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  • 血書経(けっしょきょう)について/自身の血で写経が行われた

    血書経(けっしょきょう)について/自身の血で写経が行われた

    血書経(けっしょきょう)とは

    血書経けっしょきょうとは、写経を行う際に、自分の血で文字を書く写経方法のことをいいます。

    血書経は修行の1種として行われた

    どうして写経の文字に、血が使われたのでしょうか。

    それは、一種の身体を犠牲にして仏道を求める修行として血書経が行われたからです。

    血をもって経文を書くという例は、経典の中にみえます。

    まず、『大智度論だいちどろん』(巻第16)に、

    復次如愛法梵志、十二歳遍閣浮提、求知聖法而不能得、時世無仏仏法亦尽、有一婆羅門言、我有聖法一偈若実愛法当以与汝、答言、実愛法、婆羅門言、若実愛法当以汝皮為紙以身骨為筆以血書之、当以与汝、即如其言破骨剝皮以血写偈

    『大智度論』(巻第16)

    汝が皮を紙とし、汝が骨を筆として、血をもって書くべし(原文は漢文)」とあります。

    また、『梵網経ぼんもうきょう』(菩薩心地戒品第10巻下)にも、

    常応受持読誦大乗経律、剥皮為紙、刺血為墨、以髄為水、折骨為筆書写仏戒、木皮穀紙絹素、竹帛亦応悉書持、常以七宝無価香花、一切雑宝、為箱囊盛経律巻、

    『梵網経』(菩薩心地戒品第10巻下)

    大乗経律を受持し、読誦す。皮を剝ぎて紙となし、血を刺して墨となし、髄をもって水となし、骨を析て筆となし、仏戒を書写すべし(原文は漢文)」といっています。

    これらの経典から、身体を犠牲にして仏道を求めることが功徳とされていたことがうかがえます。

    血書経が書写された記録

    記録を見渡したところ、血書経の遺例はとても少ないようです。

    そのなかの1つ、内大臣ないだいじん藤原頼長ふじわらのよりながが、この血書経に挑んでいます。彼の日記『台記』(1145年(久安元年)10月25日条)によれば、

    廿五にじゅうご日、丙寅、今旦より血経薬師経を書くなり。修理大夫敦任あつとう(件の人、去年血経を書く。って、此の事を役す、の左手指を割かしめ、其の血を取る。

    『台記』1145年(久安元年)10月25日条、原文は漢文

    といっています。

    なんと頼長は、自分自身の肉体は傷つけないで、他人の血で代用しているのです。血液の提供者は修理大夫・藤原敦任ふじわらのあつとうでした。藤原敦任は、代々漢学者の家の出で、頼長の学問相手でした。

    血書経を完成させた頼長は、延暦寺にのぼって経供養を行いました。導師は叡山えいざんの僧侶・実陽みはる法橋ほっきょうでした。

    施入された「薬師経」12巻のなかに敦任から採血して書写した「薬師経」と「寿命経」各1巻が加えられました。ところが、このアイデアは秘密にせられてしまいました。

    頼長自身の弁明によると、「去年、指の血をもって書くところの経なり。但し、血経の由は導師に仰せず。衆聞を恐るるによってなり」(『台記』久安2年正月20日条・原文は漢文)といいます。

    どうして頼長は衆聞を恐れなければならなかったのでしょうか。むしろ、当時の公卿社会において誇れる経供養なはずです。
    おそらく、頼長は、他人の血をつかったことがばれることを恐れたのでしょう。

    また、保元の乱で悲劇的な幕切れとなった崇徳上皇すとくじょうこう(1119~1169)も、みずから配所讃岐さぬきの白峰御所において、血書経の五部大乗経を書写しています(『吉記』1183年〈寿永2年〉7月16日条・『保元物語』)。

    血で文字を書くのはとても難しかった

    何巻もの経巻を実際に血で書くということは簡単なことではありませんでした。

    血は凝固が早いので、ケガをして出血をしたとしても、すぐに止血してしまします。さらに、暗褐色に変色してしまいます。

    このような特性をもつ血で、写経をすることが可能だったのでしょうか。また、可能だとしてもかなり大量の血液を必要とします。

    血書経が書写されたという記録は残っていますが、現存はしておらず、実際にはどんなものだったのか知ることはできません。

    ちなみに、現在、血書経といわれる遺品は、経塚から出土したものが多いです。しかし、すべて朱墨で書いたものとされており、血で書いたと思われるものはありません。

    血書経の遺品

    さいごに、血書経の遺品を紹介します。

    平安時代にはいって写経が実用から離れて、信仰的になるにつれて、血書経の遺品は多くなります。

    しかもそれは平安時代末期の経塚出土遺物にみることができます。

    そのなかでも目立つものとしては、以下の5つが挙げられます。

    1. 福岡県朝倉郡安川村(現甘木市)大字楢原虚空蔵寺境内出土 経巻残片 1125年(天治2)
    2. 東京都南多摩郡由木村(現八王子市)白山神社境内出土 経巻残片 1154年(仁平4)
    3. 大阪府豊能郡東郷村(現能勢町)大字出野若宮八幡宮経塚出土 経巻残片 1181年(養和元)
    4. 福井県敦賀郡東郷村(現敦賀市)大字谷口出土 経巻残片 平安時代
    5. 京都府与謝郡桑飼村(現加悦町)字温江大虫神社境内出土 経巻残片 平安時代
    白山神社境内出土の経巻残片
    2番:白山神社境内出土の経巻残片
    大虫神社経塚出土の経巻残片
    5番:大虫神社経塚出土の経巻残片

    参考文献:小松茂美著作集9・18

  • 一切経(いっさいきょう)について詳しく解説【日本ではじめて写経に使われた経典・金泥一切経と銀泥一切経・一日一切経・一筆一切経】

    一切経(いっさいきょう)について詳しく解説【日本ではじめて写経に使われた経典・金泥一切経と銀泥一切経・一日一切経・一筆一切経】

    今回紹介する「一切経いっさいきょう」は、日本に写経が伝わり、はじめて写経につかわれた経典です。

    日本では、この一切経の写経がもりあがり、金色の文字で書いたり、とてもたくさんの人々の協力のもと1日で写経を完成させるというイベントが開かれたりしました。

    今回は、「一切経いっさいきょう」について、さらに装飾的な金泥一切経きんでいいっさいきょう銀泥一切経ぎんでいいっさいきょうについて、一日一切経いちにちいっさいきょう一筆一切経いっぴついっさいきょうについても詳しく紹介していきます。

    日本ではじめて写経に使われた経典「一切経」とは

    法隆寺一切経
    法隆寺一切経

    『日本書記』の記事によれば、日本ではじめての写経として「一切経いっさいきょう」が書写されました。

    一切経いっさいきょうというのは、経蔵きょうぞう仏陀ぶっだの説いたきょう集成しゅうせい)、律蔵りつぞう仏法ぶっぽう禁戒きんかいを説いた典籍てんせき)、論蔵ろんぞう(仏法に関する聖賢せいけん所説しょせつの典籍)の三蔵さんぞう全部をふくむ総称です。「大蔵経だいぞうきょう」とも呼ばれます。

    歴代の皇帝の中でもっとも熱心な仏教信者であった煬帝ようだいずいの第2代皇帝)が、歴世、あいついで経典の収集や校勘を行い編成されました。

    インドから中国にもたらされ、たびたび漢訳が行われつつ、時代が下るにつれて増補されていきました。その最終決定版とされるものが、中国とう時代の730年(開元18年)に編集された『開元釈教録かいげんしゃっきょうろく』です。5048巻を総数としました。

    「一切経」は、5048巻にものぼるとても長い経典なのです。

    「一切経」はとても長い/全部で何文字?

    「一切経」は、5048巻もある。と紹介しました。

    その文字の総数はどのくらい多かったのでしょうか。

    1つの基準として奈良時代の写経を基準とするならば、写経は1行を17字で書き、1枚の紙には約25行で書きます。「正倉院文書」にみえる所用料紙の枚数から割り出して、1巻の平均枚数は18.8枚です。

    これを数式で改めてみると、
    17字×25行×18.8枚×5048巻=40,333,520字
    という計算が成り立ちます。

    江戸時代末期の越後えちご(新潟県)の穂積ほづみたもつはこの文字数に関心を持った学者で、彼の著書である『能書事跡』(四巻)に、『昆慮閣碑文こんりょかくひぶん』の説を引用すると、「六千零々三万千百八十余(60,031,180余)」と書かれています。

    「一切経」を書写するのにかかる時間は?

    では、「一切経」を書写するのにどれほどの時間がかかったのでしょうか。

    「正倉院文書」によれば、当時の経師は、1日7枚分(2,975字)書いたそうです。つまり0.4巻分を書写する計算となります。

    1日の経師の人数を50人とした場合、
    5,048巻÷0.4巻=12620日(1人で書写した場合)
    12620日÷50人=252.4日(50人で書写した場合)
    となります。月にすると、1人だと420か月、50人だと8.4か月かかっていたようです。

    金泥一切経と銀泥一切経

    3番の紺紙金字一切経(神護寺経)
    3番の紺紙金字一切経(神護寺経

    金泥こんでい一切経いっさいきょうというのは、こん色の紙に金色で文字を書いた一切経いっさいきょうのことをいいます。

    銀泥ぎんでい一切経は、銀色の文字で書かれた一切経いっさいきょうです。

    金泥一切経の供養が行われたのは平安へいあん時代、それも末期まっきごろのようです。 記録上、金泥一切経の書写は、奈良なら時代にはみられません。

    発願者供養年月日場所出典
    白河法皇○1103年(康和5)7月13日
    ○1110年(天仁3)3月13日
     1110年(天仁3)5月11日
     1113年(天永4)3月28日
     1113年(永久元)10月1日
    ○1131年(天承元)6月17日
     1133年(長承2)10月28日
    法勝寺
    法勝寺
    法勝寺
    法勝寺
    法勝寺
    法勝寺
    法勝寺
    殿暦・本朝世紀・百錬抄
    殿暦・永晶記・古事談
    殿暦・百錬抄・江都督納言願文集
    長秋記
    長秋記
    百錬抄
    中右記
    鳥羽法皇 1134年(長承3)2月17日
     1146年(久安2)10月20日
    ○1153年(仁平3)2月14日
    法勝寺
    法金剛院
    熊野
    中右記・長秋記・百錬抄
    百錬抄
    本朝世紀・百錬抄
    持賢門院 1136年(保延2)10月25日
     1141年(保延7)2月28日
    法金剛院
    法金剛院
    中右記・百錬抄
    兵範記
    美福門院○1150年(久安6)4月27日
     1150年(久安6)5月27日
     1150年(久安6)10月2日
    法勝寺
    法勝寺
    法勝寺
    台記
    台記
    台記・本朝世紀
    崇徳上皇 1154年(久寿元)10月30日法金剛院兵範記
    高倉天皇○1176年(安元2)6月18日日吉社吉記
    白河殿盛子○1178年(治承2)7月15日春日社百錬抄
    藤原秀衡○1176年(安元2)3月中尊寺現存「法華経」巻第八奥書
    平安時代の金泥一切経供養記録一覧表 ※○印は新写供養のものと推定されるもの。

