春」は、その書きやすさと使いやすさから、多くの書道愛好者に支持されています。
筆選びで迷っている方は「書道筆『紫乃』の魅力:初心者からプロまで愛される万能筆の秘密」を参考にしてみてください。










































張遷碑は、張遷という人物が務めていた縠城県での功績を称えて建てられた石碑です。
張遷碑が建てられた年は、中国後漢時代の186年(中平3年)です。
張遷碑の作者はわかっていません。
張遷碑の大きさは、通高315×102㎝。
龍が碑側の左右の足元から這い上がり、円首の頂上で2匹の頭が向かい合う形に彫刻してあります。
碑首には、2行で「漢故穀城長蕩陰令張君表頌」と書かれています。
この題額は不思議な書体ですが、この書体について方朔は、
「篆隷の間に在り。而して屈曲塡満は、印書中の繆篆に似たるあり。人 因りて篆体をもってこれ目す」(『枕経堂金石跋尾』)といいます。

碑文は16行、行ごとに42文字、全文で566文字あります。
碑陰は3段で、上2段は各19行、下段は3行。建碑にかかわった41人の官職、姓名、醵金額(目的のために出しあった金額)を、碑文よりひとまわり大きいサイズの字粒で書かれています。

また、碑陽の状態は、全体に緩やかな凹凸があるため、痩せた点画の随所に補刀の跡がみえます。
それにくらべて碑陰は比較的状態がいいです。理由は、かつてある期間、碑陰が壁に埋め込まれていたために、採拓される機会が少なかったからと考えられてます。
張遷碑の内容は、4つに分けられます。
初段〔「君諱遷~世載其徳」〕は、周の宣王のときの張仲、漢の張良、張釈之、張騫など、歴史上著名な名前に「張」がつく人物をあげています。
ただし、どれも今回の碑の張遷の家系とは無関係である、と明の王世貞が指摘しています。(『弇州山人四部稿』第134)
第2段〔「爰既且於君~其命維新」〕は、張遷の経歴を略記し、その徳政を称えています。
第3段〔「於穆我君~子子孫孫」〕は、韻文でなる銘辞です。
終段〔「惟中平三年~億載年」〕は、立碑の年月とその経緯が書かれています。
碑は、張遷の任地であった縠城県(いまの山東省東阿県)から、蕩陰県(いまの河南省湯陰県)へ転任するにあたり、故吏の韋萌らが張遷の徳を称えて建てたものです。
その土地の行政官が任地を去ったあと、そこの住民、役人が行政官の功績を慕って建てる碑を「去思碑」といいます。
張遷碑も碑文第2段中に、
「(張遷)蕩陰令に移らんとするや、吏民頡頏して、随送すること雲の如し。…前哲の遺芳、功あるに書せざれば、後 焉を述ぶるなし。是に於いて石に刊して表を竪て、萬載に銘勒す」
とあるように、この碑は「去思碑」です。
亡くなった後に建てる「墓碑」とは違ったものです。
張遷碑の横画は、おおむね水平・等間隔を保っています。
一方、「吾」や「先」など一部の文字は、横画が右上がりで文字全体も右上がりになっているものもあります。
張遷碑の縦画は、ほとんど垂直にひかれます。
線と線の間隔についても、横画と同様等間隔が基本です。
張遷碑は隷書なので波磔があります。
波磔とは、横画のながいものについているハライのことです。
張遷碑の波磔は、冒頭の「君」を代表に、小さく角度が真上に向かってはねています。
また、波磔のある横画によくある波磔の前の「揺らぎ(山なり)」の表現は少なめです。
通常の隷書の特徴としては、字形が平べったいという点がありますが、張遷碑においてはやや縦長の字が多くみられます。
書道をやっているけど、
「お手本のようになかなか上手に書けない…」
「筆が思うように動いてくれない…」
という方のために、美しさ・使いやすさが追求された、おすすめの書道筆「小春」を紹介します。
この筆は、毛の長さがちょうど良く、穂の中心部分にかための毛が採用されているため、弾力がでてしっかりとした線が書けます。穂の外側は柔毛のため線の輪郭もきれいです。
半紙4~6文字に適しています。
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張遷碑の拓本でもっとも古い拓本は北京故宮博物院蔵の「東里潤色」未損の明初拓です。
拓本は、古い拓本の方が碑面がきれいな時期に採拓され、線もしっかりとしていて良いとされています。

君諱遷字公方。陳留己吾人也。君之先出自有

周。周宣王中興。有張仲。以孝友為行。披覽詩雅。

煥知其祖。高帝龍興。有張良。善用籌策。在帷幕

之内。決勝負千里之外。析珪於留。文景之間。有

張釋之。建忠弼之謨。帝遊上林。問禽狩所有。苑

令不對。更問嗇夫。嗇夫事對。於是進嗇夫為令。

令退為嗇夫。釋之議為不可。苑令有公卿之才。

嗇夫喋喋小吏。非社稷之重。上従言。孝武時。有

張騫。廣通風俗。開定畿㝢。南苞八蠻。西羈六戎。

北震五狄。東勤九夷。
























西狭頌は、中国後漢時代の171年(建寧4年)に刻された摩崖碑です。
いわゆる「三頌」(石門頌・西狭頌・郙閣頌)の1つでです。
甘粛省成県抛沙鎮東栄村にあります。この地域は海抜1200ⅿの天井山があり、西狭頌は魚竅峡という天井山下の深い峡谷の崖壁に刻されています。
崖面は、題額をのぞき高さ約220㎝、広さ約340㎝で、西狭頌本文、題名、五瑞図および図下題名があり、一連のものとして同時につくられました。
本文は20行、行ごとに20字、全文で295文字あります。
さらに21行目には「建寧四年六月十三日壬寅造。時府」と、完成の年月日を加えています。
内容は、武都太守であった李翕が、功績西狭(武都郡の西の峡谷の意味)の険しい道を修理して、人々の往来を安全にしたという功績を称えた記念文です。
西狭頌の内容の主人公である李翕について紹介します。
翕、字は伯都。漢陽郡阿陽県の人です。
阿陽県は、今の甘粛省の静寧県の南にあります。
170年(建寧3年)、武都郡(今の甘粛省成県)の太守となりました。
西狭頌の碑文によると、はじめ李翕は、その家柄によって宮廷に出仕して禁衛にあたり、宮中に宿衛しました。弱冠にして典城(郡守)となりました。
また碑文に「三たび符を守に剖つ」、つまり三たび郡の太守に任命されたといいます。これについては、牟房の『仏金錧秦漢碑跋』に詳しく考証して、張掖、黽池、武都、これが三郡だろうとしています。
この武都郡において、建寧4年に関中平野から武都への道を確保するため工事を行い、険しい道を修理して浅道をつくりました。
この功績を摩崖に刻して称えたのが西狭頌です。
西狭頌の内容は、前段の「漢武都太守~粟麦五銭」は、西狭(狭は峡の仮借で武都郡の西の峡谷をいいます)の道を修理した武都太守李翕の功徳を記しています。
後段の「郡西狭中道~刊斯石曰」は、峡谷の危険な場所に土木工事をおこし、人々が安全に往来できるような道を作るにいたった事情が書かれています。
そのほか、工事に関与した官吏の官名、本貫、姓名も書かれています。そのなかの「従史位、下辨、仇靖字漢徳。書文」とあります。この「仇靖」という人物を古来から西狭頌の文章をつくった人物としています。
西狭頌の書体は、隷書を主としていますが、篆書の字もいくつかみえます。
また、人・王の1画目を2画で書く筆法があります。
こうした筆法は、のちの魏・晋の隷書に受け継がれて様式化していきます。
西狭頌の評価について紹介します。
清の方朔の
「字の大きさ縦横三寸を下らず。寛博遒古たり。高巖立壁に称うに足る」(『枕経堂跋尾』第3)
という評価をはじめ、
徐樹鈞が、
「疎散俊逸たり。風吹きて僊袂の雲中に飄々たるが如し。復た尋常の蹊逕を以て探るべきものにあらず」(『宝鴨斎題跋』巻上)
といい、
楊守敬が、
「方整雄偉たりて、首尾に一字の欠失なし。尤も宝重すべし」(『学書邇言』)
といい、
また梁啓超が、
「雄邁にして静穆。漢隷の正則なり」(『飲冰室題跋』)
といいます。
これら緒家のほめたたえる言葉は、西狭頌の美を示唆しています。
西狭頌については、宋時代の趙明誠の『金石録』をはじめ、以降の明・清時代の40種類近い金石書や題跋類に記されています。
しかし、成県の魚竅峡は、遠くしかも危険な断崖であるため、実地にいって調査した学者はおらず、どれも拓本と伝聞によっています。
そのため、西狭頌の本文、題額、題名、五瑞図の位置については説がまちまちです。
篆書1行の「恵安西表」は、張徳容や方若が西狭頌のことをこう呼んでおり、その位置からみて題額と考えられます。ただしこの題名の意味はわかりません。
五瑞図、本文、題記が刻された崖面の石質はきわめて緻密ですが、崖面は波うって湾曲しており、刻は薬研彫で字口は鋭いといいます。


