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  • 【顔真卿の楷書】多宝塔碑(たほうとうひ)について解説/特徴・書き方・内容/臨書に使える全文画像

    【顔真卿の楷書】多宝塔碑(たほうとうひ)について解説/特徴・書き方・内容/臨書に使える全文画像

    顔真卿がんしんけいは、中国とう時代に活躍した書道家です。

    彼の楷書は独特な書風をしていることで有名で、その代表作品には「顔氏家廟碑がんしかびょうひ」「麻姑仙壇記まこせんだんき」「多宝塔碑たほうとうひ」「顔勤礼碑がんきんれいひ」などがあります。

    今回は、そのなかでも古来、書道初心者の手本としてよく用いられてきた「多宝塔碑たほうとうひ」について解説します。

    多宝塔碑(たほうとうひ)について

    多宝塔碑 整本
    多宝塔碑 整本

    多宝塔碑たほうとうひは、中国とう時代の752年(天宝11年)、顔真卿がんしんけいが44歳、武部員外郎ぶぶいんがいろう在任中の作品です。 

    長安ちょうあん千福寺せんぷくじ楚金褝師そきんぜんじ舎利塔しゃりとう(お釈迦様の遺骨が納められた塔)を建てた経緯を勅命により記したものです。

    碑はもともと陝西省せんせいしょう興平こうへい県の千福寺にありましたが、みん時代に西安せいあんの府学に移され、現在は陝西省博物館せんせいしょうはくぶつかん西安碑林せいあんひりんの第二室に保管展示されています。

    螭首ちしゅをもつ碑石の高さは約239㎝、幅127㎝で、亀趺きふ(台)の上にたっているため全体の高さは3m近くもあります。

    碑文は34行、毎行66字、全部で2000字あります。

    螭首の中央には2行8字の隷書の題額「大唐多宝塔感応碑だいとうたほうとうかんのうひ」が書かれています。
    この題字は顔真卿の先輩徐浩じょこう(703~782・浙江越州のひと)が書いたもので、骨格のしっかりした見事な出来栄えです。

    碑の文章は岑勛しんくんの撰です。

    作者の顔真卿について

    伝顔真卿肖像 『歴代聖賢半身像』より
    伝顔真卿肖像 『歴代聖賢半身像』より

    筆者の顔真卿がんしんけい(709~785)は、琅邪臨沂ろうやりんぎ(山東省)の人。あざな清臣せいしん

    学家に生まれた顔真卿は、早く父を失ったので、伯父および兄の允南いんなんから教育を受け、若いころから書をよくし、博学で辞章に優れていました。

    743年(開元22年)には、科挙かきょ(官僚登用試験)に合格して進士しんしとなりました。

    755年(天平14年)、安禄山あんろくざんの乱がおこったとき、平原太守であった顔真卿は義兵を挙げ、大功をたてました。
    その活躍ぶりから武将のイメージが強いですが、もともとは文官で、玄宗げんそう粛宗しゅくそう代宗だいそう徳宗とくそうの4代に仕え、書人としても初唐の三大家とあわせて四大家に数えられています。

    顔真卿について詳しく知りたい方は「顔真卿(がんしんけい)について詳しく解説【彼の壮絶な人生、書風の特徴、書き方を解説」をチェックしましょう。

    多宝塔碑の内容

    多宝塔碑の内容を紹介します。

    西京さいきょう龍興寺りゅうこうじの僧楚金そきん(695~759)が静夜に法華経ほけきょう(お経)を唱えて修行中、多宝塔が目前に現れました。

    その霊感に感激して多宝塔建立の計画をたて、許王瓘きょおうかん趙崇ちょうすう普意ふいの賛助・寄付を受け、場所を千福寺せんぶくじに選び、742年(天宝元年)に着工しました。

    翌天宝2年、朝廷から多宝塔の額をもらい、天宝4年に工事を完成、毎年春秋の2回、同行大徳49名を集めて法華三昧ほっけざんまいを修行することを恒式とする勅許を受けました。

    また法華経ほけきょう菩薩戒経ぼさつかいきょう観普賢行経かんふげんこうぎょうを血書し、皇帝や民衆のために1000部の法華経を書写して塔中に置いたこと、大量の舎利しゃりを感得したことなどを列挙し、さらに法華経がいかに優れたものであるかを述べ、法華経信仰に立つ楚金そきん禅師の事業を称賛しています。

    多宝塔碑の特徴

    多宝塔碑たほうとうひは、顔真卿が壮年そうねんの時に書いたもののせいか、さらに後の楷書碑にくらべてやや固い感じがします。
    用筆は厳正、字形は緊密で、一点一画をもゆるぎません。

    入筆は蔵鋒、
    晩年のような「向勢こうせい」の構えは現れず、縦画はどれも垂直、
    蚕頭燕尾さんとうえんび」のはねは現れず、普通にはらっています。

    この多宝塔碑は古来、書道初心者の手本としてよく用いられてきました。それは字形の整斉、法度をまもった書であることに加えて、碑の保存状態がよく、碑文がはっきりしていることが理由でしょう。

    多宝塔碑(顔真卿)への評価

    ここで、多宝塔碑(顔真卿)について評価した書論しょろんがあるため紹介します。

    或曰、公之於書、殊少媚態。又似太露筋骨。安得越虞褚而偶義献耶。答曰、公之媚非不能、恥而不為也。退之嘗云、羲之俗書姿媚。蓋以為病耳。求合流俗、非公志也。又其大露筋骨者、蓋欲不踵前蹟、自成一家。豈与前輩競其妥帖研媸哉。今所伝《千福寺碑》、公少為武部員外時也。遒勁婉熟、已与欧虞徐沈晩筆相上下。而魯公中興以後、筆迹迥与前異者、豈非年彌高学愈精耶。以此質之、則公於柔媚円熟、非不能也、恥而不為也。

    『続書断』神品・顔真卿

    ある人は、「顔真卿の書はなまめいた美しさに欠ける。またことさら筋骨を露呈しているようだ。このような書がどうして虞世南や褚遂良をさしおいて、王羲之や王献之に比肩できようか」と評価する。
    それには、「顔真卿はなまめいた美しさを表現できないのではなく、恥じてそうしないのである。韓愈はかつて『王羲之の俗な書は見た目の姿の美しさに走ったのだ』と言った。その点を王羲之の欠点と考えたのであろう。世俗に迎合するのは、顔真卿の意図するところではない。また筋骨をことさら露呈するのは、先人の書風を踏襲せず、みずから一家をなそうとするものと思われる。現在伝わる《千福寺多宝塔碑》は、顔真卿が若くして武部員外郎になった時の作品である。力強く円熟しており、すでに欧陽詢・虞世南・徐浩・沈伝師の晩年の筆に匹敵するほどである。しかし、唐の中興以後、顔真卿の筆跡が一変したのは、年をとるにつれて書学にますます精通したからではないだろうか。このことから考えると、顔真卿はなまめいた美しさや円熟味を表現できなかったのではなく、恥じてそうしなかったのである」と答えよう。