    金泥(金字)について

    金泥こんでいは、金粉をにかわの液に溶かしたもので、書・画を書く顔料の一種です。「金字」ともいいます。

    現在伝わっている文献によると、奈良時代から平安時代初期のころは「金字」という表記が使われる場合が多いようです。

    • 合奉写金字最勝王経一百七十九巻(「正倉院文書」746年〈天平18年〉10月17日「写金字経所解」)
    • 金字大般若経一部(「日本略記」861年〈貞観3年〉2月7日条)
    • 金字妙法蓮華経一部(「扶桑略記」991年〈正暦2年〉閏2月27日条)

    などがあります。

    しかし、平安時代中期になると、「金泥」が使われることが多くなります。

    • 書写五郎部金泥法華経(「小右記」987年〈永延元年〉5月10日条)
    • 書写金泥法華経十一部(「百錬抄」994年〈生暦5年〉10月2日条)

    以降は、金泥の表記が多くなります。

    金泥一切経の遺品

    3番の紺紙金字一切経(神護寺経)
    3番の紺紙金字一切経(神護寺経

    現在、平安時代の金泥一切経の遺品とされているものがあります。

    1. 紺紙金字一切経(荒川経)、重要文化財、3575巻、金剛峰寺蔵
    2. 紺紙金字一切経(内十五巻金銀交書経)、国宝、2739巻、大長寿院蔵
    3. 紺紙金字一切経(神護寺経)、重要文化財、2317巻、神護寺蔵
    4. 紺紙金泥一切経、79巻、太山寺蔵

    以上の4種類があります。

    1番は、美福門院びふくもんいん(鳥羽天皇皇后)が企画したもので、鳥羽天皇とばてんのう菩提ぼだいのために1150年(久安きゅうあん6)5月27日、法勝寺ほっしょうじ金堂こんどうで書写供養を行った一切経です。現存する3575巻は、保存状態もよく、表紙・見返し絵なども絵画史研究のうえで重要な資料です。

    2番は、藤原秀衡ひでひら(?~1187)が企画したもので、亡くなった父基衡もとひらの追福のために書写させた一切経です。現在、中尊寺ちゅうそんじに2739巻を残しているので、ふつうには「中尊寺経ちゅうそんじきょう」の名前でよばれています。

    3番は、今日世間に「神護寺経じんごじきょう」と呼ばれているものです。鳥羽院が企画した一切経で、のちに息子の後白河天皇ごしらかわてんのう(1127~1192)によって神護寺に安置されたと記されています。この一切経がいつごろ書写されたのかについては、この神護寺経に付属している経帙きょうちつのなかに「久安五年四月廿三日(1149年4月23日)」と書かれています。これが制作時期を意味するのかどうか明らかではありませんが、およそその制作の時期を示しています。

    4番は、田中塊堂博士の報告によってでてきたものです(『日本写経綜鑑』)。現存しているのは78巻だけですが、部門別に整理すると、もともとは完全な一切経の1部であることがわかります。

    金と銀が交互にならぶ「紺紙金銀交書一切経」

    紺紙金銀交書一切経
    紺紙金銀交書一切経

    1行ごとに金泥と銀泥を交互にかき分けられている「紺紙金銀交書一切経こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう」を紹介します。「中尊寺経ちゅうそんじきょう」とも呼ばれます。

    藤原清衡ふじわらのきよひら(1056~1128)の発願により書写されました。

    清衡は、この一切経を書写するにあたって、まず京洛きょうらく(京都)から写経集団を奥州おうしゅうに招こうと考えました。比叡山ひえいざんの僧侶である蓮光れんこうを総監督として、たくさんの写経料紙を用意し、十数人の写経団を編成しました。
    写経の中に、それぞれの署名を加えたものがあり、永昭・湛有・政算などがあります。

    蓮光れんこうは明け暮れ写経僧らを励まし写経の完成を急ぎましたが、結局は完成まで8年も費やしました。

    この経は、不思議にも大部分が高野山こうやさんに移されており、現在4297巻(うち国宝指定4296巻)が高野山こうやさん金剛峯寺こんごうぶじの所蔵となっています。豊臣秀次とよとみひでつぐ(1568~1595)が奥州おうしゅう九戸政実くのへまさざねを攻略して帰る際、この寺から高野山に献上したといいます。

    一日一切経・一筆一切経

    一切経は全部で5048巻、文字数でいうと60,031,180余りであると伝えられています。そのため、一切経の書写は大人数で何か月もかけて行われました。

    「一切経」には、「一日一切経」というものがあります。京都中のたくさんの人々が協力して1日のうちに「一切経」のすべてを書写し、供養するというのが「一日一切経」です。

    「一日一切経」に対して、「一筆一切経」というものがありました。この膨大な量の一切経の書写を、だれの力も借りずに1人で完成させようというのが「一筆一切経」です。

    一日一切経

    文献にみえる最初の「一日一切経」は、1096年(嘉保3)3月18日、法成寺ほうじょうじの名僧、慈応じおうが企画したものです。

    この慈応じおうが企画した一日一切経のイベントについて、藤原宗忠ふじわらのむねただという人は自身の日記にこう記しています。

    今日、京中の上下万人、1日の中に一切経を書写すと。是れ一聖人有り。夢想の告げを得る。人々に進め催して、各の家々において書写せしめ、則ち、供養おわりて、聖人の許に送る。てえれば、大善根たるに依って、いささか記し置く所なり。

    『中右記』(原文は漢文)

    一聖人というのは、慈応のことです。

    内容としては、夢のお告げによって、京都中の人々1万人ほどが、1日のなかで一斉に一切経を書写しました。一軒一軒に紙と筆と墨を配って、1日のうちに一切経5000巻あまりを書き上げ、その日のうちに供養を終わらせました。
    『百錬抄』(第5)にも、これが記録されています。

    多くの人に協力してもらうには、一軒一軒、一人ひとりに、この企画の趣旨を説明する必要があります。人数分の紙や筆や墨の用意も必要です。書き上げて持ち込まれたものの整理、あるいは書き上がるのが遅いところは催促さいそくして取り集めに行く必要もあったでしょう。さらに、夕暮れのうちには供養を終わらせなければなりません。

    1日のうちに一写経を書写して供養まですることがどれだけ大変なことだったのかがうかがえます。

    一筆一切経

    次に、「一筆一切経」を紹介します。

    もしこの「一切経」を1人で書いたとすると、いったいどのくらいの年数が必要なのでしょうか。

    その大業を成し遂げた人々がいます。

    藤原定信による一筆一切経

    その1人は、藤原行成ふじわらのこうぜいを祖とする能書の家系世尊寺家せそんじけの5代目、定信さだのぶ(1088~1156)です。

    定信は何歳から何歳までどれだけの期間かかって完成させたのか、『宇槐記抄うかいきしょう』(仁平元年10月10日条)に、

    十日
    定信朝臣、於多武峰出家云々、年六十四

    『字槐記抄』(仁平元年10月10日条)

    とみえます。逆算すると、ちょうど1129年(大治4年)42歳でとりかかった計算となります。42歳からはじめて64歳まで23年かかりました。2日に1巻ずつ書いた計算となります。

    この驚異的な一切経の供養くようは、南都春日大社かすがたいしゃ宝前ほうぜんではなばなしく行われました。興福寺こうふくじ別当べっとう隆覚りゅうかく導師どうしとなり、100人もの僧侶が出席して行われました。

    この写経は一旦、興福寺の僧侶・尋範じんぱんが保管していましたが、やがて収蔵するための経蔵きょうぞうを建設し安置しました。

    ところが、「南都焼討なんとやきうち」という火災の影響により、わずか30年あまりの後に、炎上してしまいました。
    そのため、現在、その一切経は現存していません。

    色定法師一筆一切経

    色定法師一筆一切経
    色定法師一筆一切経

    鎌倉かまくら時代初期の筑前国ちくぜんのくに宗像大社むなかたたいしゃの僧侶色定法師しきじょうほうし良祐りょうゆう・1159~1242)も、1人で「一切経」を書写しました。

    「色定法師一筆一切経」は、福岡県宗像郡玄海町の興聖寺こうしょうじに4342巻が現存しており、重要文化財に指定されています。もともとは、宗像神社に納められていましたが、1873年(明治6)の神仏分離の際に、興聖寺に移されました。

    もともとは5048巻ありましたが、虫食いのために破損。次第に数を減らし、4600あまり巻を残していましたが、1702年(元禄15)の洪水で焼く1200巻が浸水、さらに散逸して現在の数になりました。

    現存している「色定法師一筆一切経」の奥書によると、

    文治三年丁末四月十一日、始壬午書終日十六日辰時書畢。宗像西経所書之一。切経一筆書写行僧良祐之。

    『華厳経』巻第1

    建久元年庚戌十一月十七日、彦山三所権現以貴水書之。一切経一筆書写行人良祐。
    本経主網首張成墨助成網首筆勤覚成房。
    正治二年庚申五月八日。書写畢

    『仏説大般泥洹経』巻第1

    為慈父座主兼祐悲母藤原四子法号蓮阿弥陀仏乃至法界衆生抜苦与楽之書写如件
    一切経一筆書写之行人比丘良祐

    『正方念処経』巻第17

    とかかれています。

    自分のことを「一切経一筆書写行人良祐」と称したことや、父母の菩提ぼだいとむらったことなど、さまざまな写経の目的があったようです。

    色定法師しきじょうほうしは、1187年(文治3)29歳の4月11日に写経にとりかかり、1228年(安貞2)に書き終えました。写経完成まで42年を費やしています

    彼は仲間の西観せいかん心昭しんしょうをつれて、広く九州・四国・中国地方をめぐり歩いて托鉢たくはつ行脚あんぎゃをつづけました。托鉢たくはつとは、信者の家々をめぐり、経文を唱えて食料や金銭の施しをうけてまわる修行形態の1つです。
    色定法師しきじょうほうしは写経のための紙・筆・墨、あるいは金銭などの援助をうけながら、自身はもっぱら写経に明け暮れました。

  • 礼拝写経を紹介【お経の文字を1文字書くごどに礼拝を行う写経方法/一字一礼・一字三礼・一行三礼・一巻三礼】

    礼拝写経を紹介【お経の文字を1文字書くごどに礼拝を行う写経方法/一字一礼・一字三礼・一行三礼・一巻三礼】

    写経しゃきょうは、亡くなった方を供養し、成仏を願って行われました。

    この想いを写経に表現するだけでなく、表現としては残りませんが1字1字に祈りを込めて筆を運びました。

    このお経を写すにあたって、以下の3種類の祈りが行われました。

    1. 1字書くごとに1礼、または3礼
    2. 1行17文字を書き終えるたびに3礼
    3. 1巻の写経を終えて3礼

    実際の様子をもう見ることはできませんが、その事実を文字で書きのこしてある記録があります。

    一字一礼経

    まず紹介するのが「一字一礼経」です。

    1文字書くごとに1度礼拝を行います。

    写経はたくさんの文字を書く必要があるため、1文字書くごとに礼をする作業はとても大変でした。

    一字一礼経が行われていたことが確認できる文献

    「一字一礼経」が行われていたことが確認できる最初の文献は、
    1065年(治暦元年)9月25日、先帝せんだい後朱雀天皇ごすざくてんのう菩提ぼだいのための後冷泉天皇ごれいぜいてんのうが書いた「法華経ほけきょう」です。