石門頌は、正式には故司隷校尉楗為楊君頌といわれ、中国後漢時代の148年(建和2年)の摩崖碑です。
摩崖碑とは、天然の岸壁を利用し、そこに文字を刻んだ作品をいいます。
現在、開通褒斜道刻石、楊淮表紀、石門銘など13種(14石)の1つとして、陝西省漢中市の漢中市博物館内「石門十三品陳列館」に置かれています。
高さ261㎝、幅205㎝。題額があり、本文は22行、行ごとに30~31字、全部で655字あります。
石門頌の内容は、楊孟文と王升が「褒斜道」というけわしい道を修理して通れるようにした、という功績を称えるものです。
楊孟文は犍為郡武陽県の人で、司隷校尉(中央の官吏を取り締まる)を担当していました。
西暦66年(永平9年)、大がかりに修復された褒斜道が、107・8年(永初元・2年)、巴蜀を侵略し、関中をも脅かす西羌の侵攻により、壊されて廃道となり、その後は別の子午道を利用していました。
しかし、子午道は険しい場所が多く、利用者は苦しんでいたため、褒斜道を再開するように順帝(在位・125~144)に意見を申し述べました。
楊孟文の献策は、一部の官僚の反対にあいましたが、しばしば自説を述べた結果、125年(延光4年)、順帝の許可が下り、褒斜道は修理され開通しました。
その後、148(建和2年)、楊孟文と出身が同じである漢中太守の王升が、楊孟文の功績を世間に明らかにするため、この間の事情を石門中に刻しました。
また王升も部下を派遣して褒斜道の補強に当たらせ、その治績の一端を、王升の属僚である趙邵らが記したのです。
褒斜道は、秦・漢時代から開かれた要略で、当時、関中から蜀に向かうには、漢中を通りました。
その漢中までの道に、褒斜道・儻駱道・子午道の3つがあり、なかでもこの褒斜道がもっとも利用されていたようです。
66年(永平9年)司隷校尉鄐君によって切りひらいて道が通され、のち戦乱や天変地災によって漢時代でもたびたび断絶し、その後も開通、途絶をくりかえし、清時代になって再び利用され、石門頌をはじめとする摩崖碑が世に知られて尊重されるようになりました。

石門頌は、岸壁に文字が刻された摩崖ですが、現在は漢中市博物館という博物館に置かれています。
どうして摩崖が博物館のなかにあるのでしょうか?
摩崖でありながら博物館に置かれている理由は、もともとあった場所の褒河水庫の建設による水没から救うため、1969年から3年がかりの切り取り工事の末、1971年に移転されたからです。
石門頌は、水没した褒斜道南端に位置する石門のトンネル内に刻されていました。東壁16.5m、西壁15.0m。南口の広さ4.2m、高さ3.45m、北口の広さ4.1m、高さ3.775mのトンネルの洞中西壁のほぼ中央部分。
石門頌の書風・特徴について、歴代の書道家たちによる評価では「勁挺」といわれています。
また、木簡のような部分や、漢碑らしく整斉として礼器碑をおもわせる部分や、流麗な曹全碑のような部分もあります。
字形においては、波磔のない四角形の字は、礼器碑風の行儀がよく左右対称の原則を守り、バランスの良い揺らぎのない字形をしています。
また、横画やしんにょうのあるものは、曹全碑の流麗さをおもわせます。「命」や「升」の大胆な縦画は、木簡でよくみられる特徴です。
1つの碑でこれほどさまざまな表現をくみこんだものは珍しいです。しかもそれがみんなばらばらなのではなく、渾然一体となっています。
石門頌の書体を分類すれば、隷書に分類されます。
しかし、同じ漢時代の碑に刻された隷書とはまったく違っています。
岸壁の凹凸が相当な段差をもつところもあるため、字の大きさにもばらつきが出て、それがかえって動感を盛りあげています。
昔の学者による石門頌に対する評価を紹介します。
石門頌に対する評価でもっとも古いものとして、王昶の『金石萃編』巻八があります。
王昶は、
「書体勁挺にして姿致あり。開通褒斜道摩崖の隷字の疎密斉しからざるものと各おの深き趣あり。推して東漢人の傑作となす」(『金石萃編』巻八)
と称揚しています。
また、楊守敬の『平碑記』巻一では、
「その行筆は、真に野鶴閑鷗のごとく、飄々として仙ならんと欲す」
と言っています。
このように、石門頌は勁挺でしかも飄逸、厳正でしかも寛綽といった書風が高く評価され、摩崖書の優品として重んじられています。
石門頌が最初に文献にみえるのは、北魏時代の酈道元の『水経注』沔水です。
欧陽脩『集古録跋尾』、趙明誠『金石録』、洪适『隷釈』などにも採録されています。
さらに時代が進んで、清時代の乾隆・嘉慶期は金石学が盛んに行われる時代です。
このころからさまざまな金石書に石門頌をはじめ多くの石門摩崖が採録されるようになりました。
清時代の著録家のなかでは、王森文という人がもっともはやく褒斜道の実地調査を行い、1814年(嘉慶19年)に『石門碑醳』を出版しました。
その後また、羅秀書・徐廷鈺の『褒斜古迹輯略』という詳細な著録が出て、石門内外の題刻のほぼ全容が明らかになりました。
今回紹介している石門頌は、褒斜道にあった、と紹介しました。
褒斜道には、ほかにも有名な摩崖碑があるので紹介します。
開通褒斜道刻石は、石門にある摩崖碑のうちもっとも古い作品です。
褒城県北方の岸壁に刻されたもので、後漢時代の明帝の永平9年(66)、漢中大守の鄐君の勅命によって、のべ77万人ちかくを動員し、4年かけて褒斜道を完成させた功業を記しています。
書風は一般的に石門頌に似ているといわれていますが、石門頌よりももっと古意があり格調の高いです。
字形は大小、長短さまざまで、なかには20㎝近くあるものがあり、その岩肌にマッチした書風はまことに自然で拘束されない伸びやかなものです。
また、その線質は篆書の雰囲気があり、折れの部分も丸みがあり、隷書特有のかっきりとした転折はみられません。
楊淮表紀は、正式には司隷校尉楊淮表紀といわれ、これも褒城県北の石門にあります。
後漢時代、173年(熹平2年)、この石門の地を通った黄門(皇帝に近侍して勅命を伝える役職)である卞玉が、同じ出身の先輩の楊孟文の石門頌をみて、その偉業をふり返り、孟文の孫にあたる司隷校尉とその従弟にあたる楊弼の官歴を記しました。つまり楊孟文の子孫を称えたものです。
構成は、7行、毎行25~26文字。書風は石門頌よりもっと稚拙で飾り気のない自然のおもむきが出ています。
また、この時期すでに漢碑第一と称される礼器碑がでており、その知性的な合理性に富んだ結体用筆は、石門にある摩崖碑の書風とは雰囲気が違っています。
このことは、都会と地方のちがい、あるいは摩崖碑特有の自然の岸壁という環境によるものかと思われます。
右扶風丞李禹表は、『金石続編』には右扶風丞李君通閣道記とありますが、別名に李寿刻石、扶風丞李君刻石、李事改斜大台刻記ともいわれ、きまった題名がありません。
刻されたのは155年(永寿元年)とされていますが、126年(永建元年)とされる説もあります。
この作品も褒斜道石門西壁に刻されていて、開通褒斜道刻石の近くにあります。
碑面の大きさは小さく、縦72㎝、横42㎝で題名の「表」の1文字が大きく書かれています。
行数は7行で各行10~13字となっているようですが、磨滅がひどく確かな字数はわかりません。
内容は、李禹という人がけわしい桟道を修復したという功績を記したものです。
書風は、楊淮表紀ととても良く似ていて、少し小さめで、稚拙古雅で懐も広く、野趣に富んでいます。楊淮表紀より整っているようにもみえます。
石はすでに漢中修道のために壊されてしまっています。
盪寇将軍李苞通閣道題字は、褒城県北の石門の褒斜道の褒谷の南端にあり、263年(魏景元4年)に刻され、南宋時代の1194年(紹熙5年)南鄭令晏袤によって発見されました。
内容は、褒谷にそって北から南に行く褒城に出る道がつくられていますが、それに閣道を通じたことを記念したものです。
行数は3行で、1行目、3行目が14字、2行目が10字です。
書風は素朴古拙です。各行が左に張るように反って、大小、長短さまざまです。
潘宗伯等造橋格題字は、270年(晋泰始6年)に刻されたものです。
1行20字、ただし下の2字は不明。
1つ上で紹介した盪寇将軍李苞通閣道題字の右上に斜めに刻されています。
題記の年号の泰始6年の「治」が明らかでないため異説もありましたが、現在は泰始に定着しています。
ここまで紹介した碑はすべて隷書ですが、この石門銘は楷書で書かれています。
北魏時代、509年(永平2年)の刻で、同じ石門に刻られ、王遠の署名があります。
行数は28行、毎行22字。
最初に石門銘の3文字が書かれていますが、これは石の破損の関係からだいぶ下に下がって刻られています。
内容は、石門頌などと同じく、石門の修復を記念するもので、正始年間長く使われていなかった旧道を、假節龍驤将軍梁秦二州刺史羊祉が左校令賈三徳とともに修理して開通させた功績を称えたものです。
書風は、一応楷書に分類されますが、楷書の概念を破ったような伸びやかな姿で、かつ篆隷草の筆意を兼ねた躍動的なものです。前半は右に流れるように各行が移行し、下に行くにしたがって個々の字も左にかたむき、いかにも自然な率意の自由さが感じられます。







