    臨書に使える多宝塔碑の全文画像

    多宝塔碑#1
    多宝塔碑#1
    多宝塔碑#2
    多宝塔碑#2
    多宝塔碑#3
    多宝塔碑#3
    多宝塔碑#4
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    多宝塔碑#5
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    多宝塔碑#6
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    多宝塔碑#7
    多宝塔碑#7
    多宝塔碑#8
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    多宝塔碑#9
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    多宝塔碑#10
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    多宝塔碑#11
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    多宝塔碑#12
    多宝塔碑#12
    多宝塔碑#13
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    多宝塔碑#14
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    多宝塔碑#15
    多宝塔碑#15
    多宝塔碑#16
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    多宝塔碑#17
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    多宝塔碑#18
    多宝塔碑#18
    多宝塔碑#19
    多宝塔碑#19
    多宝塔碑#20
    多宝塔碑#20
    多宝塔碑#21
    多宝塔碑#21
  • 雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)の臨書に使える全文拓本画像・釈門

    雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)の臨書に使える全文拓本画像・釈門

    雁塔聖教序の臨書に使える全文拓本画像・釈門

    雁塔聖教序#1
    雁塔聖教序#1 ※クリック/タップで拡大

    大唐三蔵聖教序。太宗文皇帝製。
    盖聞。二儀有象。顯覆載以含生。四時無形。潛寒暑以化物。是以窺天鑒地。庸愚皆識其端。明隂洞陽。賢哲罕窮

    雁塔聖教序#2
    雁塔聖教序#2 ※クリック/タップで拡大

    其數。然而天地苞乎隂陽。而易識者。以其有象也。陰陽處乎天地。而難窮者。以其無形也。故知。象顯可徴。雖愚不惑。形潛莫覩。在智猶迷。況乎佛道

    雁塔聖教序#3
    雁塔聖教序#3 ※クリック/タップで拡大

    宗虚。乗幽控寂。弘濟萬品。典御十方。擧威靈而無上。抑神力而無下。大之則弥於宇宙。細之則攝於豪釐。無滅無生。歴千劫而不古。若隠若顯。運百

    雁塔聖教序#4
    雁塔聖教序#4 ※クリック/タップで拡大

    福而長今。妙道凝玄。遵之莫知其際。法流湛寂。挹之莫測其源。故知。蠢蠢凡愚。區區庸鄙。投其旨趣。能無疑惑者哉。然則大教之興。基乎西土。騰漢

    雁塔聖教序#5
    雁塔聖教序#5 ※クリック/タップで拡大

    庭而皎夢。照東域而流慈。昔者分形分蹟之時。言未馳而成化。當常現常之世。人仰徳而知遒。及乎晦影歸真。遷儀越世。金容掩色。不鏡三千之光。

    雁塔聖教序#6
    雁塔聖教序#6 ※クリック/タップで拡大

    麗象開圖。空端四八之相。於是微言廣被。拯含類於三途。遺訓遐宣。導羣生於十地。然而真教難仰。莫能一其指歸。曲學易遵。邪正於焉紛糺。所以

    雁塔聖教序#7
    雁塔聖教序#7 ※クリック/タップで拡大

    空有之論。或習俗而是非。大小之乗。乍沿時而隆替。有玄奘法師者。法門之領袖也。幼懐貞敏。早悟三空之心。長契神情。先苞四忍之行。松風水月。未

    雁塔聖教序#8
    雁塔聖教序#8 ※クリック/タップで拡大

    足比其清華。仙露明珠。詎能方其朗潤。故以智通無累。神測未形。超六塵而迥出。隻千古而無對。凝心内境。悲正法之陵遅。栖慮玄門。慨深文之訛

    雁塔聖教序#9
    雁塔聖教序#9 ※クリック/タップで拡大

    謬。思欲分條析理。廣彼前聞。截偽續真。開茲後學。是以翹心浄土。往遊西域。乗危遠邁。杖策孤征。積雪晨飛。塗間失地。驚砂夕起。空外迷天。萬里山

    雁塔聖教序#10
    雁塔聖教序#10 ※クリック/タップで拡大

    川。撥煙霞而進影。百重寒暑。躡霜雨而前縦。誠重勞軽。求深願逹。周遊西宇。十有七年。窮歴道邦。詢求正教。雙林八水。味道飡風。鹿菀鷲峯。瞻奇仰

    雁塔聖教序#11
    雁塔聖教序#11 ※クリック/タップで拡大

    異。承至言於先聖。受真教於上賢。探賾妙門。精窮奥業。一乗五律之道。馳驟於心田。八蔵三篋之文。波濤於口海。爰自所歴之國。揔将三蔵要文。凡

    雁塔聖教序#12
    雁塔聖教序#12 ※クリック/タップで拡大

    六百五十七部。譯布中夏。宣揚勝業。引慈雲於西極。注法雨於東垂。聖教缺而復全。蒼生罪而還福。濕火宅之乾燄。共拔迷途。朗愛水之昬波。同臻

    雁塔聖教序#13
    雁塔聖教序#13 ※クリック/タップで拡大

    彼岸。是知。悪因業墜。善以縁昇。昇墜之端。惟人所託。譬夫桂生高嶺。雲露方得泫其花。蓮出淥波。飛塵不能汙其葉。非蓮性自潔。而桂質本貞。良由

    雁塔聖教序#14
    雁塔聖教序#14 ※クリック/タップで拡大

    所附者高。則微物不能累。所憑者淨。則濁類不能霑。夫以卉木無知。猶資善而成善。况乎人倫有識。不縁慶而求慶。方冀茲経流施。将日月而無窮。

    雁塔聖教序#15
    雁塔聖教序#15 ※クリック/タップで拡大

    斯福遐敷。與乾坤而永大。
    永徽四年歳次癸丑十月己卯朔十五日癸巳建。
    中書令臣褚遂良書。
    大唐皇帝述三蔵

    雁塔聖教序#16
    雁塔聖教序#16 ※クリック/タップで拡大

    聖教序記。
    夫顯揚正教。非智無以廣其文。崇闡微言。非賢莫能定其旨。盖真如聖教者。諸法之玄宗。衆経之軌躅也。綜括宏遠。奥旨遐深。極

    雁塔聖教序#17
    雁塔聖教序#17 ※クリック/タップで拡大

    空有之精微。體生滅之機要。詞茂道曠。尋之者。不究其源。文顯義幽。理之者。莫測其際。故知。聖慈所被。業無善而臻。妙化所敷。縁無悪而不翦。開

    雁塔聖教序#18
    雁塔聖教序#18 ※クリック/タップで拡大

    法網之綱紀。弘六度之正教。拯羣有之塗炭。啓三蔵之秘扃。是以名無翼而長飛。道無根而永固。道名流慶。歴遂古而鎮常。赴感應身。経塵劫而不

    雁塔聖教序#19
    雁塔聖教序#19 ※クリック/タップで拡大

    朽。晨鍾夕梵。交二音於鷲峯。慧日法流。轉雙輪於鹿菀。排空寶盖。接翔雲而共飛。荘野春林。與天花而合彩。伏惟。皇帝陛下。上玄

    雁塔聖教序#20
    雁塔聖教序#20 ※クリック/タップで拡大