    『本朝文集』(巻第四十九)に、この供養の願文が収められています。
    それによれば、

    『本朝文集』(巻第四十九)※國史大系30より

    金泥きんでい妙法蓮華経みょうほうれんげきょう一部八巻…を写したてまつり、…十妙を思い、以て余念を断つ。書法を二妙(王羲之おうぎし王献之おうけんし)のあときわむることを願わず。一字を礼し、以て懇祈こんきぬきんず。
    (原文は漢文)

    『本朝文集』(巻第四十九)

    という記載があります。

    内容としては、文字の良しあしは問題ではない。願うのは、1字1礼をささげて、うやまいつつしんで経典を書き写していくことが重要、というものです。

    2つ目の文献としては、左大臣藤原頼長ふじわらのよりながの一字一礼経です。

    『台記』(1150年〈久安6年〉7月3日条)
    『台記』(1150年〈久安6年〉7月3日条) ※『史料大成』第24巻より

    彼の日記の『台記たいき』(1150年〈久安6年〉7月3日条)によると、鳥羽法皇とばてんのうの80歳の恩賀おんがを行うにあたり、1字1礼の作法で『寿命経じゅみょうきょう』1巻を書写しました。
    頼長は、完成までかかった時間について、「辰刻しんこくより始めて、いぬの時にいたる」といっています。つまり、午前8時ごろにとりかかり、正午をまわり、午後の8時ころまで、まる12時間もかかったようです。

    一字三礼経への発展

    一字一礼経は、さらに大変な「一字三礼いちじさんらい」に発展します。
    1文字書いては3回礼をします。つぎの1字を書いては、また3礼します。

    1173年(承安3年)の9月23日、右大臣九条兼実くじょうかねざね(当時25歳)の夫人が女児を出産しました。
    出産の護身のために、兼実は智詮ちせん阿闍梨あじゃりを招いて不動供ふどうくを行いました。

    兼実かねざね智詮ちせんというお坊さんについて以下のように言っています。

    件の僧は千日、大岑聖巌(吉野大峯山)にこもる。冬籠なり。また、八千枚十度、十万枚一度、これ(護摩)を焼く。また無言にて一字三礼、法華経を書く。また無言にて千部経を転読す。本より持経者なり。しかして、近年廃忘、また暗誦し奉る、しかじか。およそその行業と謂い、中古以来、比類なきか。(原文は漢文)

    『玉葉』承安3年9月23日条

    ここでは、彼が一字三礼経を行っており、今までにないすばらしい行業ぎょうこうだった、と言っています。

    この善行に刺激をうけたのか、兼実かねざね自身も「一字三礼経」を書いています。
    藤氏長者で右大臣の官にいた兼実(当時36歳)は、氏社春日社の宝前で、この一字三礼般若心経を供養しました(『玉葉』1184年〈寿永3年〉3月24日条)。

    また、一字三礼の作法で書かれた写経として現存しているものとしては、万里小路宣房までのこうじのぶふき(1258~1348)の一筆五5郎大乗経(200巻)があります。
    すべて一字三礼の作法にのっとって、13年もかけて完成させました。

    一行三礼経

    「一字一礼経」は1文字書くごとに1礼します。
    「一字三礼経」は1文字書くごとに3礼します。

    これはとても大変なことで、なかなかやり切れるものではありません。

    そこで、1字ではなく、1行(17文字)に対して3礼を、という少し簡略化した方法が工夫されました

    記録の上では、15世紀にはいってから、後崇光院の『看聞御記』あたりから見え始めます。

    • 1437年(永享9年)1月19日
      後崇光院(1372~1456)の立願によって、北野社に奉納のため、一行三礼の観音経を書写す。
    • 同年2月17日
      後崇光院、清水寺に奉納のため一行三礼の『観音経』を書写す。
    • 同年4月15日
      後崇光院、この日、夏安居げあんご(ひと夏の間、閉じこもって仏道修行を行うこと。)の初日にあたり、精進のために一行三礼の『法華経』巻第一を書きはじめる。逆修ぎゃくしゅ(生前に自分の冥福のために行う仏事)のためという。
    看聞御記かんもんぎょき
    • 1472年(文明4年)3月8日
      前権中納言甘露寺親長、妻の所労平癒を祈請して一行三礼の『般若心経』一巻を書写す
    親長卿記ちかながきょうき
    • 三条西実隆(1455~1537)、この日、一行三礼の『法華経』普門品一巻を書写す
    実隆公記さねたかこうき

    周りの人々で一行三礼した写経「運慶願経」

    一行三礼で書写された遺品として、「運慶願経うんけいがんきょう」とよばれるものがあります。

    この経は、大仏師として有名な運慶みずからが願主となり、その妻阿古丸あこまるが大施主となって書写供養したものです。

    第八巻の巻末に、その事情を語る奥書が書かれています。
    長い漢文で書かれた内容を要約すると、

    1. 運慶うんけいは、安元年間(1175~1177)のころ、『法華経』2部の写経供養を企画します。
      色紙工しきしこう(料紙づくりの職人)にプランを打ち明けて浄衣じょうえを与え、霊水れいすいんでまず紙をかせます。
    2. その後、なすことのないまま歳月が過ぎる日々を送り、1183年(寿永2年)の4月になって、やっと写経供養の企画を再開しました。
    3. まず、4月8日にはじめて写経料紙りょうしの準備にとりかかりました。
    4. 大施主阿古丸あこまるも企画者である運慶うんけいにならって、同じように写経供養の企画をたてました。色紙工に運慶同様の手続きによって紙を調えることを命じました。4月28日と29日の2日間で写経料紙は出来上がりました。
    5. 2人の写経僧しゃきょうそう珍賀ちんが栄印えいいん)に、同日同時刻に2組みの写経をはじめさせました。
    6. その間、写経の行数を計算して、1行書き終わるごとに、結縁けちえんに集まった男女たちは、3回礼拝して、『法華経ほけきょう』のお経や念仏を唱えました。
      前記の奥書に交名きょうみょうを並べた人々が、それを担当したわけで、結局5万返の礼拝と念仏・お経はつごう10万返にものぼったといいます。
    7. 2人の写経僧は、わざわざ比叡山ひえいざん根本中堂こんぽんちゅうどう園城寺おんじょうじ清水寺きよみずでらの3か所から霊水れいすいくみみよせて、それで写経しました。
    8. また、装丁にあたっては、それぞれの工人たちを動員しましたが、わけても、軸木じくぎ夢想むそうによって、東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでんの焼け残った木(平重衡の兵火に炎上)を使いました。
    9. 写経所しゃきょうじょ唐橋からはし末の法住寺ほうじゅうじ辺(唐橋は『雍州府志ようしゅうふし』巻第9によると「東寺の西、梅小路の南、山崎路」にあったという)にありました。

    という内容です。

    この中の6番に注目してみてください。

    ここでの1行3礼というのは、写経の当事者自身の行為をいうよりも、むしろその周辺に集まった人々によって礼拝が行われていたようです。
    こうした一見熱狂的ともみえる信仰態度のなかに、その時代に生きていた人々の信仰観を垣間かいま見ることができます。

    一巻三礼経

    最後に、一巻三礼経いっかんさんれいきょうを紹介します。

    一巻三礼経は、数ある記録の中で、たった1例のみとされています。史料の所在は同じく『看聞御記かんもんぎょき』です。

    1425年(応永32年)8月15日、後崇光院ごすこういん石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうの宝前で、3日間の法楽供養を行いました。この経典が一巻三礼で書写されました。供養にあたっては、『観音経かんのんぎょう』と『般若心経はんにゃしんきょう』それぞれ100巻が宝前に捧げられました(『看聞御記かんもんぎょき』)。

    参考文献:小松茂美著作集9・18

  • 日本に写経(しゃきょう)が伝わる/日本独自の華やかな写経

    日本に写経(しゃきょう)が伝わる/日本独自の華やかな写経

    写経しゃきょうとは、経文きょうもんを書写すること、または書写された経典きょうてんのことをいいます。

    中国大陸から日本に伝わり、日本でも写経が行われるようになりました。

    日本に写経が伝わると、日本独自のとても華やかな装飾を施した作品としての写経が作られるようになります。
    今回は、日本に写経が伝わってから日本独自の華やかな写経がつくられるまでの流れを紹介します。

    中国大陸から日本への写経の伝来

    中国大陸から日本に写経しゃきょうが伝わったのは、仏教ぶっきょうが中国から伝わるのと同時であったと考えられています。

    日本書記にほんしょき』の記事によれば、飛鳥あすか時代の552年(欽明天皇きんめいてんのう13年)、朝鮮・百済くだら聖明王せいめいおうが、怒唎斯致契ぬりしちけいらを使者として、釈迦しゃか金銅仏こんどうぶつ一軀いっく経論きょうろん幡蓋ばんがいけんじたといいます。
    つまり、飛鳥時代の552年に経典きょうてん経文きょうもんがもたらされました
    この記事が、日本に仏教が伝わった最初の記録です。

    やがて、日本でも写経しゃきょうが行われるようになります。日本で写経が行われたことが記録上ではじめて確認できるのは、同じく『日本書記』からです。

    『日本書記』の記事によれば、飛鳥あすか時代の天武天皇てんむてんのう2年(673年)の3月、書生しょせいをあつめて飛鳥あすか(現・奈良県高市郡明日香村川原)の川原寺かわらでらで「一切経いっさいきょう」を書写した、と伝えられています。

    奈良時代は組織的に写経が行われるようになる

    奈良時代の写経は、すべて国家の管理のもとに、国営の事業として行われました。

    写経が専門の写経所しゃきょうじょという役所がありました。

    写経所の写経量産体制

    写経所内には役割分担がありました。役割を分担することで、写経制作の効率を改善しました。

    • 案主あんじゅ…全体総括や事務作業をする人
    • 経師きょうじ…経典を書写する人
    • 題師…題簽だいせんを書く人
    • 校生きょうしょう…文字の誤りを点検する人
    • 装潢そうこう…写経の紙を染めたり、継ぎ合わせたりする人

    写経所で働く人の給与事情

    写経所で働く人の給与は出来高に応じて支払われるシステムでした。

    「正倉院文書」の内容をまとめると、
    経師…1枚で5文(ふつうの経典)、1枚7文(細字のある経典)、1枚10文(金字経)
    題師…1巻で3文、1巻6文(金字経)
    校生…5枚で1文
    装潢そうこう…2枚で1文
    となっています。

    経典を書写する経師きょうじが、ふつうの写経の場合は紙1枚に対して5もんが支給されました。しかし、細字が含まれる場合は、書写がむずかしいため2文が加えられて7文となります。さらに、紫紙しし紺紙こんし金泥きんでいで書写する場合には、ふつうの書写作業よりも手間がかかるので、ふつうの写経の2倍の10文が払われることになっていました。

    したがって、1日7枚書いていた経師は、1日35文の給与をもらっていた計算となります。

    天平宝字6年(762)の年紀のある「正倉院文書」によれば、白米1しょうの値段が7文でした。とすると、経師は1日5升の白米を買えることになります。

    これを今日の貨幣価値に換算してみると、お米1しょう(1.5㎏)は600円ほどです。
    彼らは1日で5升分もらっていたわけですから、
    600円×5升=3000円
    1日3000円ということになります。

    また、本来、経典は正しく書写されなければいけません。1文字の誤字も許されないのです。

    その間違いを防ぐために経師には厳しい罰則が設けられていました。

    例えば、1文字の脱字に対して1文、5文字の写し間違いに対しても1、1行飛ばしてしまうと20文の減額がされました。

    もし1行分飛ばしてしまうと、35文の日給のうちから、20文も引かれてしまうことになります。

    このようなかなり過酷な体制が敷かれて写経事業が推し進められていました。今日、現存する奈良時代の写経は、厳格な書体で、ほとんど1文字の誤字もないのも、こうした事情からと考えられます。

    なぜこのような仕組みができたのか?