隷書は、古代中国で正式書体として使われていた書体です。やがて楷書が正式書体となりました。
4世紀後半、日本に漢字が伝わるころには、すでに5書体(楷書・行書・草書・隷書・篆書)すべてが完成しており、隷書は日本で正式書体として使われることはありませんでした。
では、日本で隷書が使われるようになるのはいつごろからなのでしょうか?またどうして隷書が書かれたのでしょうか?
日本の隷書の歴史を紹介します。
日本において隷書は、室町時代以前はほとんどみられません。わずかに扁額の文字の中にいくつかそのすがたをとどめているだけです。
書道の作品として鑑賞できるものは主に江戸時代に入ってからです。
しかし江戸時代では、まだ隷書を学ぶにも良い拓本が少なく不便でした。そんな中でも、当時の書道家たちは隷書の作品を制作していました。
次の明治時代に入ると、中国清から多くの碑版法帖がもちこまれ、隷書の拓本が充実し、隷書をよくする書道家がでてきました。
つまり、日本で隷書が使われる理由としては、実用的に扁額などの題字に適していることが挙げられます。厳粛さと堂々たる威風を誇示した隷書の雰囲気は、力強く印象づけて大きく表示する必要のある題字の文字に適していたのです。
また別の理由として、江戸時代からあらわれはじめた書道家による芸術作品制作という文化的な営みにおいて、隷書という書体を題材に作品制作が行われるようになったことがきっかけと考えられます。
現在でも、隷書は日常的に使われる書体ではありませんが、芸術作品や実用面では看板やお札などの特殊な場面で使われています。
江戸時代は、隷書を学ぶにも良い拓本が少なく不便でした。
隷書について知られるようになったのは、細井広沢の門下の関思恭が宋の婁機の「漢隷字源」6巻を刊行したのが18世紀の中頃、宝暦あたりからです。
1792年(寛政4年)には浪華の鎌田環斎が清の顧藹吉の「隷辨」上下巻を編集しています。その序文を奥田元継と沢田東江が書いています。
沢田東江は序文で「今よりのち、隷文の学、鴻都の旧に復す」といって、この本が刊行されたことによって隷書の正しいすがたが明らかに示されたことを称賛しています。
この本の広告欄には、「隷続」10冊、「隷釈」8冊、「隷辨」8冊、「隷字彙」15冊お刊行を予告しています。
これをみると、このころには隷書の研究がようやく深められ、その名著がつぎつぎに刊行される計画だったことがわかります。

江戸時代に使われていた拓本として代表されるのは「夏承碑」です。
「夏承碑」というのは、中国明時代になって原石を失い、復刻したときに蔡邕の作品としたものです。今日でも宋時代の拓本とされるものがありますが、漢隷の特色が乏しく、原石からとった拓本かどうか疑わしいところがあります。
当時、「漢隷字源」や「隷辨」のような専門書が刊行されていながらも、なおこのくらいのものしかみられなかったのです。
1765年(明和2年)刊行の「汲古館書則」に隷書としてのっているのも「夏承碑」です。
法帖碑版の翻刻に力を注いで多くの手本を刊行している伊勢の韓天寿が隷書として刻したのも「夏承碑」と「曹全碑」です。
江戸時代においての隷書の拓本のまずしさは幕末にまでつづきました。
碑版法帖の収集に努力した市河米庵でさえも、「曹全碑」を第一とし、「礼器碑」「西獄華山廟碑」「婁寿碑」などは清の王澍が推奨しているがどれもまだ見ることができていない、といっています。
また、ほかに所持している隷書の拓本ははなはだまれなり、として、
「五鳳二年刻石(魯孝王刻石)」「郫県碑」「敦煌太守碑」「王稚子二闕」「夏承碑」
の5種類を挙げています。
これをみても、隷書の名品の拓本を手に入れることがどれだけ困難だったのかが想像できます。
このような状態であったにもかかわらず、彼は隷書のみならず各書体の資料の収集と整理にあたり、「五体墨場必携」などの著述もあります。


江戸時代初期において、京都の東北郊、一乗寺の詩仙堂に風雅な文人生活をたのしんだ石川丈山はとくに隷書を好みました。
彼は、その詩文をしたためる際に常に隷書を用いています。
その書風はすぐにかれの書とわかるほど深い印象をあたえます。
しかし、彼が学んだ隷書は本来の漢碑(隷書法帖)にみられるような書風のものではありません。それはおそらく中国明時代に通行した手本から学んだもののように思われます。
また、石川丈山と同じころの儒者人見竹洞という人物にも隷書があり、石川丈山と書風がよく似ています。また、曼殊院の良尚入道親王も、仮名をよくしていますが、隷書もよくし、それがまた石川丈山とよく似ています。
江戸の浅草寺の額字も良尚入道親王の隷書で、松平定信の「集古十種」に紹介されています。

当時、このような基本的な書法があって、それに従って隷書が書かれたことがよくわかります。
これらの書風をみていると、漢隷(隷書法帖)の基礎の上にたっている中国の隷書から離れて、また別の情緒をかもしだしているように感じます。
明治時代になると、中国清から楊守敬が来日し、日本にたくさんの碑版法帖をもちこまれました。
その後、日本と清の交流はますます頻繁になり、北碑派の書風が日本にも伝わり、隷書の書風も一変しました。
この時代の碑文の書丹で有名な第1の人物として日下部鳴鶴が挙げられます。
彼は清にわたって楊峴に学び、また楊守敬からも学んでいます。
彼が書いた碑の数は1000にもおよび、日本全国に広がっています。
日下部鳴鶴の隷書では、
東京都世田谷の豪徳寺にある「遠城顕道師遺蹟碑」
湯島天神境内にある「湯島天神一千年祭碑」
滋賀県水口町大岡寺にある「巌谷一六碑」
京都妙心寺塔頭大竜院にある「小野湖山墓碑」
などが有名です。
彼の門下生たちは後世の書道界におおきな影響をあたえますが、そのなかにも隷書をよくした人は少なくありません。
今日では、隷書の名跡のほとんど大部分を見ることができるようになりました。
碑版の影印本も中国、日本でおおく出版されていますし、宋の洪适の「隷釈」や清の翁方綱の「両漢金石記」や王昶の「金石萃編」、楊守敬の「寰宇貞石図」などの著書も広く読まれるようになって、隷書の研究と鑑賞に不自由することはなくなりました。
隷書はその本来の性質のうえから、特殊な用途をもってなお社会に生命を持ち続けているものであり、漢字が使用されているかぎり、今後も芸術作品や実用面においてもこの書体は使われていくでしょう。