    資福。垂拱而治八荒。徳被黔黎。斂衽而朝萬國。恩加朽骨。石室歸貝葉之文。澤及昆蟲。金匱流梵説之偈。遂使阿耨達水。通神甸之八川。耆闍崛山。

    雁塔聖教序#21
    雁塔聖教序#21 ※クリック/タップで拡大

    接嵩華之翠嶺。窃以。法性凝寂。靡歸心而不通。智地玄奥。感懇誠而遂顯。豈謂重昬之夜。燭慧炬之光。火宅之朝。降法雨之澤。於是百川異流。同會

    雁塔聖教序#22
    雁塔聖教序#22 ※クリック/タップで拡大

    於海。万區分義。揔成乎實。豈與湯武校其優劣。堯舜比其聖徳者哉。玄奘法師者。夙懐聡令。立志夷簡。神清齓齓之年。體拔浮華之世。凝情定室。匿

    雁塔聖教序#23
    雁塔聖教序#23 ※クリック/タップで拡大

    跡幽巌。栖息三樿。巡遊十地。超六塵之境。獨歩伽維。會一乗之旨。随機化物。以中華之無質。尋印度之真文。遠渉恒河。終期満字。頻登雪嶺。更獲半

    雁塔聖教序#24
    雁塔聖教序#24 ※クリック/タップで拡大

    珠。問道往還。十有七載。備通釋典。利物為心。以貞觀十九年二月六日。奉勅於弘福寺。翻譯聖教要文。凡六百五十七部。引大海之法流。洗塵勞而

    雁塔聖教序#25
    雁塔聖教序#25 ※クリック/タップで拡大

    不竭。傳智燈之長燄。皎幽暗而恒明。自非久植勝縁。何以顯揚斯旨。所謂法相常住。齊三光之明。我皇福臻。同二儀之固。伏見

    雁塔聖教序#26
    雁塔聖教序#26 ※クリック/タップで拡大

    御製衆経論序。照古騰今。理含金石之聲。文抱󠄁風雲之潤。治輒以軽塵足嶽。墜露添流。略擧大綱。以為斯記。皇帝在春宮日製此文。

    雁塔聖教序#27
    雁塔聖教序#27 ※クリック/タップで拡大

    永徽四年歳次癸丑。十二月戊寅朔十日丁亥建。
    尚書右僕射上柱國河南郡開國公臣褚遂良。書萬文韶刻字。

  • 張遷碑(ちょうせんひ)について解説/臨書作品に役立つ特徴・書き方/全文の画像・釈門

    張遷碑(ちょうせんひ)について解説/臨書作品に役立つ特徴・書き方/全文の画像・釈門

    張遷碑(ちょうせんひ)の基本情報

    張遷碑の原碑

    張遷碑の原碑
    張遷碑の全体の拓本

    張遷碑ちょうせんひは、張遷ちょうせんという人物がつとめていた縠城こくじょう県での功績こうせきたたえててられた石碑です。

    張遷碑が建てられた年は、中国後漢ごかん時代の186年(中平3年)です。

    張遷碑の作者はわかっていません。

    張遷碑の大きさは、通高315×102㎝。

    りゅうが碑側の左右の足元から這い上がり、円首の頂上で2匹の頭が向かい合う形に彫刻ちょうこくしてあります。

    碑首には、2行で「漢故穀城長蕩陰令張君表頌」と書かれています。
    この題額は不思議な書体ですが、この書体について方朔ほうさくは、
    「篆隷の間に在り。而して屈曲塡満くっきょくてんまんは、印書中の繆篆びゅうてんに似たるあり。人 りて篆体をもってこれもくす」(『枕経堂金石跋尾』)といいます。

    張遷碑の構成

    張遷碑の碑面局部
    張遷碑の碑面局部

    碑文は16行、行ごとに42文字、全文で566文字あります。

    碑陰は3段で、上2段は各19行、下段は3行。建碑にかかわった41人の官職、姓名、醵金額きょきんがく(目的のために出しあった金額)を、碑文よりひとまわり大きいサイズの字粒で書かれています。

    張遷碑の碑陰
    張遷碑の碑陰

    また、碑陽の状態は、全体に緩やかな凹凸があるため、痩せた点画の随所に補刀の跡がみえます。
    それにくらべて碑陰は比較的状態がいいです。理由は、かつてある期間、碑陰が壁に埋め込まれていたために、採拓される機会が少なかったからと考えられてます。

    張遷碑の内容

    張遷碑の内容は、4つに分けられます。

    初段〔「君諱遷~世載其徳」〕は、周の宣王のときの張仲ちょうちゅう、漢の張良ちょうりょう張釈之ちょうせきし張騫ちょうけんなど、歴史上著名な名前に「ちょう」がつく人物をあげています。
    ただし、どれも今回の碑の張遷ちょうせんの家系とは無関係である、と明の王世貞おうせいていが指摘しています。(『弇州山人四部稿』第134)

    第2段〔「爰既且於君~其命維新」〕は、張遷の経歴を略記し、その徳政とくせいたたえています。

    第3段〔「於穆我君~子子孫孫」〕は、韻文でなる銘辞です。

    終段〔「惟中平三年~億載年」〕は、立碑の年月とその経緯が書かれています。
    碑は、張遷の任地であった縠城こくじょう県(いまの山東省東阿県)から、蕩陰とういん県(いまの河南省湯陰県)へ転任するにあたり、故吏の韋萌らが張遷の徳を称えて建てたものです。

    その土地の行政官ぎょうせいかんが任地を去ったあと、そこの住民、役人が行政官の功績こうせきしたって建てる碑を「去思碑きょしひ」といいます。

    張遷碑も碑文第2段中に、
    「(張遷)蕩陰令に移らんとするや、吏民頡頏りみんきっこうして、随送すること雲の如し。…前哲の遺芳、功あるに書せざれば、のち これを述ぶるなし。ここいて石に刊して表をて、萬載に銘勒めいろくす」
    とあるように、この碑は「去思碑」です。
    亡くなった後に建てる「墓碑」とは違ったものです。

    張遷碑の特徴・書き方

    張遷碑の横画

    張遷碑の横画は、おおむね水平・等間隔を保っています。

    一方、「吾」や「先」など一部の文字は、横画が右上がりで文字全体も右上がりになっているものもあります。

    張遷碑の縦画

    張遷碑の縦画は、ほとんど垂直にひかれます。

    線と線の間隔についても、横画と同様等間隔が基本です。

    張遷碑の波磔(はたく)

    張遷碑は隷書なので波磔はたくがあります。

    波磔はたくとは、横画のながいものについているハライのことです。

    張遷碑の波磔は、冒頭の「君」を代表に、小さく角度が真上に向かってはねています。
    また、波磔のある横画によくある波磔の前の「揺らぎ(山なり)」の表現は少なめです。

    張遷碑の字形

    通常の隷書の特徴としては、字形が平べったいという点がありますが、張遷碑においてはやや縦長の字が多くみられます。

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    張遷碑の全文画像・釈門

    張遷碑の拓本たくほんでもっとも古い拓本は北京故宮博物院ぺきんこきゅうはくぶついん蔵の「東里潤色」未損の明初拓です。

    拓本は、古い拓本の方が碑面がきれいな時期に採拓さいたくされ、線もしっかりとしていて良いとされています。

    張遷碑の拓本#1
    張遷碑の拓本#1 ※クリック/タップで拡大

    君諱遷字公方。陳留己吾人也。君之先出自有

    周。周宣王中興。有張仲。以孝友為行。披覽詩雅。

    煥知其祖。高帝龍興。有張良。善用籌策。在帷幕

    之内。決勝負千里之外。析珪於留。文景之間。有

    張釋之。建忠弼之謨。帝遊上林。問禽狩所有。苑

    令不對。更問嗇夫。嗇夫事對。於是進嗇夫為令。

    令退為嗇夫。釋之議為不可。苑令有公卿之才。

    嗇夫喋喋小吏。非社稷之重。上従言。孝武時。有

    張騫。廣通風俗。開定畿㝢。南苞八蠻。西羈六戎。

    北震五狄。東勤九夷。

  • 九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)の全文拓本画像/日本端方旧蔵海内第一本/三井文庫蔵