    なぜこのような仕組みができたのでしょうか。

    奈良時代の写経は仏教のテキストとしても重要な役割を担っていたからと考えられます。

    この厳しい体制があったからこそ、質と量を兼ね備えた写経が作られました。

    平安時代は華やかな装飾経が盛んになる

    平安時代の装飾経「平家納経」
    平安時代の装飾経「平家納経」

    もともと写経というのは、白い紙に黒い墨で書くのが原則です。

    しかし、写経の中には、紙を美しく染めたり、金色や銀色で文字を書いたり、特別な装飾をほどこした手の込んだものがあります。これを今日では装飾経そうしょくきょうと呼んでいます。

    装飾経は、平安時代のものが多いため、一般的に平安時代のものを指す場合がおおいです。

    装飾経の発生時期は奈良時代

    奈良時代の装飾経「金光明最勝王経」
    奈良時代の装飾経「金光明最勝王経」

    装飾経は平安時代のものが多いですが、装飾経はすでに奈良時代に行われていたと考えられています。

    その証拠に「正倉院宝物」として未使用の色紙がたばのままで残っています。
    その色は、赤・白・黄・茶、青・緑・白・黄・茶という順に繧繝うんげん効果をねらっておよそ100枚が1束に重ねられています。

    実際にこれらを写経料紙として使用したことは、たとえば「正倉院文書」の天平勝宝5年(753)2月の経紙出納帳で確認できます。

    廿四日納色紙弐伯伍拾参張
     深緑十一張 深縹廿張 浅縹廿張 浅緑廿張 
     蘇芳廿張 深紅廿張 浅紅廿二張 白廿張
     浅波自卌張 深苅安廿張 浅苅安廿張 胡桃廿張
     右奉写種々依善光尼師宣観世音経廿一巻判者
               受呉原生人

    正倉院文書

    と書かれています。さまざまな色紙を使って写経が行われていたようです。

    参考文献:小松茂美著作集18

  • 【日本の篆書】日本へ篆書が伝わったきっけけと流行

    【日本の篆書】日本へ篆書が伝わったきっけけと流行

    書体は楷書かいしょ行書ぎょうしょ草書そうしょ隷書れいしょ篆書てんしょの5書体にわけられますが、今回注目する篆書てんしょはもっとも歴史が古い書体です。

    日本に文字が伝わった古墳こふん時代、いまからおよそ1500年前には中国ですでに5つの書体すべてが完成しており、日本において日常的に使われる通行書体として篆書を使う必要はありませんでした。

    では、日常的に使う必要のない篆書がどうして日本にも伝わって使われるようになったのでしょうか。

    今回は日本へ篆書が伝わったきっかけと、篆書が多くの人に広がって書かれるようになったことについて紹介します。

    篆書とは

    篆書てんしょとは、中国において古くしゅうしん時代に使われていた書体で、のちに隷書れいしょが使われるようになり、篆書は特殊なものとして用いられていました。

    たとえば、かん時代以降の石碑せきひ題額だいがく篆額てんがくともよばれて、篆書てんしょで書かれる場合が多いです。碑文ひぶん隷書れいしょで書かれていても、がくの文字だけは篆書で書かれているのです。

    これは、篆書の書風が古典的であり、また造形的であって、題額の書体に適していることから採用されてきたと思われます。

    日本への篆書の伝来

    日本は中国よりも歴史が浅いので、篆書てんしょが使われていた時代の王朝しゅうしんとはかかわりがありません。

    日本において篆書の資料としてもっとも古いのが、「漢委奴国王かんのわのなのこくおう」の金印きんいんです。

    漢委奴国王が書かれている金印
    漢委奴国王が書かれている金印

    これは天明てんめい4年(1784)2月、福岡県の志賀島しかのしま石槨せっかくひつぎを納める石造りの容器)の下から発見されました。

    しかしこれは中国で作られたとみられる資料であって、日本の古代にこのような文字が使われていたという証拠にはなりません。

    日本ではじめて篆書の書体が使われていたことがわかるのは奈良なら時代です。

    正倉院しょうそういん宝物の「鳥毛篆書屏風とりげてんしょのびょうぶ」一じょうせんがそれです。

    鳥毛篆書屏風
    鳥毛篆書屏風

    この屏風は、天平勝宝てんぴょうしょうほう8歳(756)6月21日に、聖武しょうむ天皇の宝物のかずかずを東大寺に奉納されたなかの「御屏風一百畳」の1つで、「東大寺献物帳」の1つ「国家珍宝帳」に記載されているものです。今日、幸いにも正倉院北倉に楷書の「鳥毛帖成文書屏風とりげせいぶんしょのびょうぶ」一畳六扇とともに現存しています。

    日本で篆書の流行しはじめたのは江戸時代から

    日本で篆書がおおくの人々に書かれるようになるのは、江戸えど時代に入って中国の黄檗宗おうばくしゅう禅僧ぜんそうが日本にやってきたころからです。

    独立(どうりゅう)・心越(しんえつ)の来日

    1653年(承応2)、江戸時代の初期ごろ、独立どくりゅうという中国の禅僧が来日しました。

    彼は書道がうまく、また篆刻にもくわしく、その技法を初めて日本に伝えました。彼の筆跡は草書が多いですが、篆書のものもみられます。

    独立どくりゅうから20数年おくれて、1677年(延宝5)、心越しんえつが来日しました。

    彼は来日する際、中国のめずらしい印譜や篆書の辞典を携えてきて、日本の篆刻界に貢献しました。

    この2人は日本の篆刻の創始者として知られています。

    日本にも篆書を得意とする書道家が登場

    独立どくりゅう心越しんえつが篆刻の技法を伝えてから、江戸において篆刻てんこくが流行するとともに、篆刻をたしなむ人々の間には、篆書を研究し、あわせて篆書を巧みに書く人があらわれました。

    この時代における中国風の書道家としてもっとも有名な人物として細井広沢ほそいこうたくという人がいるのですが、かれも篆刻をよくし、篆書も書いています。
    さらに細井広沢ほそいこうたくの弟子である三井親和みついしんなも篆書・隷書がうまく、たまたま江戸では篆隷雑体が流行していたこともあり、彼の書いた文字を染めた染物が、「親和染しんなぞめ」と呼ばれて世間でもてはやされました。

    幕末の有名な書道家として、市河米庵いちかわべいあんがいます。彼は5書体とも正しい点画の文字を書き、天下の模範となった人物です。篆書では市河家蔵の「漁父辞」などが代表例です。

    明治時代は北碑派の書風が流行する

    明治めいじ時代に入ると、中国しんの学者楊守敬ようしゅけいが日本へ来日し、その影響によって日本にも北碑派ほくひはの書風が流行しました。

    その後には次々と日本の文人篆書家が中国しんにわたり、新しい北碑派の書風を書くようになりました。

    中林梧竹なかばやしごちく北方心泉きたがたしんせんなどがその例です。

    また前田黙鳳の「印文学」とか、高田忠周の「朝陽閣字鑑」(明治34年、1901)、「漢字詳解」(大正元年、1912)、「古籒篇」(大正15年、1925)、服部耕石の「篆刻字林」(昭和2年、1927)などが出版され、中国の書籍ともあわせて、篆書の書体がよく整理されました。

    篆書は珍しい古代文字てあることと、その造形的な点に特色があるので、現代になってからも書道家にくみ取られて、書道の作品にもよく使われています。また、篆刻で使う書体のため、作品に押す印の書体として残っています。

    参考文献:田中勇次郎著作集第五巻

  • 【書道の基本】三折法(三過折)とは?楷書体が生まれたことによって完成した書道の表現

    【書道の基本】三折法(三過折)とは?楷書体が生まれたことによって完成した書道の表現

    歴史的に書体がうまれた順番ですが、多くのひとは、楷書をくずしたものが行書、行書をくずしたものが草書と考えるのではないでしょうか。

    しかし、厳密にいうと実際の発生した順序は、草書→行書→楷書となります。

    「楷書が完成する前に、くずし字であるはずの行書が先に書かれていたとはどういうこと?」と思いますよね。

    現在は、本来の草→行→楷の順番が入れ替わって、楷→行→草となり、楷書をくずしたものが行書、行書をくずしたものが草書、という文字の構造になっています。

    どうして順番が入れ替わって、「楷書をくずしたものが行書」という構造になったのでしょうか。

    それは、時代が進むとともに書体が変化していく過程でうまれた三折法さんせつほう(トンー・スー・トン)という筆づかいが関係しています。
    今回は、そんな不思議な書体の関係性についてふれながら、書道の基本的筆づかい「三折法さんせつほう」について紹介します。

    行書・草書はもともと隷書をはやく書くために生まれた

    一般に、行書・草書は楷書をはやく書くために作り出された書体と思われがちですが、厳密には違います。

    行書・草書はもともと隷書れいしょをはやく書くために簡略化した書体として生まれました。

    漢字は、基本的に篆書・隷書・楷書・行書・草書の5つに分けられるのですが、その中の篆書・隷書・楷書が正式な場で使われる正式書体とされ、行書・草書は手紙や下書きなどに使う補助的な書体として扱われてきました。

    紀元前3世紀ごろに篆書が発生し、それから約200年をへて紀元前1世紀に篆書を早く書くために隷書が発生しました。そして楷書は、それから約400年遅れた4~5世紀に発生しました。

    行書・草書は、隷書をはやく書くため、隷書をはやく書くための行書・草書を硬直化させた楷書が発生してからは楷書をはやく書くために使われました。つまり、隷書を簡略化したもの、楷書を簡略化したものの2種類があるということです。

    書道の表現“三折法”が生まれる/三折法とは?