隷書(れいしょ)とは、篆書を早書きするために生まれた書体です。古代中国で生まれ、漢時代に完成し、いまも日本のお札の「日本銀行券」の文字や印章、年賀状の宛名などに使われています。普段から目にしているのに書体名を問われると意外と答えられない、それくらい私たちの生活にとけ込んでいる書体です。
この記事では、書道講師の視点から、隷書の特徴・書き方のコツ・歴史・代表的な漢碑3つまで、初めての方にもわかるようにまとめました。臨書を始めたい方の参考になればうれしいです。
隷書とは、紀元前300年ごろの中国で、篆書(てんしょ)をすばやく書くために生まれた実用的な書体です。篆書のうねうねと曲がりくねる線を、まっすぐな横画と縦画に分けて書くことで、誰でも速く正確に書けるようになりました。漢時代に完成し、当時の役所の文書や石碑にひろく使われた、いわば「古代中国の公用書体」です。
書道の書体は大きく分けて5つ、楷書(かいしょ)・行書(ぎょうしょ)・草書(そうしょ)・隷書(れいしょ)・篆書(てんしょ)あり、これを「五書体」と呼びます。隷書は、もっとも古い篆書のすぐ後に生まれた書体で、楷書・行書・草書のいわば「ご先祖さま」にあたります。
意外かもしれませんが、隷書は今も日本の暮らしの中にしっかり残っています。神社のお守りや御朱印、書道作品の落款印(らっかんいん)、年賀状の宛名、ラーメン屋さんの看板まで。読みやすくて格調高く、それでいて親しみやすい、隷書はそんな絶妙な立ち位置の書体なのです。

隷書には、ほかの書体とくらべてはっきりとわかる3つの特徴があります。「波磔(はたく)」「扁平な字形」「方折(ほうせつ)」です。この3つを押さえると、街なかで見かけた書体が隷書かどうかをすぐに見分けられます。
隷書のもっとも特徴的な要素が波磔(はたく)です。波磔とは、長い横画や右払いの終わりで、筆を上にぐっと跳ね返すように上げる筆使いのこと。文字に波打つようなリズムが生まれ、優雅さと力強さの両方を表現できます。「一」という単純な横画でも、隷書では始まりで筆をぐっと押さえ、まんなかをまっすぐ進み、最後にすっと筆を上げます。波磔のない楷書や行書とは、ぱっと見て区別がつきます。
隷書のもうひとつの特徴は、扁平(へんぺい)な字形です。楷書が縦長気味の正方形なのに対して、隷書は横長で、上下方向につぶれたような形をしています。左払いと右払いが、まるで漢字の「八」の字のように左右に大きく開き、堂々とした安定感を生み出しています。漢時代の石碑では文字どうしの並びも美しく整えられ、見る人に重厚さと神聖さを感じさせます。
隷書の3つめの特徴は、方折(ほうせつ)と呼ばれる角張った筆づかいです。元になった篆書は「円転(えんてん)」という曲線中心の書体ですが、それを早書きするために線を直線的に分けたところ、角が立った方折が生まれました。篆書の線は点・直筆・曲線の3種類しかありませんが、隷書では少なくとも点・横画・縦画・左はらい・右はらい・湾曲など6種類以上に増え、表現の幅がぐっと広がっています。
隷書の特徴については、古来から伝わる書論(しょろん)があります。中国西晋時代の書家、衛恒(えいこう/?〜291)は『四体書勢』「隷勢」の中で、隷書のかたちを次のように形容しています。
「あるものは弓なりに曲がり、大きく広々としている。あるものは櫛(くし)の歯のように並び、針のように列(つら)なっている。あるものは砥石(といし)のように平らかであり、墨縄(すみなわ)のようにまっすぐである」
1700年以上も前の書家が隷書をこうも豊かに描写していることに、書道講師としていつも驚かされます。衛恒は技法にも言及し、「長い線と短い線とがたがいに調和し、筆意(ひつい)は途切れることがない」とその筆勢のつながりを評し、字形の安定については「高殿(たかどの)が軒(のき)を重ね、分厚い雲が山を戴(いただ)いているようだ」とも述べています。
ここからは、隷書を書くときに意識したい4つのコツを紹介します。蔵鋒・中鋒・蚕頭燕尾・扁平な字形のバランス。この順番で意識するだけで、隷書らしい線と字形がぐっと出やすくなります。書道講師として教室で指導するときも、この順番でお伝えしています。
蔵鋒(ぞうほう)とは、筆の先(鋒)を線の中に隠すように書き始める技法です。線の始まりで筆をいったん逆方向に押し返してから書き始めると、線の先端がとがらず、ふっくらとした隷書らしい起筆になります。横画なら、まず筆を左にちょこんと押し戻してから右に進め、最後も筆を上または左にいったん戻してから止めます。この「戻す」動きが、隷書らしい重厚感のある線をつくる第一歩です。
中鋒(ちゅうほう)とは、筆の穂先がつねに線の真ん中を通るように書く技法です。筆を立てぎみに持ち、紙にしっかり穂先をおろすと、線の両側に均等に墨が広がり、ふっくらと安定した線になります。隷書では線の太さが均一になるよう、最初から最後まで中鋒を保つのがポイントです。書道の基本動作については三折法(さんせっぽう)の解説記事もぜひ参考にしてください。
隷書の象徴ともいえる波磔(はたく)を美しく書くコツは、「蚕頭燕尾(さんとうえんび)」を意識することです。横画の起筆を「蚕(かいこ)の頭」のようにふっくらと丸く、終筆を「燕(つばめ)の尾」のように軽やかに跳ね上げるという意味です。
具体的には、起筆で筆をぐっと押さえて蚕の頭をつくり、まんなかを平らかに進め、終わりに近づいたらいったん筆を下に押し下げてから、すっと右上に跳ね上げます。この最後の「跳ね」が燕の尾です。一気にやると線がとがってしまうので、ゆっくり、じっくりがコツです。
波磔を書くときは筆の弾力もとても大事で、穂先がしっかりまとまり跳ね返すときに反発してくれる筆を選ぶと、ぐっと書きやすくなります。隷書に向く筆の選び方は書道筆のおすすめランキングでくわしく紹介しています。
隷書らしい横長の字形をつくるコツは、「縦は短く、横は長く」を最初から意識することです。楷書の感覚で書くとつい縦に伸びてしまうので、ぺたっと横に広げるくらいでちょうどよくなります。左右のはらいは、漢字の「八」の字のように思いきって大きく開きます。慣れないうちは、半紙に薄く格子の補助線を引いて縦横の比率を3:4くらいに意識するとつかみやすく、教室でも最初の1〜2回はこの補助線を使う生徒さんが多いですね。
通学の教室を探す前に、まずはオンラインで隷書に触れてみたい方は、SHODO FAMのオンライン書道教室もご検討ください。SHODO FAMでは、コースごとに専門の講師が担当しています。隷書を本格的に学びたい方も、自分のペースで安心して始められます。
隷書は紀元前300年ごろの中国で生まれて以来、2000年以上の歴史を持つ書体です。出現してから漢時代に完成し、いったん衰退しても、清時代にふたたび復興する、まさに不死鳥のような書体です。その変遷を時代順にたどっていきます。