    九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)の全文拓本画像/日本端方旧蔵海内第一本/三井文庫蔵

    九成宮醴泉銘の全文拓本画像

    九成宮醴泉銘の題額#1
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    九成宮醴泉銘の題額#2
    九成宮醴泉銘の題額#2 ※クリック/タップで拡大
    九成宮醴泉銘#1
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    九成宮醴泉銘#2
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    九成宮醴泉銘#3
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    九成宮醴泉銘#4
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    九成宮醴泉銘#5
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    九成宮醴泉銘#6
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    九成宮醴泉銘#7
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    九成宮醴泉銘#18
    九成宮醴泉銘#19
    九成宮醴泉銘#20
    九成宮醴泉銘#21
    九成宮醴泉銘#22
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    九成宮醴泉銘#30
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    九成宮醴泉銘#36
  • 西狭頌(せいきょうしょう)について解説/臨書で注意する特徴も紹介

    西狭頌(せいきょうしょう)について解説/臨書で注意する特徴も紹介

    西狭頌(せいきょうしょう)について

    西狭頌せいきょうしょうは、中国後漢ごかん時代の171年(建寧4年)に刻された摩崖碑まがいひです。

    いわゆる「三頌」(石門頌せきもんしょう西狭頌せいきょうしょう郙閣頌ほかくしょう)の1つでです。

    甘粛省かんしゅくしょう成県せいけん抛沙鎮ほうさちん東栄村にあります。この地域は海抜1200ⅿの天井山てんせいざんがあり、西狭頌は魚竅峡ぎょきょうきょうという天井山下の深い峡谷の崖壁がんへきに刻されています。

    面は、題額をのぞき高さ約220㎝、広さ約340㎝で、西狭頌本文、題名、五瑞図および図下題名があり、一連のものとして同時につくられました。

    本文は20行、行ごとに20字、全文で295文字あります。
    さらに21行目には「建寧四年六月十三日壬寅造。時府」と、完成の年月日を加えています。

    内容は、武都太守ぶとたいしゅであった李翕りきゅうが、功績西狭(武都郡の西の峡谷の意味)の険しい道を修理して、人々の往来を安全にしたという功績を称えた記念文です。

    李翕について

    西狭頌の内容の主人公である李翕りきゅうについて紹介します。

    翕、字は伯都。漢陽郡阿陽県の人です。
    阿陽県は、今の甘粛省の静寧県の南にあります。

    170年(建寧3年)、武都郡(今の甘粛省成県)の太守となりました。

    西狭頌の碑文によると、はじめ李翕りきゅうは、その家柄によって宮廷に出仕して禁衛にあたり、宮中に宿衛しました。弱冠にして典城(郡守)となりました。

    また碑文に「三たび符を守に剖つ」、つまり三たび郡の太守に任命されたといいます。これについては、牟房の『仏金錧秦漢碑跋』に詳しく考証して、張掖ちょうえき黽池めんち武都ぶと、これが三郡だろうとしています。

    この武都ぶと郡において、建寧4年に関中平野から武都ぶとへの道を確保するため工事を行い、険しい道を修理して浅道をつくりました。
    この功績を摩崖に刻して称えたのが西狭頌です。

    西狭頌の内容

    西狭頌の内容は、前段の「漢武都太守~粟麦五銭」は、西狭(狭は峡の仮借で武都郡の西の峡谷をいいます)の道を修理した武都太守李翕りきゅうの功徳を記しています。

    後段の「郡西狭中道~刊斯石曰」は、峡谷の危険な場所に土木工事をおこし、人々が安全に往来できるような道を作るにいたった事情が書かれています。

    そのほか、工事に関与した官吏の官名、本貫、姓名も書かれています。そのなかの「従史位、下辨、仇靖字漢徳。書文」とあります。この「仇靖きゅうせい」という人物を古来から西狭頌の文章をつくった人物としています。

    西狭頌の特徴

    西狭頌の書体は、隷書を主としていますが、篆書の字もいくつかみえます。

    また、にんべんたまへんの1画目を2画で書く筆法があります。
    こうした筆法は、のちの魏・晋の隷書に受け継がれて様式化していきます。

    西狭頌の書風の評価

    西狭頌の評価について紹介します。

    しん方朔ほうさく
    「字の大きさ縦横三寸を下らず。寛博遒古たり。高巖立壁に称うに足る」(『枕経堂跋尾』第3)
    という評価をはじめ、

    徐樹鈞じょじゅきんが、
    「疎散俊逸たり。風吹きて僊袂の雲中に飄々たるが如し。復た尋常の蹊逕を以て探るべきものにあらず」(『宝鴨斎題跋』巻上)
    といい、

    楊守敬ようしゅけいが、
    「方整雄偉たりて、首尾に一字の欠失なし。尤も宝重すべし」(『学書邇言』)
    といい、

    また梁啓超が、
    「雄邁にして静穆。漢隷の正則なり」(『飲冰室題跋』)
    といいます。

    これら緒家のほめたたえる言葉は、西狭頌の美を示唆しさしています。

    西狭頌の謎

    西狭頌については、そう時代の趙明誠ちょうめいせいの『金石録きんせきろく』をはじめ、以降のみんしん時代の40種類近い金石書や題跋類に記されています。

    しかし、成県の魚竅峡ぎょきょうきょうは、遠くしかも危険な断崖であるため、実地にいって調査した学者はおらず、どれも拓本と伝聞によっています。

    そのため、西狭頌の本文、題額、題名、五瑞図の位置については説がまちまちです。

    篆書1行の「恵安西表」は、張徳容ちょうとくよう方若ほうじゃくが西狭頌のことをこう呼んでおり、その位置からみて題額と考えられます。ただしこの題名の意味はわかりません。

    五瑞図、本文、題記が刻された面の石質はきわめて緻密ですが、面は波うって湾曲しており、刻は薬研彫やげんぼりで字口は鋭いといいます。

  • 高貞碑(こうていひ)について解説/碑の内容・特徴・釈門なども

    高貞碑(こうていひ)について解説/碑の内容・特徴・釈門なども

    高貞碑(こうていひ)について

    高貞碑の全体
    高貞碑の全体

    高貞碑こうていひは、中国北魏ほくぎ時代、西暦523年に建てられた碑で、高貞こうていという人物について書かれています。

    題額は12文字「魏故営州刺史懿侯高君之碑」は4行、1行3字で陽刻されています。その書風は装飾的な篆書で、めずらしいです。

    碑文は楷書で24行、毎行46字に陰刻され、末行に「大代正光四年歳次癸卯月管黄鐘六月…」の年紀があります。

    文章をつくった撰文者せんぶんしゃ、文字の筆者については記載がなく不明です。

    高貞碑は久しく埋没まいぼつしていましたが、近年になり山東省徳健県の衛河第三屯より出土しました。このあたりはこう氏一族が繁栄した地域です。

    碑は現在、山東省博物館に隣接する山東省文物高校研究所に保管されています。

    碑の大きさは、高さ約230余り㎝、幅90余り㎝、厚さ20余り㎝です。

    高貞碑は「徳州三高碑」の1つ

    高貞碑こうていひは、高慶碑こうけいひ高湛墓誌こうたんぼしとともに書風がとくに優れているため、「徳州三高碑」と称され、推賞されています。

    高貞の弟と思われる高慶こうけいの碑は、おそらく同一筆者によるもので、高貞碑よりすこし遅れて1897年(光緒23年)に出土しました。

    高湛は高貞の従兄弟にあたると思われる人物で、その墓誌は東魏の539年(元象2年)10月のものです。1749年(乾隆14年)に徳州の運河東岸が決壊したときに出土しました。