    楷書の展開 ~三折法の確立~
    楷書の展開 ~三折法の確立~

    書道の表現には、「起筆、送筆、終筆、転折(横画から縦画への折れ)、はね、はらい」があります。
    「起筆、送筆、終筆」はいわゆる「トン・スー・トン」であり、これを三折法さんせつほう三過折さんかせつ)といいます。

    また今回だけ、起筆も終筆もなく、「スー」と縦線や横線を引くだけの書き方を「一折法いっせつほう」、「スー」と入って終筆で「グー」と止めたり、起筆で「トン」と入って「スー」と引く点画の書き方を「二折法にせつほう」と呼ぶことにします。

    “一折法”“二折法”の文字

    王羲之の「姨母帖」
    王羲之の「姨母帖」

    私たちが普段使うボールペンやえんぴつなどの硬筆は、「三折法」ではなく、「スー」と引くだけだったり、「スー」と入れて「グー」と止めるか、「トン」と入れて「スー」と引く「二折法」で表現されます。

    また、楷書が完成するまえの、隷書れいしょを早く書くためにうまれた竹簡ちっかん木簡もっかん、王羲之の「姨母帖いぼじょう」なども、転折部分で筆を置きなおすことなく、転折のない「二折法」で書かれています。

    三折法は自然な表現ではなく、技術を必要とする表現

    習字教室では、「三折法」を教えられます。この「三折法」にしたがって書くというのがなかなか難しいものです。

    初心者の方が苦労するポイントは、三折法の根幹である「起筆、終筆」です。それに加えて「転折、はね、はらい」です。これらの部分は初心者に限らず、長年書道を続けている方でも気をつかうポイントです。

    これらをうまく書けたときの快感と魅力のとりこになった人が習字を好きになり、逆にうまく克服できなかった人が習字嫌いになることが多いように思います。

    つまり、一般的に三折法さんせつほうの書き方は、もともと毛筆に備わった性質か、または文字を書く規範と考えていますが、これは自然にできるものではなく、文字を書くという歴史が進むにつれてできあがってきた技術を必要とする表現です。

    三折法が生まれたきっかけ

    三折法さんせつほうは自然な書き方とはいえず、表現的なもの、と紹介しました。

    では、どうして不自然な三折法さんせつほうが生まれたのでしょうか。

    いま、仮にお墓の石に文字をるとします。そのとき、行書や草書の文字を刻るのはむずかしいと考えるでしょう。

    それは「一般的に石に刻る書体は楷書体や隷書体」という文化的な理由だけではなく、行・草書体はもともと墨を使って紙に書くのに適した書体だからです。

    草書体は、当時もともと正式書体として使われていた隷書体れいしょたいを早く書くために生まれました。後世にまで残る石の文字を、早書きのための書体は使いませんよね。

    草書体がそのまま石に残されるほど正式書体の位置を獲得するためには、草書体の姿を変える必要がありました。つまり、草書→行書→楷書への硬直化です。

    三折法は、楷書体成立の過程で生まれました

    一般に唐時代が楷書が完成した時代と言われています。それ以前の楷書は、よくみてみると現在の楷書では考えられないほど行書風に書かれていることが目撃されます。

    石碑に刻るための楷書が、毛筆でも表現されるようになる

    隷書をはやく書くために発生した草書が、草書→行書→楷書へと硬直化をはたし、楷書が完成しました。

    欧陽詢の「九成宮醴泉銘」

    中国のとう時代といえば、楷書が完成した時代として有名です。
    632年の欧陽詢おうようじゅんの「九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめい」が代表的です。

    九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめいは、欧陽詢おうようじゅんのそのままの文字といういうよりも、石をるために生み出された鋭利えいりな三角形の「起筆・終筆、転折、はね、はらい」が表現されています。

    一方で、同じく唐時代、「九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめい」より少し後につくられた、653年の褚遂良ちょすいりょうの「雁塔聖教序がんとうしょうぎょうじょ」をみてください。

    褚遂良の「雁塔聖教序」

    雁塔聖教序がんとうしょうぎょうじょは、鋭利えいりな三角形の刻り方をしておらず、紙に書かれたそのままの字を再現しようとしています。毛筆で書かれたようなおだやかな三折法さんせつほうが表現されています。

    石をるときにけられない鋭利えいりな三角形の書風が、毛筆の手書きに吸収されて、毛筆によって表現できるくらいおだやかな表現にまで変化しました。紙に書く三折法さんせつほうが、石にられた書風にとらわれることがなくなりました。

    楷書のくずしが行書・草書となる

    宋時代の書家、米芾の「蜀素帖」
    宋時代の書家、米芾の「蜀素帖」

    草書が誕生したきっかけは、楷書の速書きではなく、隷書れいしょの速書きとして生まれました。

    しかし、唐時代に楷書体、つまり「三折法」が完成したあとは、楷書体成立の過程で獲得した「三折法」が、逆に草書体の中に組み込まれ、従来とはちがった草書体を作り上げました。

    もともと二折法を基盤にしてえがき出されていた草書は、三折法が加えられたことによって楷書とおなじ構造のものなったのです。

    「草書体は楷書体のくずしである」という関係構造が成立し、楷書・行書・草書を1セットとする考え方が完成しました。

    東晋とうしん時代の王羲之おうぎしの草書や行書には楷書(三折法)の姿はみられませんが、とう時代以降、特にそう時代の蘇軾そしょく黄庭堅こうていけん米芾べいふつの行書や草書は、その奥に楷書(三折法)の姿を埋め込んでいます。
    ※唐時代以前の行・草書でも、楷書完成へ向けて「三折法」がみられる筆跡はあります。

    宋時代の草書は最先端の三折法

    そう時代は行書・草書が盛んだった時代です。

    しかし同じ草書体でありながら、そう時代の黄庭堅こうていけんの「李太白憶旧遊詩巻りたいはくおくきゅうゆうしかん」を例にみてみると、それより以前の王羲之おうぎしの草書「喪乱帖そうらんじょう」、とうの第2代皇帝・太宗たいそうの「晋祠銘しんしめい」、懐素かいそ狂草きょうそう自叙帖じじょじょう」とまったく違った雰囲気があります。

    その秘密は、起筆・送筆・終筆(トン・スー・トン)をさらに細かく分けて、「起起・起送・起終・送起・送送・送終・終起・終送・終終」の9個の部分パーツにわけて書かれている点にあります。

    黄庭堅の草書を分析してみよう

    李太白憶旧遊詩巻

    李太白憶旧遊詩巻りたいはくおくきゅうゆうしかん」の中の「ろう」という字に注目してみてください。

    李太白憶旧遊詩巻の「

    この2画目の長い縦画が揺れるように書かれているところに「李太白憶旧遊詩巻」が、これまでの草書「喪乱帖そうらんじょう」や「自叙帖じじょじょう」とは違った雰囲気が表現される秘密があります。

    「樓」という字の2画目を臨書する際、初心者の方はおそらく平面的なゆれの形ととらえ、まねようとしますが、この揺れを点画の平面的な揺れととらえている限りは、この縦画の表現方法を読み解き、再現することはできません。

    この「樓」という字の2画目には、先ほど紹介した9個の部分パーツにわけて考えると、以下のように分析することができます。

    1. 1番うえの最初の小さな点は、1画目の勢いが終わる終筆としての点であり、同時に2画目の起筆の起筆部分です。
    2. 小さな点のあと、すぐにいったん細くなりやや太く長くつづく部分は、起筆の送筆部分
    3. 次に細くなる部分は、起筆の終筆部分であると同時に、送筆への入筆部分
    4. やや右下へくねり、1画目と交わり太くなる部分は、送筆の起筆部分
    5. 垂直方向にむかってかすれている部分は送筆の送筆部分
    6. さらにやや左下へ向かう部分は、送筆の終筆から終筆の起筆を準備するすがた。
    7. 最後に若干右下に向きはじめた前半部分が終筆の起筆部分から終筆の送筆部分
    8. 右下へ抜けていくところが終筆の終筆部分

    「樓」の2画目から読みとれるように、この揺れは、三折法さんせつほう(トン・スー・トン)の延長線上に黄庭堅こうていけんが新たに生み出した九折法きゅうせつほうで書かれているのです。つまり三折法を完璧にのみこんだ最先端の草書が「李太白憶旧遊詩巻」なのです。

    まとめ

    もともと毛筆もペンも鉛筆も、筆記用具であるかぎり、一折法いっせつほう(スー)または二折法にせつほう(トン・スー)による書き方がもっとも自然で適しています。

    そこから、石に文字をることで、三角形の起筆・終筆が生まれます。この三角形の起筆・終筆が、毛筆の筆づかいで表現されるようになったことで三折法さんせつほう(トン・スー・トン)が生まれ、毛筆は筆記用具であることを超えて表現用具となりました。

    同時に、紙は表記するための場所から、石に刻された文字を表現するようになったことで、表現するための場所になりました。

    文字を書きつけるということが、文字を書きつける以上の表現をふくむ書道の文化は、とう時代の初期に行われ始め、そう時代に完成しました。この過程の中で、三折法を基盤とする楷書体が、行書体、草書体の正式書体とする構造も生まれました。

    参考文献:「書道はどういう芸術か」石川九楊

  • 隷書とは?書き方のコツ・特徴・歴史を書道講師が解説【古隷から八分隷まで】

    隷書とは?書き方のコツ・特徴・歴史を書道講師が解説【古隷から八分隷まで】

    隷書(れいしょ)とは、篆書を早書きするために生まれた書体です。古代中国で生まれ、漢時代に完成し、いまも日本のお札の「日本銀行券」の文字や印章、年賀状の宛名などに使われています。普段から目にしているのに書体名を問われると意外と答えられない、それくらい私たちの生活にとけ込んでいる書体です。

    この記事では、書道講師の視点から、隷書の特徴・書き方のコツ・歴史・代表的な漢碑3つまで、初めての方にもわかるようにまとめました。臨書を始めたい方の参考になればうれしいです。

    隷書とは?一言で言うと「篆書を早書きして生まれた実用書体」

    隷書とは、紀元前300年ごろの中国で、篆書(てんしょ)をすばやく書くために生まれた実用的な書体です。篆書のうねうねと曲がりくねる線を、まっすぐな横画と縦画に分けて書くことで、誰でも速く正確に書けるようになりました。漢時代に完成し、当時の役所の文書や石碑にひろく使われた、いわば「古代中国の公用書体」です。

    書道の書体は大きく分けて5つ、楷書(かいしょ)行書(ぎょうしょ)草書(そうしょ)・隷書(れいしょ)・篆書(てんしょ)あり、これを「五書体」と呼びます。隷書は、もっとも古い篆書のすぐ後に生まれた書体で、楷書・行書・草書のいわば「ご先祖さま」にあたります。

    意外かもしれませんが、隷書は今も日本の暮らしの中にしっかり残っています。神社のお守りや御朱印、書道作品の落款印(らっかんいん)、年賀状の宛名、ラーメン屋さんの看板まで。読みやすくて格調高く、それでいて親しみやすい、隷書はそんな絶妙な立ち位置の書体なのです。