戦国時代がおわり、秦が統一国家となると、秦時代に日常的に使われていた隷書が前漢時代に一般化し、準公用的な書体となっていきました。このころの隷書を「古隷」といいます。古隷にはまだ篆書のおもむきが残っていて、「横画は水平・縦画は垂直」といったきまりや波磔(右払い)はまだありません。いわば篆書から隷書への過渡期の姿です。
戦国時代後期から前漢時代初期にかけて、地方役人の公文書・私信・書籍といったものには、すべて実用的に古隷が使われていました。雲夢睡虎地秦簡(うんぼうすいこちしんかん)は、その代表的な出土資料です。
古隷に残っていた篆書的要素は漢時代に入ると次第に消えていき、およそ前漢中期には「漢隷」、別名「八分」と呼ばれる書体が成立しました。漢隷こそ、現代の私たちが「隷書」と聞いてまず思い浮かべる、あの完成された姿です。水平な横画と垂直な縦画、左右のはらいが「八」の字のように開く扁平な字形、角張った筆づかい、そしてなんといっても波磔がある隷書です。
漢隷と一口にいっても多種多彩で、線に丸みのあるものもあれば角張ったものもあり、概形が正方形に近いものもあれば扁平なものもあります。書き手の多くは官署に努める書吏(しょり)、すなわち文書を扱う役人で、地位は決して高くなく、碑文に書名する習慣もなかったため、かれらの名前を知るすべはありません。今日に伝わる名品の多くは、こうした名もなき書家たちの作品なのです。

漢時代には書写材料として、竹や木の簡牘・布帛・紙が使われていました。簡牘とは、文字を書くための細長い竹や木の札で、紙が普及する前の主要な記録媒体です。漢時代にはまだ高い机と椅子はなく、座る姿勢は跪坐(きざ)、つまり正座に近い座り方でした。簡牘に書くときは左手に簡を持ち、右手は単鉤法(たんこうほう)という握り方で筆をななめに持ちます。今日の私たちがペンで書く姿勢と似ています。
漢時代の毛筆は、筆頭が小さく尖(とが)っていて弾力に富み、幅約1センチの簡牘に小さな文字を書いたので、細字に特化した筆でした。武威磨嘴子漢簡(ぶいまさいしかんかん)など、出土した簡牘の墨跡には、石碑の隷書では及びもつかない躍動感のある筆勢と独特の味わいがはっきりと見られます。

今日に伝わる漢時代の碑に刻された隷書(漢隷)は、その大部分が後漢時代(25~220)に作られたものです。一般的に隷書の特徴として挙げられる字形の扁平さと波磔が強調された隷書は、まさにこの時代から来ています。
後漢時代中期には盛んに碑が建てられました。王侯や大臣が聖地を訪れた記念に建てる碑、地方長官が功績をたたえられる碑、孝行を重んじる風習から親のために立派な墓を建てる碑など、さまざまな目的で石碑制作が行われた結果として技術が高まり、頌徳碑(しょうとくひ)として「乙瑛碑」「曹全碑」などの隷書の名品が制作されました。後漢時代に名もなき書吏たちが残したこの遺産が、現代の私たちの臨書のお手本となっているのです。

東晋時代(300年ごろ)になると、隷書にとってかわって楷書が正式書体となり、隷書の時代はいったん終わりを迎えます。とはいえ公的な碑を建てる際には、漢・魏・西晋時代の伝統を踏襲し、前と変わらず隷書が採用されました。東晋をはじめとした南朝の人々は、碑刻に使う書体としての隷書を「銘石書(めいせきしょ)」と呼びました。
東晋時代の隷書は、石のブロックを積み上げたような太い四角形の横画と縦画が特徴で、時代が下るにつれて法直化の一途をたどります。これは意図的な変化ではなく、日常的に使われなくなった漢隷を十分に習熟しないまま隷書の特徴を表現しようと書いた結果、爨宝子碑(さんぽうしひ)に見られるような奇怪な隷書になったと考えられています。書道史上は「変型隷書」と呼ばれ、独特の魅力を放つジャンルとして今も愛好家がいます。

唐時代の隷書(唐隷)は、漢隷をより力強く豊満にしたものが多く制作され、後世でも高く評価されています。唐時代は書道の黄金期ともいわれ、隷書もこの時代にもう一度光を浴びました。唐時代前期の皇帝たちはみな書道を愛好し、なかでも第6代皇帝・玄宗(げんそう)は好んで隷書を書きました。玄宗の書いた隷書「石台孝経(せきだいこうきょう)」もおおらかな字形と豊満な線が特徴的です。
玄宗の即位後、隷書を得意とする書道家が多く登場しました。徐浩(じょこう)、韓択木(かんたくぼく)、梁昇卿(りょうしょうけい)、史惟則(しいそく)、蔡有鄰(さいゆうりん)、李潮(りちょう)らが有名です。後世の人々にとって漢時代の隷書を直接目にすることは難しかったため、唐隷が学ぶための手本とされることも多かったのです。

晋時代以降、書道家たちは漢隷を正統としてきました。しかし一般の書道家たちにとって、漢隷の拓本は容易に目にできないものでした。漢隷はあくまで理想であって、実際は唐隷によって隷書を学ぶほかなかったのです。それは猫を見て虎を描くようなものでした。
そのため宋・元・明時代の隷書は、書道史上あまり取り上げられることがありません。有名な書道家である米芾(べいふつ/宋時代)、趙孟頫(ちょうもうふ/元)、文徴明(ぶんちょうめい/明)の隷書を見ると、線がぶよぶよと太かったり、楷書の筆づかいが混ざっていたりします。字形は往々にして縦長で整っていません。漢隷の重厚感や古朴(こぼく)なおもむきが欠けているのです。これは書家の腕が劣っていたわけではなく、お手本となる本物の漢隷を見る機会がなかった、という時代の制約が大きな理由でした。