    高慶碑こうけいひ高湛墓誌こうたんぼしどちらも優れた作品です。

    高貞について

    碑の主人公である高貞こうていについて詳しく紹介します。

    高貞こうてい(489~514)は、『魏書ぎしょ』などには出てきませんが、碑文によるとあざな羽真うしん渤海ぼっかいしゅう(今の徳州とくしゅう)の人、高偃こうえんの子とあります。

    山東渤海さんとんぼっかいの一大豪族こう氏は、北魏ほくぎから北斉ほくせいにかけてもっとも盛んであり、皇帝の外戚がいせき(母方の親戚)になる名門でした。

    父の高偃こうえんについては、『魏書』(巻83下・列伝外戚第71下)の高肇こうちょうに付記されています。
    高肇こうちょうが一族のなかでもっとも高位にのぼったからでしょう。

    高肇こうちょうの長兄はこんで、渤海郡公ぼっかいぐんこうおそいましたが、早くに亡くなりました。高偃こうえんもまた兄にあたり、字は仲游ちゅうゆう安東将軍あんとんしょうぐん都督青州刺史ととくせいしゅうししに任命され、亡くなった後に荘侯そうこうおくりなされました。

    高肇こうちょうの妹は文昭皇后ぶんしょうこうごうであり、高偃こうえんのむすめ、すなわち高貞こうていの姉は宣武皇后せんぶこうごうとなっています。

    高貞こうていはこのような名門に生まれ、皇帝の外戚がいせきということもあって秘書郎ひしょろうとなり太子洗馬たいしせんばに任命されましたが、延昌えんしょう3年にわずか26歳で亡くなくなりました。

    若くして亡くなってしまったため、閲歴には特記することはありませんが、没後に䮾驤将軍ほうじょうしょうぐん営州刺史えいしゅうししという高位を追贈ついぞうされ、懿侯いこうおくりなされました。

    碑首の「魏故䮾驤将軍営州刺史高使君懿侯碑銘」と書かれているのは亡くなった後に贈られた官位を示すものです。

    高貞碑(こうていひ)の特徴

    高貞碑の特徴としては、一般に方正、または整斉といわれています。

    高貞碑は北魏の碑の中では比較的遅い方の作品で、張猛龍碑ちょうもうりゅうひと並ぶ北碑の代表名作ですが、北魏様式の強さという点からみると少し弱いように感じられます。

    これは作者が北朝特有の力を外に張る筆法よりも、南朝の内に蔵する構成の巧みさに重きを置いたからでしょう。

    異体字などもかなり多く使用されていますが、点画は明瞭で整然とそろっており、字形の経妙さ、筆力の強さ、抑揚の変化など、技術的にも高度なものを誇示しています。

    汪鋆おういんは『十二硯斎金石過眼録』のなかで
    「文は仍ち六朝の風格、書勢は遒麗平正、これ魏碑の佳なる者なり」
    といい、
    楊守敬ようしゅけいは『平碑記』に
    「書法は方整にして、寒険の気無し」
    と評価しています。

    つまりは穏やかな中にも厳しさ、強さを蔵しているというのです。

    高貞碑の方正な書風は潘存はんそん楊守敬ようしゅけいの影響を受けて、日本においても明治時代以降、日下部鳴鶴くさかべめいかくらおおくの書道家がこの碑を習っています。

  • 石門頌(せきもんしょう)について解説/臨書作品制作に使える石門頌の全文拓本画像

    石門頌(せきもんしょう)について解説/臨書作品制作に使える石門頌の全文拓本画像

    石門頌(せきもんしょう)とは

    石門頌の全体
    石門頌の全体

    石門頌せきもんしょうは、正式には故司隷校尉楗為楊君頌こしれいこういけんいようくんしょうといわれ、中国後漢ごかん時代の148年(建和2年)の摩崖碑まがいひです。

    磨崖碑(まがいひ)とは

    摩崖碑まがいひとは、天然の岸壁を利用し、そこに文字を刻んだ作品をいいます。

    現在、開通褒斜道刻石かいつうほうやどうこくせき楊淮表紀ようわいひょうき石門銘せきもんめいなど13種(14石)の1つとして、陝西省漢中市の漢中市博物館内「石門十三品陳列館」に置かれています。

    高さ261㎝、幅205㎝。題額があり、本文は22行、行ごとに30~31字、全部で655字あります。

    石門頌の内容

    石門頌の内容は、楊孟文ようもうぶん王升おうしょうが「褒斜道ほうやどう」というけわしい道を修理して通れるようにした、という功績を称えるものです。

    楊孟文ようもうぶん犍為郡けんいぐん武陽県の人で、司隷校尉しれいこうい(中央の官吏かんりを取り締まる)を担当していました。

    西暦66年(永平9年)、大がかりに修復された褒斜道ほうやどうが、107・8年(永初元・2年)、巴蜀はしょくを侵略し、関中をも脅かす西羌せいきょうの侵攻により、こわされて廃道はいどうとなり、その後は別の子午道しごどうを利用していました。
    しかし、子午道しごどうけわしい場所が多く、利用者は苦しんでいたため、褒斜道ほうやどうを再開するように順帝じゅんてい(在位・125~144)に意見を申し述べました。

    楊孟文ようもうぶんの献策は、一部の官僚の反対にあいましたが、しばしば自説を述べた結果、125年(延光4年)、順帝の許可が下り、褒斜道は修理され開通しました。

    その後、148(建和2年)、楊孟文ようもうぶんと出身が同じである漢中太守かんちゅうたいしゅ王升おうしょうが、楊孟文の功績を世間に明らかにするため、この間の事情を石門中に刻しました。

    また王升おうしょうも部下を派遣して褒斜道の補強に当たらせ、その治績の一端を、王升の属僚である趙邵ちょうしょうらが記したのです。

    褒斜道について

    褒斜道ほうやどうは、しんかん時代から開かれた要略で、当時、関中かんちゅうからしょくに向かうには、漢中かんちゅうを通りました。

    その漢中までの道に、褒斜道ほうやどう儻駱道とうらくどう子午道しごどうの3つがあり、なかでもこの褒斜道がもっとも利用されていたようです。

    66年(永平9年)司隷校尉鄐君ちくくんによって切りひらいて道が通され、のち戦乱や天変地災によって漢時代でもたびたび断絶し、その後も開通、途絶をくりかえし、清時代になって再び利用され、石門頌をはじめとする摩崖碑まがいひが世に知られて尊重されるようになりました。

    石門頌は摩崖なのに博物館に置かれている

    博物館にある石門頌
    博物館にある石門頌

    石門頌は、岸壁がんぺきに文字が刻された摩崖まがいですが、現在は漢中市博物館という博物館に置かれています。

    どうして摩崖まがいが博物館のなかにあるのでしょうか?