    隷書の展開 ‐書道史上の隷書の位置‐
    隷書の展開 ‐書道史上の隷書の位置‐

    隷書の3つの特徴

    隷書には、ほかの書体とくらべてはっきりとわかる3つの特徴があります。「波磔(はたく)」「扁平な字形」「方折(ほうせつ)」です。この3つを押さえると、街なかで見かけた書体が隷書かどうかをすぐに見分けられます。

    特徴1 波磔(はたく):右払いの独特な筆使い

    隷書のもっとも特徴的な要素が波磔(はたく)です。波磔とは、長い横画や右払いの終わりで、筆を上にぐっと跳ね返すように上げる筆使いのこと。文字に波打つようなリズムが生まれ、優雅さと力強さの両方を表現できます。「一」という単純な横画でも、隷書では始まりで筆をぐっと押さえ、まんなかをまっすぐ進み、最後にすっと筆を上げます。波磔のない楷書や行書とは、ぱっと見て区別がつきます。

    特徴2 扁平な字形:横長で「八」の字に開く

    隷書のもうひとつの特徴は、扁平(へんぺい)な字形です。楷書が縦長気味の正方形なのに対して、隷書は横長で、上下方向につぶれたような形をしています。左払いと右払いが、まるで漢字の「八」の字のように左右に大きく開き、堂々とした安定感を生み出しています。漢時代の石碑では文字どうしの並びも美しく整えられ、見る人に重厚さと神聖さを感じさせます。

    特徴3 方折:角張った筆づかい

    隷書の3つめの特徴は、方折(ほうせつ)と呼ばれる角張った筆づかいです。元になった篆書は「円転(えんてん)」という曲線中心の書体ですが、それを早書きするために線を直線的に分けたところ、角が立った方折が生まれました。篆書の線は点・直筆・曲線の3種類しかありませんが、隷書では少なくとも点・横画・縦画・左はらい・右はらい・湾曲など6種類以上に増え、表現の幅がぐっと広がっています。

    隷書の特徴については、古来から伝わる書論(しょろん)があります。中国西晋時代の書家、衛恒(えいこう/?〜291)は『四体書勢』「隷勢」の中で、隷書のかたちを次のように形容しています。
    「あるものは弓なりに曲がり、大きく広々としている。あるものは櫛(くし)の歯のように並び、針のように列(つら)なっている。あるものは砥石(といし)のように平らかであり、墨縄(すみなわ)のようにまっすぐである」

    1700年以上も前の書家が隷書をこうも豊かに描写していることに、書道講師としていつも驚かされます。衛恒は技法にも言及し、「長い線と短い線とがたがいに調和し、筆意(ひつい)は途切れることがない」とその筆勢のつながりを評し、字形の安定については「高殿(たかどの)が軒(のき)を重ね、分厚い雲が山を戴(いただ)いているようだ」とも述べています。

    隷書の書き方のコツ

    ここからは、隷書を書くときに意識したい4つのコツを紹介します。蔵鋒・中鋒・蚕頭燕尾・扁平な字形のバランス。この順番で意識するだけで、隷書らしい線と字形がぐっと出やすくなります。書道講師として教室で指導するときも、この順番でお伝えしています。

    蔵鋒で書き始める

    蔵鋒(ぞうほう)とは、筆の先(鋒)を線の中に隠すように書き始める技法です。線の始まりで筆をいったん逆方向に押し返してから書き始めると、線の先端がとがらず、ふっくらとした隷書らしい起筆になります。横画なら、まず筆を左にちょこんと押し戻してから右に進め、最後も筆を上または左にいったん戻してから止めます。この「戻す」動きが、隷書らしい重厚感のある線をつくる第一歩です。

    中鋒を意識して線の中心を通す

    中鋒(ちゅうほう)とは、筆の穂先がつねに線の真ん中を通るように書く技法です。筆を立てぎみに持ち、紙にしっかり穂先をおろすと、線の両側に均等に墨が広がり、ふっくらと安定した線になります。隷書では線の太さが均一になるよう、最初から最後まで中鋒を保つのがポイントです。書道の基本動作については三折法(さんせっぽう)の解説記事もぜひ参考にしてください。

    波磔は「蚕頭燕尾」を意識する

    隷書の象徴ともいえる波磔(はたく)を美しく書くコツは、「蚕頭燕尾(さんとうえんび)」を意識することです。横画の起筆を「蚕(かいこ)の頭」のようにふっくらと丸く、終筆を「燕(つばめ)の尾」のように軽やかに跳ね上げるという意味です。

    具体的には、起筆で筆をぐっと押さえて蚕の頭をつくり、まんなかを平らかに進め、終わりに近づいたらいったん筆を下に押し下げてから、すっと右上に跳ね上げます。この最後の「跳ね」が燕の尾です。一気にやると線がとがってしまうので、ゆっくり、じっくりがコツです。

    波磔を書くときは筆の弾力もとても大事で、穂先がしっかりまとまり跳ね返すときに反発してくれる筆を選ぶと、ぐっと書きやすくなります。隷書に向く筆の選び方は書道筆のおすすめランキングでくわしく紹介しています。

    扁平な字形のバランスの取り方

    隷書らしい横長の字形をつくるコツは、「縦は短く、横は長く」を最初から意識することです。楷書の感覚で書くとつい縦に伸びてしまうので、ぺたっと横に広げるくらいでちょうどよくなります。左右のはらいは、漢字の「八」の字のように思いきって大きく開きます。慣れないうちは、半紙に薄く格子の補助線を引いて縦横の比率を3:4くらいに意識するとつかみやすく、教室でも最初の1〜2回はこの補助線を使う生徒さんが多いですね。

    通学の教室を探す前に、まずはオンラインで隷書に触れてみたい方は、SHODO FAMのオンライン書道教室もご検討ください。SHODO FAMでは、コースごとに専門の講師が担当しています。隷書を本格的に学びたい方も、自分のペースで安心して始められます。

    隷書の歴史を時代順に紹介

    隷書は紀元前300年ごろの中国で生まれて以来、2000年以上の歴史を持つ書体です。出現してから漢時代に完成し、いったん衰退しても、清時代にふたたび復興する、まさに不死鳥のような書体です。その変遷を時代順にたどっていきます。

    紀元前300年ごろ:隷書(古隷)が出現する

    秦時代の隷書(古隷):雲夢睡虎地秦簡
    秦時代の隷書(古隷):雲夢睡虎地秦簡

    戦国時代がおわり、秦が統一国家となると、秦時代に日常的に使われていた隷書が前漢時代に一般化し、準公用的な書体となっていきました。このころの隷書を「古隷これい」といいます。古隷にはまだ篆書のおもむきが残っていて、「横画は水平・縦画は垂直」といったきまりや波磔(右払い)はまだありません。いわば篆書から隷書への過渡期の姿です。

    戦国時代後期から前漢時代初期にかけて、地方役人の公文書・私信・書籍といったものには、すべて実用的に古隷が使われていました。雲夢睡虎地秦簡(うんぼうすいこちしんかん)は、その代表的な出土資料です。

    漢隷ー簡牘と碑刻

    古隷に残っていた篆書的要素は漢時代に入ると次第に消えていき、およそ前漢中期には「漢隷かんれい」、別名「八分はっぷん」と呼ばれる書体が成立しました。漢隷こそ、現代の私たちが「隷書」と聞いてまず思い浮かべる、あの完成された姿です。水平な横画と垂直な縦画、左右のはらいが「八」の字のように開く扁平な字形、角張った筆づかい、そしてなんといっても波磔がある隷書です。

    漢隷と一口にいっても多種多彩で、線に丸みのあるものもあれば角張ったものもあり、概形が正方形に近いものもあれば扁平なものもあります。書き手の多くは官署に努める書吏(しょり)、すなわち文書を扱う役人で、地位は決して高くなく、碑文に書名する習慣もなかったため、かれらの名前を知るすべはありません。今日に伝わる名品の多くは、こうした名もなき書家たちの作品なのです。

    漢時代の簡牘の隷書

    漢時代の簡牘の隷書:武威磨嘴子漢簡
    漢時代の簡牘の隷書:武威磨嘴子漢簡

    漢時代には書写材料として、竹や木の簡牘かんとく布帛ふはく・紙が使われていました。簡牘とは、文字を書くための細長い竹や木の札で、紙が普及する前の主要な記録媒体です。漢時代にはまだ高い机と椅子はなく、座る姿勢は跪坐(きざ)、つまり正座に近い座り方でした。簡牘に書くときは左手に簡を持ち、右手は単鉤法(たんこうほう)という握り方で筆をななめに持ちます。今日の私たちがペンで書く姿勢と似ています。

    漢時代の毛筆は、筆頭が小さく尖(とが)っていて弾力に富み、幅約1センチの簡牘に小さな文字を書いたので、細字に特化した筆でした。武威磨嘴子漢簡(ぶいまさいしかんかん)など、出土した簡牘の墨跡には、石碑の隷書では及びもつかない躍動感のある筆勢と独特の味わいがはっきりと見られます。

    漢時代の石碑の隷書

    漢時代の隷書:乙瑛碑
    漢時代の隷書:乙瑛碑

    今日に伝わる漢時代の碑に刻された隷書(漢隷)は、その大部分が後漢時代(25~220)に作られたものです。一般的に隷書の特徴として挙げられる字形の扁平さと波磔が強調された隷書は、まさにこの時代から来ています。

    後漢時代中期には盛んに碑が建てられました。王侯や大臣が聖地を訪れた記念に建てる碑、地方長官が功績をたたえられる碑、孝行を重んじる風習から親のために立派な墓を建てる碑など、さまざまな目的で石碑制作が行われた結果として技術が高まり、頌徳碑(しょうとくひ)として「乙瑛碑」「曹全碑」などの隷書の名品が制作されました。後漢時代に名もなき書吏たちが残したこの遺産が、現代の私たちの臨書のお手本となっているのです。

    東晋時代の「変型」隷書

    東晋時代の隷書:爨宝子碑
    東晋時代の隷書:爨宝子碑

    東晋時代(300年ごろ)になると、隷書にとってかわって楷書が正式書体となり、隷書の時代はいったん終わりを迎えます。とはいえ公的な碑を建てる際には、漢・魏・西晋時代の伝統を踏襲し、前と変わらず隷書が採用されました。東晋をはじめとした南朝の人々は、碑刻に使う書体としての隷書を「銘石書(めいせきしょ)」と呼びました。

    東晋時代の隷書は、石のブロックを積み上げたような太い四角形の横画と縦画が特徴で、時代が下るにつれて法直化の一途をたどります。これは意図的な変化ではなく、日常的に使われなくなった漢隷を十分に習熟しないまま隷書の特徴を表現しようと書いた結果、爨宝子碑(さんぽうしひ)に見られるような奇怪な隷書になったと考えられています。書道史上は「変型隷書」と呼ばれ、独特の魅力を放つジャンルとして今も愛好家がいます。

    唐時代の隷書は手本に使われる

    唐時代の隷書:玄宗「石台孝経」
    唐時代の隷書:玄宗「石台孝経」

    唐時代の隷書(唐隷)は、漢隷をより力強く豊満にしたものが多く制作され、後世でも高く評価されています。唐時代は書道の黄金期ともいわれ、隷書もこの時代にもう一度光を浴びました。唐時代前期の皇帝たちはみな書道を愛好し、なかでも第6代皇帝・玄宗(げんそう)は好んで隷書を書きました。玄宗の書いた隷書「石台孝経(せきだいこうきょう)」もおおらかな字形と豊満な線が特徴的です。