清時代になると、金石学(きんせきがく)・考証学(こうしょうがく)が盛んになります。学者たちは漢時代に建てられた碑を求めてあちこちを訪ねまわり、拓本をとっては互いに贈り合いました。こうしてようやく直接漢隷を学ぶことが可能になったのです。とはいえ当時すでに碑面の傷みのために文字の点画が不明瞭で、筆法を理解することは難しいものがほとんどで、清時代初期の書道家たちは時間をかけて書く経験を積みながら筆づかいを探求していきました。
それから100年後の乾隆(けんりゅう)・嘉慶(かけい)期になると、先輩書道家たちの経験と教訓を汲んで、ついに隷書の復興期をむかえました。鄧石如(とうせきじょ)の「四体帖」のような名作が次々に生まれ、扁額・対聯(ついれん)・条幅・中堂(広間の中央に掛ける大字の作品)などが大字の隷書で書かれ、多彩なスタイルが花開きました。
清時代の隷書は線が質朴かつ重厚で、字形は整った中にも新味や奔放(ほんぽう)さがあります。趙之謙(ちょうしけん)や呉昌碩(ごしょうせき)といった清末の巨匠たちも、漢隷を深く学んだうえで独自の表現を切り開きました。今、私たちが教室で隷書を学べるのも、清時代の書家たちが命がけで掘り起こしてくれた漢隷の遺産があってこそ、なのです。
隷書の臨書を始めるなら、まず手本にしたいのが後漢時代に建てられた3つの碑、乙瑛碑(いつえいひ)・礼器碑(れいきひ)・曹全碑(そうぜんひ)です。どれも漢隷の最高峰で、書道教室や教科書にもよく登場します。3つの作風の違いを比較表にまとめました。
| 碑名 | 建立年 | 作風 | 初学者向け度 |
|---|---|---|---|
| 乙瑛碑(いつえいひ) | 153年(後漢) | 整斉端正、おだやかでバランスのよい正統派 | ★★★ |
| 礼器碑(れいきひ) | 156年(後漢) | 線が細く繊細、波磔は鋭く、やや上級者向け | ★★ |
| 曹全碑(そうぜんひ) | 185年(後漢) | 線がやわらかく流麗、女性的で美しい | ★★★ |
「隷書の臨書を始めたい、でもどれから手をつけたらいいかわからない」という方には、書道講師の経験から乙瑛碑か曹全碑をおすすめしています。乙瑛碑は字形がもっとも整っていて隷書の基本を学ぶのにぴったり。曹全碑は線がやわらかく流麗で、書いていて楽しいので続けやすいのが魅力です。礼器碑は線が細くコントロールが難しいので、ある程度書き慣れてから挑戦するのがおすすめです。さらに学びを深めたい方は張遷碑(ちょうせんひ)のような剛健な作風の碑にも挑戦してみてください。
隷書は、五書体(楷書・行書・草書・隷書・篆書)の中で「橋渡し」のような位置にいる書体です。古い篆書から生まれ、楷書・行書・草書のいわばご先祖さまにあたります。それぞれの書体との関係を表で整理してみましょう。
| 書体 | 成立時期 | 特徴 | 隷書との関係 |
|---|---|---|---|
| 篆書(てんしょ) | 紀元前1000年ごろ〜 | うねうねとした曲線、円転、左右対称 | 隷書のもとになった書体 |
| 隷書(れいしょ) | 紀元前300年ごろ〜 | 水平な横画、波磔、扁平な字形、方折 | 篆書を早書きするために誕生 |
| 楷書(かいしょ) | 後漢末〜三国時代 | 1画ずつきっちり書く、現代の標準書体 | 隷書から発展して完成 |
| 行書(ぎょうしょ) | 後漢〜三国時代 | 楷書をくずした半流麗な書体 | 楷書経由で隷書の影響を受ける |
| 草書(そうしょ) | 前漢時代〜 | 線を大胆にくずした流麗な書体 | 隷書をくずすところから発生 |
こうして比べてみると、隷書がいかに重要な「中継点」だったかがよくわかります。五書体は隷書を中心に枝分かれしているので、隷書を学ぶことは書道全体を理解する近道でもあります。
A. 隷書は篆書から生まれた書体全体の名前で、八分隷はそのうち漢時代に完成した「波磔のある成熟した隷書」を指します。古隷(波磔がない初期の隷書)と区別する意味で、漢隷を「八分」や「八分隷」と呼びます。
A. 隷書は篆書(てんしょ)から生まれました。紀元前300年ごろの中国で、うねうねと曲がりくねる篆書の線を、まっすぐな横画と縦画に分けて早書きするために考案されたのが隷書のはじまりです。漢時代に完成し、楷書・行書・草書のもとにもなりました。
A. 後漢時代の乙瑛碑(153年)か曹全碑(185年)がおすすめです。乙瑛碑は字形が整っていて隷書の基本を学ぶのにぴったり。曹全碑は線がやわらかく流麗で続けやすいのが魅力です。
A. 波磔(はたく)をきれいに書くコツは「蚕頭燕尾」を意識することです。起筆を蚕の頭のように丸く押さえ、まんなかをまっすぐ進め、終筆でいったん筆を下に押し下げてからすっと右上に跳ね上げます。ゆっくり、じっくり書くのがポイントです。
A. 日本のお札の「日本銀行券」の文字、神社の御朱印、書道作品の落款印、年賀状の宛名、ラーメン屋さんの看板など、さまざまな場面で使われています。読みやすく格調高いのに親しみやすい、絶妙なバランスが愛されている書体です。
隷書は2000年以上前に生まれた書体でありながら、いまも日本の暮らしの中にしっかりと残っています。実際に筆で書いてみると、ふっくらとした起筆、まっすぐな線、最後にすっと跳ね上がる波磔の心地よさに、きっとおどろくと思います。隷書の堂々とした字形は意外と書きやすく、書道の経験がない方にもおすすめできる書体です。
「いきなり通学の教室はハードルが高いな」と感じる方は、まずはSHODO FAMのオンライン書道教室で隷書に触れてみるところから始めてみませんか。SHODO FAMでは、コースごとに専門の講師が担当しています。隷書を本格的に学びたい方には隷書に精通した講師が、それぞれの「学びたい」を丁寧にサポートします。書道筆の選び方に迷ったら書道筆のおすすめランキングもぜひ参考にしてみてください。

後漢時代(25年~220年)は、中国書道の歴史上で最も建碑が盛んだった時代です。
約百数十碑が建立されたといわれており、その中でも曹全碑と礼器碑とはともに最も正統的な代表碑として高く評価されてきました。
曹全碑は優美、礼器碑は方正というように、それぞれ違った雰囲気を持っています。
今回は、方正な礼器碑について詳しく解説していきます。昔の各書家の評価も紹介することでこの碑の権威性といったものも伝えられたらと思います。

礼器碑がつくられたのは、いまからおよそ1800年余り前、後漢の第11代皇帝(桓帝)の永寿2年(156)のことです。
正確な日にちについては、古くから9月5日・7月5日の2つの説があります。
山東省曲阜県の孔子廟内に造立され、今日でも現存しています。
大きさは165×74㎝の四面碑。
形式は、碑陽(碑の表面)・碑陰(碑の裏側)・碑側(左右の側面)ともに文字が刻されています。
碑陽は16行、1行が36字で、序文・銘文の終わりには韓勅など9人の題名があります。
碑陰は3行、1行が17字、碑側右は4行で4字ずつ、左は3行で4字ずつで、建碑に際して寄付した人々の官職、名称、寄付の額が記されてます。
碑文の内容は、魯の国の丞相(国政をつかさどった最上位の行政官)だった韓勅(人名)という人の功績が称えられています。
韓勅の功績とはどのようなものだったのかを紹介します。
韓勅は孔子を尊敬し、孔子の子孫の一族に対しては一般の人々とよりも特別な待遇をするべきであるとして、徭役(強制労働)や徴兵などを免除して心からの礼を尽くしました。
また韓勅は、秦の始皇帝の暴挙以来、あれはてていた孔子の廟を修造し、祭典に使うもっとも大切な器具類つまり礼器を整備しました。
さらに孔子の旧宅の修復や、廟(宗教建築)のまわりの排水事業などをも行いました。銘文には、韓勅によって整備された礼器が廟の中に納まると、天雨降り潤い、百姓は喜び、国を挙げて祝うとも書かれています。
このような韓勅の、孔子廟修造を中心とするすばらしい行いに感動した周辺国の人々は、その功績を仰ぎ慕い、後の世代にその名を伝えようと石に刻したのがこの礼器碑なのです。

題額(碑額)に題名が刻されていないため名称は定まっていません。
そのため、名称は古い著録によっていろいろな呼ばれ方をしています。
たとえば、天下碑録(隷釈所収)には魯相韓勅復顔氏繇発碑、欧陽修の集古録(巻2)には修孔子廟器碑、趙明誠の金石録(巻15)には韓明府孔子廟碑、洪适の隷釈(巻1)には魯相韓勅孔子廟器碑などと書かれています。
ところで、このような高い評価をもった礼器碑の筆者は誰だったのでしょうか。
確かな筆者はわかっていませんが、古来3つの説が伝えられています。
書者については、かなり以前から魏の鍾繇であるという伝説があります。
『袞州府志』には「大尉(鍾繇)の手に出づ」とあるそうですが、礼器碑の成立年代は156年、鍾繇の生卒は151年~230年ということからその説は当てはまらないと言えるでしょう。もし本当なら鍾繇が子供の頃に書いたことになってしまいます。
そのほかの説として、明確な筆者は分かっていませんが、翁方綱による「七人書写説」と、王澍による「五節八変説」を紹介します。
翁方綱による「七人書写説」とは、碑文に7人の署名があるから7人が分担して書かれているのではないかということです。
その根拠として、精拓旧本で見える文末の1行に「七人所作半泐」とあります。翁方綱はこれを「書する所」と解釈し、7人が集まって書いたとしたのです。
王澍による「五節八変説」とは碑全体は1人が書くのですが、あとから書き足したり、文字に大小・痩肥があるため書風の変化が生じているというものです。
私個人の見解をさせていただくと、かりに何人かの別の人が書いたとしてもその書風はほぼ一貫性が見てとれるので、あえて7人にする必要があるとは思いません。したがって、この1人で書いたという説の方が有力なのではないかと思います。
礼器碑は百数十にものぼる漢碑のうち第一品として古くからもっとも評価されています。
礼器碑に対して、昔の中国・日本の各書家たちによる評価を紹介します。
書家の方々の評価態度を見れば、礼器碑が漢代の代表的な古典としてどれほど高く評価されているのか分るでしょう。
明代の郭宗昌(?~1652)は礼器碑を神のたすけによるものであるとして、
「その点画の妙は筆に非ず手に非ず、古雅前なし。これを神功に得て人造に由らざるがごとし。(『金石史』巻上)」
と評しています。
清代に入ると、考証学が盛んになるとともに礼器碑への関心はさらに高まってきます。
収蔵家孫承沢(1592~1676)は、
「書法の美。旧石の完、書家これ〔礼器碑〕と曹全〔碑〕とを得てこれに従事せば他は問うことなかるべし。(『庚子銷夏記』巻5)」
と絶賛し、漢隷を学ぶには、礼器碑と曹全碑の2つさえあれば他はなくでもよい、とまで述べています。
郭尚先(1785~1832)もまた、
「漢人の書は、韓勅造礼器碑をもって第一となす。~意境まさに史晨・乙瑛・孔宙・曹全の諸碑の上にあるべし。(『芳堅館題跋』)」
と、ほかの碑と比べて格別な注目をよせています。
潘存(?~1892)はまた、
「礼器碑は方整峻潔、楷書の廟堂・醴泉あるが如し。自ずからこれ分書の正宗なり。(『学書邇言』引)」
と、礼器碑を分書(八分隷)の中で、もっとも正当本格なものとみています。
日下部鳴鶴は明治時代に活躍した日本の政治家・書家です。鳴鶴は隷書の真髄を示し、漢碑について特に詳しい人物として有名です。
この礼器碑に対しては、『論書三十首』のなかで、
「孔廟礼器碑、漢代第一に推す。精妙、筆に神あり、平正、奇逸を生ず。」
と評価しています。
書論家として著名な樋口銅牛は、
「折刀斬鉄式ですらあればそれが古意あるものと決定的に断ずるのは、書風の進運発展の経路に闇い者であるかのように吾人の脳底には感ぜられるのである。波撇(波勢のこと)妍妙なる所の礼器・曹全が後漢八分の代表作であらねばならぬ。(『書学史藁』)」
とまで論断しています。
この礼器碑の宋拓旧本の収蔵者でもあった中村不折は、
「この碑は技巧ということの一番発達した最上のものというてよく…実に堂々とて森厳犯すべからずの趣がある。…後漢の隷書八分の帝王と称するもいずれも褒めすぎるというものはあるまい。(隷書史、『歴史公論』第四巻第三号)」
と、これまた最も高い評価をしています。
比田井天来は、隷書学習の基本的な代表古典3種類をあげ、その中で礼器碑に対し、
「孔廟礼器碑は品のいい書であるが、少し力が乏しい。上手に臨書しないとものにならない。」
と論評を加えています。