    摩崖まがいでありながら博物館に置かれている理由は、もともとあった場所の褒河水庫ほうがだむの建設による水没から救うため、1969年から3年がかりの切り取り工事の末、1971年に移転されたからです。

    石門頌は、水没した褒斜道ほうやどう南端に位置する石門のトンネル内に刻されていました。東壁16.5m、西壁15.0m。南口の広さ4.2m、高さ3.45m、北口の広さ4.1m、高さ3.775mのトンネルの洞中西壁のほぼ中央部分。

    石門頌の書風・特徴

    石門頌の書風・特徴について、歴代の書道家たちによる評価では「勁挺ていけい」といわれています。

    また、木簡もっかんのような部分や、漢碑かんぴらしく整斉せいせいとして礼器碑れいきひをおもわせる部分や、流麗な曹全碑そうぜんひのような部分もあります。

    字形においては、波磔はたくのない四角形の字は、礼器碑風の行儀がよく左右対称の原則を守り、バランスの良い揺らぎのない字形をしています。

    また、横画やしんにょうのあるものは、曹全碑の流麗さをおもわせます。「命」や「升」の大胆な縦画は、木簡でよくみられる特徴です。

    1つの碑でこれほどさまざまな表現をくみこんだものは珍しいです。しかもそれがみんなばらばらなのではなく、渾然一体こんぜんいったいとなっています。

    石門頌の書体は隷書

    石門頌の書体を分類すれば、隷書れいしょに分類されます。

    しかし、同じかん時代の碑に刻された隷書れいしょとはまったく違っています。

    岸壁の凹凸おうとつが相当な段差をもつところもあるため、字の大きさにもばらつきが出て、それがかえって動感を盛りあげています。

    石門頌に対する評価

    昔の学者による石門頌に対する評価を紹介します。

    石門頌に対する評価でもっとも古いものとして、王昶おうちょうの『金石萃編きんせきすいへん』巻八があります。

    王昶おうちょうは、
    「書体勁挺けいていにして姿致しちあり。開通褒斜道摩崖の隷字の疎密ひとしからざるものとおのおの深き趣あり。して東漢人の傑作となす」(『金石萃編』巻八)
    と称揚しています。

    また、楊守敬ようしゅけいの『平碑記ひょうひき』巻一では、
    「その行筆は、真に野鶴閑鷗やかくかんおうのごとく、飄々として仙ならんと欲す」
    と言っています。

    このように、石門頌は勁挺でしかも飄逸、厳正でしかも寛綽といった書風が高く評価され、摩崖書の優品として重んじられています。

    石門頌が注目されはじめるのは清時代から

    石門頌が最初に文献にみえるのは、北魏ほくぎ時代の酈道元れきどうげんの『水経注すいけいちゅう沔水べんすいです。
    欧陽脩おうようしゅう集古録跋尾しゅうころくばつび』、趙明誠ちょうめいせい金石録きんせきろく』、洪适こうかつ隷釈れいしゃく』などにも採録されています。

    さらに時代が進んで、しん時代の乾隆けんりゅう嘉慶かきょう期は金石学きんせきがくが盛んに行われる時代です
    このころからさまざまな金石書に石門頌をはじめ多くの石門摩崖が採録されるようになりました。

    清時代の著録家のなかでは、王森文おうしんぶんという人がもっともはやく褒斜道ほうやどうの実地調査を行い、1814年(嘉慶19年)に『石門碑醳せきもんひしゃく』を出版しました。
    その後また、羅秀書らしゅうしょ徐廷鈺じょていぎょくの『褒斜古迹輯略ほうやこせきしゅうりゃく』という詳細な著録が出て、石門内外の題刻のほぼ全容が明らかになりました。

    褒斜道にある他の摩崖碑を紹介

    今回紹介している石門頌は、褒斜道にあった、と紹介しました。

    褒斜道には、ほかにも有名な摩崖碑があるので紹介します。

    開通褒斜道刻石

    開通褒斜道刻石かいつうほうやどうこくせきは、石門にある摩崖碑のうちもっとも古い作品です。

    褒城県北方の岸壁に刻されたもので、後漢時代の明帝の永平9年(66)、漢中大守の鄐君ちくくんの勅命によって、のべ77万人ちかくを動員し、4年かけて褒斜道ほうやどうを完成させた功業を記しています。

    書風は一般的に石門頌に似ているといわれていますが、石門頌よりももっと古意があり格調の高いです。

    字形は大小、長短さまざまで、なかには20㎝近くあるものがあり、その岩肌にマッチした書風はまことに自然で拘束されない伸びやかなものです。
    また、その線質は篆書の雰囲気があり、折れの部分も丸みがあり、隷書特有のかっきりとした転折はみられません。

    楊淮表紀

    楊淮表紀ようわいひょうきは、正式には司隷校尉しれいこうい楊淮表紀ようわいひょうきといわれ、これも褒城県北の石門にあります。

    後漢ごかん時代、173年(熹平2年)、この石門の地を通った黄門こうもん(皇帝に近侍して勅命を伝える役職)である卞玉べんぎょくが、同じ出身の先輩の楊孟文ようもうぶん石門頌せきもんしょうをみて、その偉業をふり返り、孟文の孫にあたる司隷校尉しれいこういとその従弟にあたる楊弼ようひつの官歴を記しました。つまり孟文の子孫を称えたものです。

    構成は、7行、毎行25~26文字。書風は石門頌よりもっと稚拙ようちで飾り気のない自然のおもむきが出ています。

    また、この時期すでに漢碑第一と称される礼器碑がでており、その知性的な合理性に富んだ結体用筆は、石門にある摩崖碑の書風とは雰囲気が違っています。
    このことは、都会と地方のちがい、あるいは摩崖碑特有の自然の岸壁という環境によるものかと思われます。

    右扶風丞李禹表

    右扶風丞李禹表は、『金石続編』には右扶風丞李君通閣道記とありますが、別名に李寿刻石、扶風丞李君刻石、李事改斜大台刻記ともいわれ、きまった題名がありません。

    刻されたのは155年(永寿元年)とされていますが、126年(永建元年)とされる説もあります。

    この作品も褒斜道石門西壁に刻されていて、開通褒斜道刻石の近くにあります。

    碑面の大きさは小さく、縦72㎝、横42㎝で題名の「表」の1文字が大きく書かれています。
    行数は7行で各行10~13字となっているようですが、磨滅がひどく確かな字数はわかりません。

    内容は、李禹という人がけわしい桟道さんどうを修復したという功績を記したものです。

    書風は、楊淮表紀ととても良く似ていて、少し小さめで、稚拙古雅で懐も広く、野趣に富んでいます。楊淮表紀より整っているようにもみえます。

    石はすでに漢中修道のために壊されてしまっています。  

    石門閣道題名二種

    盪寇将軍李苞通閣道題字

    盪寇将軍李苞通閣道題字は、褒城県北の石門の褒斜道の褒谷の南端にあり、263年(魏景元4年)に刻され、南宋時代の1194年(紹熙5年)南鄭令なんていれい晏袤えんぼうによって発見されました。