    玄宗の即位後、隷書を得意とする書道家が多く登場しました。徐浩(じょこう)、韓択木(かんたくぼく)、梁昇卿(りょうしょうけい)、史惟則(しいそく)、蔡有鄰(さいゆうりん)、李潮(りちょう)らが有名です。後世の人々にとって漢時代の隷書を直接目にすることは難しかったため、唐隷が学ぶための手本とされることも多かったのです。

    宋・元・明時代の隷書

    米芾(宋時代)、趙孟頫(元)、文徴明(明)の隷書
    米芾(宋時代)、趙孟頫(元)、文徴明(明)の隷書

    晋時代以降、書道家たちは漢隷を正統としてきました。しかし一般の書道家たちにとって、漢隷の拓本は容易に目にできないものでした。漢隷はあくまで理想であって、実際は唐隷によって隷書を学ぶほかなかったのです。それは猫を見て虎を描くようなものでした。

    そのため宋・元・明時代の隷書は、書道史上あまり取り上げられることがありません。有名な書道家である米芾(べいふつ/宋時代)、趙孟頫(ちょうもうふ/元)、文徴明(ぶんちょうめい/明)の隷書を見ると、線がぶよぶよと太かったり、楷書の筆づかいが混ざっていたりします。字形は往々にして縦長で整っていません。漢隷の重厚感や古朴(こぼく)なおもむきが欠けているのです。これは書家の腕が劣っていたわけではなく、お手本となる本物の漢隷を見る機会がなかった、という時代の制約が大きな理由でした。

    清時代に隷書がふたたび復興する

    清時代の隷書作品:鄧石如「四体帖」
    清時代の隷書作品:鄧石如「四体帖」

    清時代になると、金石学(きんせきがく)・考証学(こうしょうがく)が盛んになります。学者たちは漢時代に建てられた碑を求めてあちこちを訪ねまわり、拓本をとっては互いに贈り合いました。こうしてようやく直接漢隷を学ぶことが可能になったのです。とはいえ当時すでに碑面の傷みのために文字の点画が不明瞭で、筆法を理解することは難しいものがほとんどで、清時代初期の書道家たちは時間をかけて書く経験を積みながら筆づかいを探求していきました。

    それから100年後の乾隆(けんりゅう)・嘉慶(かけい)期になると、先輩書道家たちの経験と教訓を汲んで、ついに隷書の復興期をむかえました。鄧石如(とうせきじょ)の「四体帖」のような名作が次々に生まれ、扁額・対聯(ついれん)・条幅・中堂(広間の中央に掛ける大字の作品)などが大字の隷書で書かれ、多彩なスタイルが花開きました。

    清時代の隷書は線が質朴かつ重厚で、字形は整った中にも新味や奔放(ほんぽう)さがあります。趙之謙(ちょうしけん)呉昌碩(ごしょうせき)といった清末の巨匠たちも、漢隷を深く学んだうえで独自の表現を切り開きました。今、私たちが教室で隷書を学べるのも、清時代の書家たちが命がけで掘り起こしてくれた漢隷の遺産があってこそ、なのです。

    隷書の代表的な漢碑3選

    隷書の臨書を始めるなら、まず手本にしたいのが後漢時代に建てられた3つの碑、乙瑛碑(いつえいひ)・礼器碑(れいきひ)・曹全碑(そうぜんひ)です。どれも漢隷の最高峰で、書道教室や教科書にもよく登場します。3つの作風の違いを比較表にまとめました。

    碑名建立年作風初学者向け度
    乙瑛碑(いつえいひ)153年(後漢)整斉端正、おだやかでバランスのよい正統派★★★
    礼器碑(れいきひ)156年(後漢)線が細く繊細、波磔は鋭く、やや上級者向け★★
    曹全碑(そうぜんひ)185年(後漢)線がやわらかく流麗、女性的で美しい★★★

    「隷書の臨書を始めたい、でもどれから手をつけたらいいかわからない」という方には、書道講師の経験から乙瑛碑か曹全碑をおすすめしています。乙瑛碑は字形がもっとも整っていて隷書の基本を学ぶのにぴったり。曹全碑は線がやわらかく流麗で、書いていて楽しいので続けやすいのが魅力です。礼器碑は線が細くコントロールが難しいので、ある程度書き慣れてから挑戦するのがおすすめです。さらに学びを深めたい方は張遷碑(ちょうせんひ)のような剛健な作風の碑にも挑戦してみてください。

    隷書と他の書体との関係

    隷書は、五書体(楷書・行書・草書・隷書・篆書)の中で「橋渡し」のような位置にいる書体です。古い篆書から生まれ、楷書・行書・草書のいわばご先祖さまにあたります。それぞれの書体との関係を表で整理してみましょう。

    書体成立時期特徴隷書との関係
    篆書(てんしょ)紀元前1000年ごろ〜うねうねとした曲線、円転、左右対称隷書のもとになった書体
    隷書(れいしょ)紀元前300年ごろ〜水平な横画、波磔、扁平な字形、方折篆書を早書きするために誕生
    楷書(かいしょ)後漢末〜三国時代1画ずつきっちり書く、現代の標準書体隷書から発展して完成
    行書(ぎょうしょ)後漢〜三国時代楷書をくずした半流麗な書体楷書経由で隷書の影響を受ける
    草書(そうしょ)前漢時代〜線を大胆にくずした流麗な書体隷書をくずすところから発生

    こうして比べてみると、隷書がいかに重要な「中継点」だったかがよくわかります。五書体は隷書を中心に枝分かれしているので、隷書を学ぶことは書道全体を理解する近道でもあります。

    隷書についてよくある質問

    Q1. 隷書と八分隷は何が違いますか?

    A. 隷書は篆書から生まれた書体全体の名前で、八分隷はそのうち漢時代に完成した「波磔のある成熟した隷書」を指します。古隷(波磔がない初期の隷書)と区別する意味で、漢隷を「八分」や「八分隷」と呼びます。

    Q2. 隷書はどの書体から生まれましたか?

    A. 隷書は篆書(てんしょ)から生まれました。紀元前300年ごろの中国で、うねうねと曲がりくねる篆書の線を、まっすぐな横画と縦画に分けて早書きするために考案されたのが隷書のはじまりです。漢時代に完成し、楷書・行書・草書のもとにもなりました。

    Q3. 隷書の臨書に最初におすすめの古典は何ですか?

    A. 後漢時代の乙瑛碑(153年)か曹全碑(185年)がおすすめです。乙瑛碑は字形が整っていて隷書の基本を学ぶのにぴったり。曹全碑は線がやわらかく流麗で続けやすいのが魅力です。

    Q4. 隷書の波磔はどうやって書けばきれいに見えますか?

    A. 波磔(はたく)をきれいに書くコツは「蚕頭燕尾」を意識することです。起筆を蚕の頭のように丸く押さえ、まんなかをまっすぐ進め、終筆でいったん筆を下に押し下げてからすっと右上に跳ね上げます。ゆっくり、じっくり書くのがポイントです。

    Q5. 隷書は現代のどこで使われていますか?

    A. 日本のお札の「日本銀行券」の文字、神社の御朱印、書道作品の落款印、年賀状の宛名、ラーメン屋さんの看板など、さまざまな場面で使われています。読みやすく格調高いのに親しみやすい、絶妙なバランスが愛されている書体です。

    まとめ

    • 古隷(これい)は、篆書から隷書へ移行する過渡期の書体。波磔(右はらい)がまだない。雲夢睡虎地秦簡などが代表例。
    • 漢隷(かんれい)、別名八分(はっぷん)は、漢時代からの完成された隷書で、波磔がある。乙瑛碑・礼器碑・曹全碑などの名品が残されている。
    • 東晋時代に正式書体が隷書から楷書へと変わり、隷書を学ぶ人が減って書体がくずれていった。
    • 唐時代に玄宗をはじめ積極的に隷書を学ぶ人が現れ、漢隷のような整った隷書が復活した。
    • 宋・元・明時代は漢隷の本物を見られる機会が少なく、隷書の勢いはいったん衰えた。
    • 清時代に金石学・考証学が盛んになり、鄧石如・趙之謙・呉昌碩といった巨匠たちが隷書をふたたび花開かせた。
    • 隷書の3つの特徴は波磔・扁平な字形・方折。書くときは蔵鋒・中鋒・蚕頭燕尾を意識すると、ぐっと隷書らしくなる。

    隷書は2000年以上前に生まれた書体でありながら、いまも日本の暮らしの中にしっかりと残っています。実際に筆で書いてみると、ふっくらとした起筆、まっすぐな線、最後にすっと跳ね上がる波磔の心地よさに、きっとおどろくと思います。隷書の堂々とした字形は意外と書きやすく、書道の経験がない方にもおすすめできる書体です。

    「いきなり通学の教室はハードルが高いな」と感じる方は、まずはSHODO FAMのオンライン書道教室で隷書に触れてみるところから始めてみませんか。SHODO FAMでは、コースごとに専門の講師が担当しています。隷書を本格的に学びたい方には隷書に精通した講師が、それぞれの「学びたい」を丁寧にサポートします。書道筆の選び方に迷ったら書道筆のおすすめランキングもぜひ参考にしてみてください。

  • 董其昌の行書作品:菩薩蔵経後序を紹介・釈門

    董其昌の行書作品:菩薩蔵経後序を紹介・釈門

    菩薩蔵経後序(ぼさつぞうきょうこうじょ)について

    菩薩蔵経後序ぼさつぞうきょうこうじょは、明代の書家、董其昌の代表作品の1つです。

    本福12幅、紙本、26.8×12.5㎝。台北故宮博物院蔵。

    書写年代は、戊午(1618)5月8日の落記があります。董其昌が64歳の時の作品です。

    臨書に使える菩薩蔵経後序の画像

    董其昌:菩薩蔵経後序① ※クリック/タップで拡大

    菩薩藏經後序。
    蓋聞羲皇至頤。精粹止於龜文。軒后幽通。雅奧
    窮於鳥篆。考丹書而索隱。殊昧真際之源。徵淥字以研幾。蓋非

    董其昌:菩薩蔵経後序②

    常樂之道。猶且事光圖史。振薰風於八埏。德洽生靈。激澆波於萬代。
    伏惟陛下。轉輪垂拱。而化漸雞園。勝殿凝旒。而神

    交鷲嶺。總調御於徽號。匪文思之所窺。極般若於輪言。豈象
    繫之所擬。由是教覃溟表。咸傳八解之音。訓浹寰中。皆踐四禪之軌。遂使

    三千世界。盡懷生而可封。百億須彌。入提封而作鎮。尼蓮德水。邇
    帝里之滄池。舍衛菴園。接上林之茂苑。雖復法性空寂。隨感必通。

    真乘深妙。無幽不闡。所以大權御極。導法流而靡窮。能仁撫運。拂
    劫石而無盡。體均相具。不可思議。校美前王。焉可同年而語矣。余以問安

    之暇。澄心妙法之寶。奉述天旨。微表讚揚。式命司存。綴於卷末。
    世知有高宗述三藏記。此後序無傳。故以聖教序筆意書此。戊午(西元一六一八年)五月八日。其昌。

  • 美人董氏墓誌(びじんとうしぼし)について解説/臨書に使える全文の拓本画像・釈門も記載

    美人董氏墓誌(びじんとうしぼし)について解説/臨書に使える全文の拓本画像・釈門も記載

    美人董氏墓誌(びじんとうしぼし)について解説

    美人董氏墓誌の全体
    美人董氏墓誌の全体

    美人董氏墓誌びじんとうしぼしは、中国のずい時代、597年(開皇17年)に刻された墓誌ぼしです。

    墓誌(ぼし)とは

    墓誌ぼしとは、お墓におさめられている亡くなった方の情報が彫られた石碑のことです。

    中国しん時代の嘉慶・道光年間(1796~1851)に陝西省興平県で出土しました。

    古来、ずい時代の墓誌の傑作にあげられてきた作品ですが、原石は太平天国の乱(1853)でなくなってしまいました。

    拓本のサイズは52×52㎝。文字は21行、行ごとに23字。全文で441字あります。

    美人びじん」とは、後宮こうきゅうの官名の1つで、このとう美人は、文帝ぶんていの第4子である蜀王楊秀ようしゅうに仕えましたが、わずか19歳で亡くなってしまいました。誌文の作者は王である楊秀ようしゅうじきじきのもので、内容は董氏が亡くなったことをいたんでいます。