曹全碑の内容は、曹全という人物の官僚・武将としての功績を記したものです。
本記事では曹全碑の日本語訳を紹介します。
君は、諱は全、字は景完。敦煌效国の出身の人です。その先祖は、おそらく周室の末裔でしょう。武王は、天子になる機会をとらえて、殷商を討伐しました。天下統一の勲功を成し遂げるにあたって、天からの幸運が集まったのです。弟の叔振鐸に曹国の領土を与えて諸侯にすることで、一族はその国名を氏としました。秦漢の頃には、曹参は漢の王室をそばから助けました。世宗武帝が領地を拡げた後、子孫は雍州の郊外に移り住み、また分かれて右扶風にとどまり、あるいは安定にあり、あるいは武都におり、あるいは隴西に住居を定め、あるいは敦煌に家を持ちました。まるで木が枝分かれして葉を広げていくように、いろんな場所でその地の実力者となったのです。
君の高祖父曹敏は、考廉に推薦され、武威長史、巴郡朐忍令、張掖居延都尉になりました。曾祖父曹述も、考廉、謁者、金城長史、夏陽令、蜀郡西武都尉となり、祖父曹鳳は、考廉、張掖属国都尉丞、右扶風隃麋候相、金城西部都尉、北地太守となりました。また、父曹琫は、若くして州郡に名声が高かったのですが不幸にして早世しました。このように位は(早世したために)その徳にそわないのでした。
君は、幼少より学問を好み、奥深い(意味深い)書物を探求して、通じない文はありませんでした。賢孝の性質の根(生まれながらの)は心から生じます。祖父の妾に引き取られ、継母に仕えましたが、何も言われないうちに相手の気持ちを察し、望みをかなえて満足させ、また存命中の者、すでに世を去った者を敬って、その礼にはまったく欠けたところがありませんでした。それゆえ村人は「親を重んじ勧を致す曹景完。易世徳を載して其の名を䧎とさず」という諺を作って讃えたのです。政治にあずかるようになってからは、清廉さでは伯夷・叔斉を手本とし、まっすぐな行いでは史魚を慕いました。郡の重要な職である上計掾史をへて、そののち涼州刺史に招かれて、そこで治中別駕となったこともありました。そして、万里を治め、正邪(善悪)を誤ることはなかったのです。州内の諸郡を治めるに及んでは、曲がったこと、邪なことを糾弾したので、貪婪な者はみな心を改め、同僚はその徳に信服し、遠きも近きもみなその威を憚り恐れました。
建寧2年(169)には考廉に推薦され、郎中に任命されました。西域戊郡司馬の職を命ぜられ、その時に疏勒国王和徳が父を弑して位を奪い、貢物を献上しなくなったので、君は軍隊を起こして征伐に出かけました。部下に対しては膿を吸ってやる仁徳を持ち、酒を分け与える恵み深い心を備え、城を攻め野に戦うに際しては湧き出る泉のごとく謀事を思いついて、その威武はいにしえの専諸や孟賁に匹敵するほどでした。和徳は自ら手を後ろ手に縛って死罪についたので、軍隊をととのえて凱施しました。これを祝しての諸国からの贈り物は、に200万にも達し、それらはすべて官府の帳簿に記されました。この後、右扶風槐里令の位に移りましたが、実弟の死にあたって、喪に服するために官を去りました。続いて党錮の禁(宦官との政争)に触れ、7年間郷里の家に隠れ暮らしました。
光和6年(183)、ふたたび考廉の位に就き、同7年3月には郎中に任命され、酒泉禄福の長を拝しました。妖賊の張角が幽州・冀州に兵を起こし、兗・豫・荆・楊の各州でも時を同じくして動乱がはじまりました。県民や町家も反乱をなし、城市や役所を焼きうちにするなど民衆は騒ぎ立て、不安に恐れおののきました。三郡は危急を告げ、羽檄が頻りに発せられたので、その時、聖主が多くの臣下に相談したところ、みな口々に「君(曹全)こそが(反乱を鎮圧する武将に)ふさわしい」と述べたため、郃陽令となり、生き残りの軍隊をたてなおして、残党を切り平らげ反乱の根を断ちました。そして、古老の商量や、有徳の人物であった王敞、王畢らに、民を恵みあわれむ上での要点を尋ね、老人をいたわり慰め、老齢の寡夫や寡婦をいつくしみ養いました。自分の金で穀物を買い入れて、重病で目の見えない老女の桃妃らに恵み与え、また匕首薬や神明膏を調合して、自ら遠く離れた亭まで持っていき、部下の王皐、程横らがそれを病人に与えたところすっかり治ったのです。こうした恵み深い政策が行きわたっていくさまは駅伝よりも速く伝わり、人々は子供を背負ってまで、あたかも雲がわき出るように次々と(故郷に)帰ってきました。壊れたかねきや家屋を修理し、商店が立ち並ぶようになり、季節に従って風雨はやってきて、毎年豊作が続き、農夫織婦、工人らはみな曹全の恩を深く感じたということです。
県はさきの和平元年(150)に白茅谷の水害に遭い、戊戌(延熹元年・158)・己亥の間にようやく水は退きました。これを期に城郭を新たに作ったのですが、この後は旧い家柄の者、学問を修めた者の官位は上がらなくなってしまいました。君はこうした優秀な人材が不遇なままに置かれているのをあわれんで、南の方角に役所の門をひらいて華嶽(華山)を望み、南に向かって人民を治めるようにしたので、学者の李儒、欒規、程寅らにそれぞれ官爵を得させることができました。政治を司る官舎や、役所の建物を広げ、また都へ赴いて皇帝に謁見するに際して、その費用は民から出させることなく、労役は必ず農繁期を避けるようにもしました。門下掾王敞、録事掾王畢、主薄王歴、戸曹掾秦尚、功曹史王顓らが、古い昔、魯頌、商頌といったほめ歌を作った奚斯や考甫の先例をよしとしてこれにならい、石に刻してその功績を記すこととしたのです。その辞はこう言っています…
聖明なる天子はうるわしく、道徳にかなっていることは明らかです。君は朝廷に官として推薦されて、西戎を征伐したので、その威はあまねくゆきわたり、遠国を安定させ、軍隊をひきいて凱施しました。槐里令となって政をとったが、弟を偲ぶ気持ちのあまり、弔に服して官を去りました。ああ、かの逆賊が城市を焼き払ったときに、君は特に命を受け、残党をたいらげ、服従せぬ者を滅して、人々を安んじたのです。役所を修理し、南門を開き、高い山を切り開いて、華山を望むようにしました。明に向かって治め、その恵みはひろくゆきわたり、官吏は政を楽しみ、民衆の生計は十分に足ることとなったのです。君は高い位にのぼり、三公(最高の位)までも極めてください。