    内容は、褒谷にそって北から南に行く褒城に出る道がつくられていますが、それに閣道を通じたことを記念したものです。

    行数は3行で、1行目、3行目が14字、2行目が10字です。

    書風は素朴古拙です。各行が左に張るように反って、大小、長短さまざまです。

    潘宗伯等造橋格題字

    潘宗伯等造橋格題字は、270年(晋泰始6年)に刻されたものです。

    1行20字、ただし下の2字は不明。

    1つ上で紹介した盪寇将軍李苞通閣道題字の右上に斜めに刻されています。

    題記の年号の泰始6年の「治」が明らかでないため異説もありましたが、現在は泰始に定着しています。

    石門銘

    ここまで紹介した碑はすべて隷書ですが、この石門銘は楷書で書かれています。

    北魏時代、509年(永平2年)の刻で、同じ石門に刻られ、王遠の署名があります。

    行数は28行、毎行22字。

    最初に石門銘の3文字が書かれていますが、これは石の破損の関係からだいぶ下に下がって刻られています。

    内容は、石門頌などと同じく、石門の修復を記念するもので、正始年間長く使われていなかった旧道を、假節龍驤将軍梁秦二州刺史羊祉ようしが左校令賈三徳かさんとくとともに修理して開通させた功績を称えたものです。

    書風は、一応楷書に分類されますが、楷書の概念を破ったような伸びやかな姿で、かつ篆隷草の筆意を兼ねた躍動的やくどうてきなものです。前半は右に流れるように各行が移行し、下に行くにしたがって個々の字も左にかたむき、いかにも自然な率意そついの自由さが感じられます。

    臨書作品制作に使える石門頌の全文拓本画像

  • 日本の隷書の歴史/日本で隷書が書かれるのはいつごろから?どうして隷書が書かれるのか?

    日本の隷書の歴史/日本で隷書が書かれるのはいつごろから?どうして隷書が書かれるのか?

    隷書は、古代中国で正式書体として使われていた書体です。やがて楷書が正式書体となりました。

    4世紀後半、日本に漢字が伝わるころには、すでに5書体(楷書・行書・草書・隷書・篆書)すべてが完成しており、隷書は日本で正式書体として使われることはありませんでした。

    では、日本で隷書が使われるようになるのはいつごろからなのでしょうか?またどうして隷書が書かれたのでしょうか?
    日本の隷書の歴史を紹介します。

    日本の隷書の歴史の流れ

    日本において隷書は、室町むろまち時代以前はほとんどみられません。わずかに扁額へんがくの文字の中にいくつかそのすがたをとどめているだけです。

    書道の作品として鑑賞できるものは主に江戸えど時代に入ってからです。
    しかし江戸時代では、まだ隷書を学ぶにも良い拓本が少なく不便でした。そんな中でも、当時の書道家たちは隷書の作品を制作していました。

    次の明治時代に入ると、中国しんから多くの碑版法帖ひばんほうじょうがもちこまれ、隷書の拓本が充実し、隷書をよくする書道家がでてきました。

    つまり、日本で隷書が使われる理由としては、実用的に扁額などの題字に適していることが挙げられます。厳粛げんしゅくさと堂々たる威風いふうを誇示した隷書の雰囲気は、力強く印象づけて大きく表示する必要のある題字の文字に適していたのです。
    また別の理由として、江戸時代からあらわれはじめた書道家による芸術作品制作という文化的な営みにおいて、隷書という書体を題材に作品制作が行われるようになったことがきっかけと考えられます。

    現在でも、隷書は日常的に使われる書体ではありませんが、芸術作品や実用面では看板やお札などの特殊な場面で使われています。

    江戸時代の隷書

    江戸時代は隷書の拓本が貴重だった

    江戸時代は、隷書を学ぶにも良い拓本が少なく不便でした。

    隷書について知られるようになったのは、細井広沢の門下の関思恭が宋の婁機の「漢隷字源かんれいじげん」6巻を刊行したのが18世紀の中頃、宝暦おうれきあたりからです。

    1792年(寛政4年)には浪華ろうか鎌田環斎かまたかんさいしん顧藹吉こあいきちの「隷辨れいべん」上下巻を編集しています。その序文じょぶん奥田元継おくだげんけい沢田東江さわだとうこうが書いています。
    沢田東江は序文で「今よりのち、隷文の学、鴻都の旧に復す」といって、この本が刊行されたことによって隷書の正しいすがたが明らかに示されたことを称賛しています。

    この本の広告欄には、「隷続」10冊、「隷釈」8冊、「隷辨」8冊、「隷字彙」15冊お刊行を予告しています。
    これをみると、このころには隷書の研究がようやく深められ、その名著がつぎつぎに刊行される計画だったことがわかります。

    江戸時代に使われていた拓本「夏承碑」

    夏承碑
    夏承碑

    江戸時代に使われていた拓本として代表されるのは「夏承碑かしょうひ」です。

    夏承碑かしょうひ」というのは、中国みん時代になって原石を失い、復刻したときに蔡邕さいようの作品としたものです。今日でもそう時代の拓本とされるものがありますが、漢隷かんれいの特色がとぼしく、原石からとった拓本かどうか疑わしいところがあります。

    当時、「漢隷字源かんれいじげん」や「隷辨れいべん」のような専門書が刊行されていながらも、なおこのくらいのものしかみられなかったのです。

    1765年(明和2年)刊行の「汲古館書則きゅうこかんしょそく」に隷書としてのっているのも「夏承碑」です。
    法帖碑版の翻刻に力を注いで多くの手本を刊行している伊勢いせ韓天寿かんてんじゅが隷書として刻したのも「夏承碑」と「曹全碑そうぜんひ」です。

    市河米庵も隷書法帖の収集に苦労した

    江戸時代においての隷書の拓本のまずしさは幕末にまでつづきました。

    碑版法帖の収集に努力した市河米庵いちかわべいあんでさえも、「曹全碑そうぜんひ」を第一とし、「礼器碑れいきひ」「西獄華山廟碑せいがくかざんびょうひ」「婁寿碑ろうじゅひ」などは清の王澍おうじゅ推奨すいしょうしているがどれもまだ見ることができていない、といっています。

    また、ほかに所持している隷書の拓本ははなはだまれなり、として、
    五鳳二年刻石ごほうねんこくせき魯孝王刻石ろのこうおうこくせき)」「郫県碑ひけんひ」「敦煌太守碑とんこうたいしゅひ」「王稚子二闕おうちしにけつ」「夏承碑かしょうひ
    の5種類を挙げています。

    これをみても、隷書の名品の拓本を手に入れることがどれだけ困難だったのかが想像できます

    このような状態であったにもかかわらず、彼は隷書のみならず各書体の資料の収集と整理にあたり、「五体墨場必携」などの著述もあります。

    石川丈山の隷書

    石川丈山の隷書
    石川丈山の隷書
    石川丈山の隷書
    石川丈山の隷書

    江戸時代初期において、京都の東北郊、一乗寺の詩仙堂に風雅な文人生活をたのしんだ石川丈山いしかわじょうざんはとくに隷書を好みました。

    彼は、その詩文をしたためる際に常に隷書を用いています。

    その書風はすぐにかれの書とわかるほど深い印象をあたえます。

    しかし、彼が学んだ隷書は本来の漢碑(隷書法帖)にみられるような書風のものではありません。それはおそらく中国みん時代に通行した手本から学んだもののように思われます。