    誌面に剥落はほとんどなく、筆画は良好で、洗練成熟した小楷しょうかい(小さい文字の楷書)です。

    原石からとられた拓本は少なく、有名なだけに摸刻本が多いです。

    美人董氏墓誌(びじんとうしぼし)の原石拓本・全文の釈門

    ずい時代を代表する楷書作品の一つとして知られる逸品ですが、原石は無くなってしまっています。

    そのため拓本はとても少なく、重刻本が多く出回っているため注意が必要です。今回紹介するような、原石からとった数少ない拓本は非常に貴重です。

    美人董氏墓誌①
    美人董氏墓誌①

    美人董氏墓誌銘。
    美人姓董,汴州恤冝縣人也。祖佛子,齊涼州刺史,敦仁愽洽,標

    美人董氏墓誌②
    美人董氏墓誌②

    譽郷閭。父後進,俶儻英雄,聲馳河渷。美人體質閑華,天情婉嫕,恭以接上,順以承親,

    美人董氏墓誌③
    美人董氏墓誌③

    含華吐艶,竜章鳳采 ,砌炳瑾瑜,庭芳蘭蕙。既而来儀魯殿,出事梁臺,搖環佩於芳林,

    美人董氏墓誌④
    美人董氏墓誌④

    袨綺繢於春景,投壷工鶴飛之巧,彈棋窮巾角之妙。妖容傾国,冶咲千金,妝映池蓮,

    美人董氏墓誌⑤
    美人董氏墓誌⑤

    鏡澄窓月。態轉廻眸之艶,香飄曳裾之風,颯灑委迤,吹花廻雪。以開皇十七年二月

    美人董氏墓誌⑥
    美人董氏墓誌⑥

    感疾,至七月十四日戊子終于仁壽宮山第,春秋一十有九。農皇上藥,竟無救於秦

    美人董氏墓誌⑦
    美人董氏墓誌⑦

    醫,老君靈醮,徒有望於山士。怨此瑶華,忽焉凋悴,傷兹桂蘂,摧芳上年。以其年十月

    美人董氏墓誌⑧
    美人董氏墓誌⑧

    十二日葬于龍首原。寂寂幽夜, 茫茫荒隴,埋故愛於重泉,沉餘嬌於玄隧。惟鐙設而

    美人董氏墓誌⑨
    美人董氏墓誌⑨

    神見,空想文成之術,弦管奏而泉濆,弥念姑舒之魂。觸感興悲,乃為銘曰:

    美人董氏墓誌⑩
    美人董氏墓誌⑩

    高唐獨絶,陽臺可怜。花耀芳囿,霞綺遥天。波驚洛浦,芝茂瓊田。嗟乎頺日,還随浚川。

    美人董氏墓誌⑪
    美人董氏墓誌⑪5

    比翼孤栖,同心隻寝。風巻愁幕,氷寒涙枕。悠悠長暝,杳杳無春。落鬟摧櫬,故黛凝塵。

    美人董氏墓誌⑫
    美人董氏墓誌⑫

    昔新悲故,今故悲新。餘心留想,有念無人。去歳花臺,臨観陪践。今兹秋夜,思人潜泫。

    美人董氏墓誌⑬
    美人董氏墓誌⑬

    遊神真宅,歸骨玄房。依依泉路,蕭蕭白楊。墳孤山静,松疏月涼。瘞兹玉匣,傳此餘芳。

    美人董氏墓誌⑭
    美人董氏墓誌⑭

    惟開皇十七年歳次丁巳十月甲辰朔十二日乙卯
    上柱國益州總管蜀王製

  • 張猛龍碑(ちょうもうりゅうひ)について、書風・特徴を解説/臨書に使える全文の画像、釈門

    張猛龍碑(ちょうもうりゅうひ)について、書風・特徴を解説/臨書に使える全文の画像、釈門

    張猛龍碑(ちょうもうりゅうひ)の基本情報

    張猛龍碑の原碑
    張猛龍碑の原碑
    張猛龍碑の拓本
    張猛龍碑の拓本

    北魏・正光2年(522)

    山東省曲阜の孔子廟内“漢魏碑刻陳列室”(通称“孔廟碑林”)にあります。

    石碑は198.2×87.3㎝。碑文は26行、行ごとに46字。
    額は3行12字で、額の背面や碑陰には、建碑に関与した人名を列記しています。

    碑文の内容は、魯郡ろぐん太守たいしゅであった張猛龍ちょうもうりゅうが祖先の遺業を継いで、儒学じゅがくの教育に尽力した業績をたたえた文章が書かれています。

    この碑の文字は、高貞碑こうていひとともに、北碑の双璧と注目されています。

    張猛龍碑の特徴・書風

    字形、筆遣いともいたって謹厳きんげんです。文字の外形はやや縦長で左斜め下へ重心がむかっています。

    1字内の点画は、平行線を避け、運筆における抑揚の呼吸は絶妙です。

    また、とても理知的ではありますが、理詰めの冷たさはありません。

    端正でいて奇趣にあふれ、雄健でしかも縦逸しょういつの趣があります。

    題額だいがく碑陰ひいんも同じ人によるものですが、碑額の雄俊ゆうしゅん、碑陰の自在の境地も見逃せません。

    張猛龍碑の臨書で使える全文の画像、釈門付き

    張猛龍碑1 クリック/タップで拡大

    君諱猛龍。字神●(くにがまえ+只)。南陽白水人也。其氏族分興。源流所出。故已備詳世録。不復具載。
    (君のいみな猛龍もうりゅうあざなは神冏、南陽白水の人です。その氏族は分かれ興り、起源についてはすでに詳しく記されているので細かくは載せません。)

    張猛龍碑2 クリック/タップで拡大

    □□□□盛。蓊欝於帝皇之始。德星□□。曜像於朱鳥之閒。淵玄万壑之中。
    (□□□□盛。三皇五帝の初期から繫栄し、德星□□、南天の星座のうちに光り輝きました。よろずの谷のうちに奥深く、)

    張猛龍碑3

    巉巖千峯之上。奕葉清高。煥乎篇牘矣。周宣時。□□張仲。詩人詠其孝友。
    (千々の峰のうえに高く険しいです。代々、高潔な人格で、書物のうえに燦然さんぜんと光を放っています。しゅう宣王せんおうの時代、□□張仲ちょうちゅうは、『詩経しきょう』の詩人たちが声望ある功績を称えています。)

    張猛龍碑4

    光緝姫□。中興是頼。晋大夫張老。春秋嘉其聲績。漢初趙景王張耳。
    (光はしゅう王室に輝き、王朝の中興は彼によっています。しんの大夫張老ちょうろうは、『春秋しゅんじゅう』がその声望ある功績を称えています。漢初の趙景王張耳ちょうじは、)

    張猛龍碑5

    浮沈秦漢之閒。終跨列土之賞。材幹世著。君其後也。魏明帝景初中。
    (秦から漢にかけて、時の流れに浮き沈みし、ついに諸侯に封じられるという褒賞にあずかりました。このように優れた才能と技量をもつ人物が代々現れましたが、君はその後裔です。)

    張猛龍碑6

    西中郎將使持節平四將軍涼州刺史瑍之十世孫。八世祖軌。晋恵帝永。
    (魏の明帝の景初年間(237‐239)に、西中郎将・使持節・平西将軍・涼州刺史であったかんの10世の孫です。8世の祖のは、晋の恵帝の永興年間(304‐306)に、)

    張猛龍碑7

    興中。使持節安西将軍護羌校尉涼州刺史西平公。七世祖素。軌之第三子。
    (使持節・安西将軍・護羌校尉・涼州刺史・西平公ででした。7世の祖のは、軌の3番目の子で、)

    張猛龍碑8

    晋明帝太寧中。臨羌都尉平西將軍西海晋昌金城武威四郡太守。遂家武威。
    (晋の明帝の太寧年間(323‐325)に、臨羌都尉・平西将軍・西海晋昌金城武威四郡太守となり、そして武威に家を構えました。)

    張猛龍碑9

    高祖鍾信。涼州武宣王大沮渠時。建威將軍武武威太守。曽祖璋。偽涼擧秀才。
    (高祖父の鍾信しょうしんは、涼州牧の武宣王沮渠蒙遜そきょもうそんのとき、

    張猛龍碑10

    本州治中従事史四海樂都太守還朝尚書祠部郎羽林監

    張猛龍碑11

    祖興宗。偽涼都營護軍建節將軍𩜙河黄二郡太守。父生樂。□□…

    張猛龍碑12

    …□□歸國。青衿之志。白首方堅。君體稟河靈。神資岳秀。

    張猛龍碑13

    桂質蘭儀。點弱露以懐芳。松心□節。□…□成。自□□郎。

    張猛龍碑14

    若新蘅之當春。初荷之出水。入孝出第。邦閭有名。雖黄金未應。無慙郭氏。

    張猛龍碑15

    友朋□□。交遊□□。□□超遙。蒙箏人表。年廿七。遭父憂。寝食過禮。泣血情深。

    張猛龍碑16

    假使曾柴更世。寧異今徳。既傾乾覆。唯恃坤慈。冬温夏清。暁夕承奉。

    張猛龍碑17

    家貧致養。不辞採運之懃。年卅九。丁母艱。勺飲不入。偸魂七朝。磬力書思。

    張猛龍碑18

    備之生死。脱時富宣尼無愧。深歎毎事過人。孤風獨超。令誉日新。聲馳天紫。

    張猛龍碑19
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    張猛龍碑40