曹全碑は中国の歴史的な書道作品であり、その美しさと独特な特徴が注目されています。
本記事では、曹全碑の基本情報・内容・魅力について詳しく解説します。
また、臨書のための書き方・特徴も紹介します。

曹全碑は、曹全という人物の功績を称えるために建立された石碑です。
後漢の末期、185年(中平2年)に作られました。
書かれた文字が優れていることから、書道芸術においてその書風が注目されています。
書体は隷書で書かれています。典型的な八分隷です。
正式名は「漢郃陽令曹全碑」と言います。
曹全碑の原石は現存しており、現在は中国の陝西省西安市の西安碑林の中に保存されています。
碑の大きさは272×95センチで、碑首はなく、20行、一行45。

明の万暦年間(1573~1620)の初めに、今の陝西省広陽県の東、当時の都である洛陽からほど近い莘里村から出土しました。
碑石は出土時、完全な状態で文字もはっきりしており、美しい状態でした。
永らく土中に埋められていたため、石の破損が少なく、刻字当初の美しい文字の姿をとどめていました。
後漢王朝が衰え、弟の永昌太守・曹鸞も政権抗争で殺され、曹全自身も7年間身を隠したりしました。その後、黄巾の乱を収めるなどの功績で完成近くまで進められた建碑でしたが、再び政変による曹全の失脚によって、建碑に関わった人たちは、この碑が自分たちに影響を及ぼすことを恐れ、建碑することなく、そのまま地中深くに埋めてしまいました。
その結果、約1300年ものあいだ土の中で磨滅をまぬがれ、綺麗な状態で出土しました。
しかし出土してからは、おろそかな保管と歳月の浸食によって欠字が出てしまったり、台風のために木が倒れてきて碑が断裂してしまったりします。現在見ることのできる曹全碑の拓本の大部分は石碑が割れてしまった後のものです。顧公雄の家族が寄贈した《曹全碑冊》は、石碑断裂前の拓本で、欠字もない完全な状態を保存しており、もっとも貴重な拓本だと言えます。
現在は、陝西省西安市の西安碑林博物館に安置されています。
内容は、曹全という人物が、地方の黄巾の乱を収めたことや、民政に功績をあげたことなどが記されています。
つまり彼の功績を褒めたたえるものです。
曹全碑のくわしい内容は「曹全碑 全文 日本語訳」をご覧ください。
曹全とは人の名前で、字を景完といい、敦煌における漢人豪族の末裔です。
高祖(遠い祖先の意味)以来、5世にわたって相当な官位についていますが、曹全は幼くして父を亡くし、義祖母に養育され、継母に仕えました。
学を好み、親孝行にあつく、当時、「親を重んじ歓を致す曹景完」ということわざがあったそうです。
官についてからは、一時、党錮の禁に遭い失脚したこともありましたが、官史としては有能であっただけでなく、武将としても臨機応変な策略が得意でした。張角らによる黄巾の乱(組織的な農民反乱)のとき、陝西省郃陽令(長官)に選ばれ、治安を収めることに成功しました。
隷書の規範とも言え、隷書の基本的構造を知るうえで格好の古典です。
曹全碑は、乙瑛碑や礼器碑と並び、隷書碑がもっとも盛んになる後漢時代の代表的な作品です。
従来、礼器碑とともに漢隷の双璧とうたわれてきた作品で、漢隷の最大の特徴である波勢の美しさがあますことなく表現されています。
曹全碑は、隷書碑のなかでも点画のすみずみまで心配りした理知的な構成と、肥痩・強弱の運筆、ゆったりとした上品で余裕のある趣、どれ1つをとっても優れています。
刻された文字ではありますが、筆意に富み、肉筆のような味わいがあります。
左右の均衡を絶妙に保つ点画構成、扁平に構え密度のある字形、伸びやかな波磔など、その書法は漢時代の隷書の1つの典型を示しています。
全く風化作用を受けず、まるで真跡に接しているかのように筆路、用筆、結体の特徴がよく分かり、しかも碑文字数の多い曹全碑は、隷書学習の入門書として最適だと言えるでしょう。
ここからは、曹全碑の書き方・特徴を紹介します。
曹全碑は、隷書の基本的な特徴である、扁平・水平・等分割に加え、
伸びやかな横画・右はらい、ゆったりと流れるような美しさ、という点が特徴的です。
以下の書き方・特徴に注意すれば、曹全碑をうまく表現できるでしょう。
以下それぞれ詳しく解説します。

1つ目、隷書は基本的に扁平な形をしています。
扁平に見せるために文字造形にさまざまな工夫がみられます。
縦画を短くして横画の長さを強調する、斜めの線においても水平に近い角度、などが挙げられます。
図で紹介した文字では、
・「分」は、「八」の間に「刀」が入れる
・「布」は、真ん中の縦画を短くする
・「所」は、左の縦画が水平に近い角度ではらう
などの工夫がみられます。

2つ目、横画は基本的に水平です。
隷書は扁平なので、自然と横画が見立ちます。
波磔のついた長い横画があれば、横への動きはより誇張されます。
中には、波磔や偏と旁の関係によって一部の横画が傾いていたとしても、全体としては水平に見えるようにバランスをとりましょう。

3つ目、水平な横画を美しく見せるためには、線と線の間隔を等間隔にすることが大切です。
単体の文字で横画が3本以上の場合、等間隔になっています。
横画が重なるときは、なるべく感覚を詰めて扁平な字形にしましょう。

4つ目、始筆は、穂先を中に巻き込むようにして、先端を丸くします(蔵鋒)。
筆の入り方は、右巻き・左巻きのどちらから書いても良いです。
送筆部分は、穂先が線の中心を通るようにしましょう(中鋒)。
終筆は、止めたらそのままスッと筆を離します。

波磔のある横画は、終筆部分でいったん止めた筆を右下に押し下げ、徐々に筆を抜いていきます。
ただし、1字のなかで波磔をつけるのは、1画のみです。(一字一波)。

5つ目、左右のゆったりとした伸びやかさや、穏やかで軽やかな風格を表現するためには、左右に広がるはらいの勢いに注意します。
左はらいは、縦画と同じように筆を入れ、左ななめ下に向かいます。終筆部分は止めたらそのまま離すか、軽く押し出します。
右払いは、多くの場合に波磔をもっています。横画と角度は違いますが、波磔のある横画と同じような運筆ではらいましょう。

6つ目、曲がりかどは筆を一旦離してから、2画にわけて書きます。
それぞれ独立した2つの線を組み合わせて1画をつくるのは、隷書のおおきな特徴です。

いろいろな形の点がありますが、基本的に横画、縦画と同じように丸め込んで書きます。
点は筆画のなかでもっとも小さい画です。軽視せず隷書の書き方に従って丁寧に書きましょう。
ここまで曹全碑の書き方を紹介してきましたが、上達するためには道具も重要です。
ちゃんとした筆で練習していないと、いつまでも上達せず、間違った方向に進んでしまうこともあります。
作品を書く際、
「お手本のようになかなか上手に書けない…」
「筆が思うように動いてくれない…」
という方は、普段使っている筆と違う筆を試してみるといいかもしれません。
ちなみに、おすすめの書道筆は『【おすすめ】書道筆「小春」を紹介/もう筆のせいで失敗しない【悠栄堂「小春」】』を参考にどうぞ。↓
曹全碑の来歴・内容・隷書のなかの位置などに加え、
臨書の際に気をつけたい書き方・特徴を紹介しました。
曹全碑は、隷書の古典のなかでもとくに「ゆったりと流れるような美しさ」が最大の特徴であり、魅力的なところです。
今回紹介した書き方・特徴に気をつけ、正しい筆を使えていれば、曹全碑の美しさを表現できるようになるでしょう。