    また、石川丈山いしかわじょうざんと同じころの儒者人見竹洞ひとみちくどうという人物にも隷書があり、石川丈山いしかわじょうざんと書風がよく似ています。また、曼殊院の良尚入道親王りょうしょうにゅうどうしんのうも、仮名をよくしていますが、隷書もよくし、それがまた石川丈山とよく似ています。
    江戸の浅草寺の額字も良尚入道親王の隷書で、松平定信の「集古十種」に紹介されています。

    浅草寺の額字

    当時、このような基本的な書法があって、それに従って隷書が書かれたことがよくわかります。
    これらの書風をみていると、漢隷(隷書法帖)の基礎の上にたっている中国の隷書から離れて、また別の情緒をかもしだしているように感じます。

    明治時代の新しい隷書

    明治めいじ時代になると、中国しんから楊守敬ようしゅけいが来日し、日本にたくさんの碑版法帖をもちこまれました。

    その後、日本と清の交流はますます頻繁になり、北碑派の書風が日本にも伝わり、隷書の書風も一変しました。

    この時代の碑文の書丹で有名な第1の人物として日下部鳴鶴くさかべめいかくが挙げられます。
    彼は清にわたって楊峴ようけんに学び、また楊守敬ようしゅけいからも学んでいます。
    彼が書いた碑の数は1000にもおよび、日本全国に広がっています。

    日下部鳴鶴くさかべめいかくの隷書では、
    東京都世田谷の豪徳寺にある「遠城顕道師遺蹟碑」
    湯島天神境内にある「湯島天神一千年祭碑」
    滋賀県水口町大岡寺にある「巌谷一六碑」
    京都妙心寺塔頭大竜院にある「小野湖山墓碑」
    などが有名です。

    彼の門下生たちは後世の書道界におおきな影響をあたえますが、そのなかにも隷書をよくした人は少なくありません。

    現代の隷書

    今日では、隷書の名跡のほとんど大部分を見ることができるようになりました。

    碑版の影印本も中国、日本でおおく出版されていますし、そう洪适こうかつの「隷釈れいしゃく」や清の翁方綱おうほうこうの「両漢金石記りょうかんきんせきき」や王昶おうちょうの「金石萃編きんせきすいへん」、楊守敬ようしゅけいの「寰宇貞石図かんうていせきず」などの著書も広く読まれるようになって、隷書の研究と鑑賞に不自由することはなくなりました。

    隷書はその本来の性質のうえから、特殊な用途をもってなお社会に生命を持ち続けているものであり、漢字が使用されているかぎり、今後も芸術作品や実用面においてもこの書体は使われていくでしょう。

  • 李邕の代表作品「李思訓碑」を紹介/臨書につかえる拓本画像/李北海

    李邕の代表作品「李思訓碑」を紹介/臨書につかえる拓本画像/李北海

    中国とう時代は、書道文化がとても発展した時代で、九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめいがつくられるなど、楷書が注目されました。

    楷書はとう時代以降、かん時代に流行した隷書れいしょにかわって正式書体として使われるようになり、今日に及んでいます。

    そのため六朝りくちょうずいとう時代の石碑にはふつう楷書が使われましたが、唐の第二代皇帝・太宗たいそうはこの習慣を破り、行書で碑文を書き、「温泉銘おんせんめい」「晋祠銘しんしめい」という行書碑の名作を残しました。

    唐時代の碑では、王羲之の文字から集字して作った集王聖教序や復福寺断碑がありますが、ほかに優れたものは少なく、この数少ない行書碑のなかで、かなり重要な位置をしめるのが今回紹介する「李思訓碑りしくんひ」です。

    李思訓碑について

    李思訓碑の全体
    李思訓碑の全体

    李思訓碑りしくんひは高さ340余㎝、幅147㎝、篆額12文字「唐故右武衛大将軍李府君碑」が冠され、碑文は30行、毎行70字で、約2000字で書かれています。

    原石はいま陜西省蒲城県にありますが、下半分の文字の摩滅がひどく、32字くらいから下はほとんど読むことができなくなってしまっています。

    李思訓碑の内容

    李思訓碑りしくんひの内容は、とう王朝の皇族であり北宋画の祖と仰がれた李思訓りしくん(651~716)の徳を称えたものです。

    李思訓碑の作者の李邕について

    李思訓碑の作者である李邕りようについて紹介します。

    李邕りようは、楷書が盛り上がるとう時代において行書の名手として第一に挙げられる人物です。

    彼は文章の作成に長けており、書体は行草を得意としたので、当時、多くの立碑に関わりました。

    その代表作品として、今回紹介している「李思訓碑」が有名です。

    碑の主人公の李思訓について

    碑文の主人公である李思訓について紹介します。

    李思訓(651~716)は隴西成紀の人。あざな建見けんけん。唐の宗室、長平王李叔良りしゅくりょうの孫、孝斌の子です。

    はじめ江都令となりますが、則天武后のとき宗室がおおく殺害されたので官を捨て去り、中宗が復位するに及んで、また宗正卿に抜擢されました。

    晩年、開元中に戦功があり、武衛大将軍となりましたが、また山水画が得意で北宋画の祖と仰がれ、その子の昭道とともに大李・小李と呼ばれました。

    開元4年、66歳で亡くなり、同8年(720)6月28日に睿宗の御陵、橋陵きょうりょうに陪葬されました。

    碑文には李思訓りしくんめいにあたる李林甫りりんぽ(林甫は思訓の弟の思誨しくんの子)の官名を記して「吏部尚書兼中書令集賢學士」と書かれていますが、林甫がこの官についたのは開元27年(4月)でることから、この碑は本人が亡くなってから20年ほど経過したのちの開元27年以降に建てられたものと考えられます。
    かりに27年とすると、李邕が62歳のときの作品ということになります。

    李思訓碑の書風

    李思訓碑の書風は、整った造形の中の明るさ、華麗さなど、王羲之の学習の成果をうかがうことができます。

    王羲之より一層縦長で、右肩上がりの目立つ、力のこもったものです。

    筆者の李邕りようの荒々しく力強い性格を思うと、いかにもその人にふさわしい気力があふれでるような書のように思われます。

    さらに細部に注目してみると、李邕りようの行書には一点一画の起筆、送筆、終筆部分にメリハリがあり、中国の初唐しょとうごろに確立された楷書の筆遣いが存分に駆使されているのを確認することができます。

    臨書に使える李思訓碑の画像

    臨書に使える李思訓碑の画像です。

    文字は1ページに3行、1行6文字に製本され、全部で61ページあります。

    碑文の約半分の1070字が残っていますが、これは碑全体の上方より36字前後を遺していることになります。

  • 消息経(しょうそくぎょう)について解説/消息経の遺品も紹介 

    消息経(しょうそくぎょう)について解説/消息経の遺品も紹介 

    消息経(しょうそくぎょう)とは

    消息経(しょうそくきょう)は、故人の供養方法の1つで、生前に送られた手紙を集めて、き返し、色紙に染めて、写経したものです。

    もともと平安へいあん時代では、手紙のことを、消息しょそこふみ書札しょさつなど、いろいろな呼び方がされていました。

    消息経しょうそくきょうという呼び方がとくに用いられるようになったのは、明治めいじ時代中期からで、美術史や書道史の学問が次第に固められていく過程に生まれた専門用語です。

    したがって、これら手紙をき返して写経したものを、今日では一般に消息経とよんでいます。

    消息経が行われた記録

    消息経のことが記録にはじめてみえるのは、『日本紀略にほんきりゃく』(886年(仁和2)10月29日条)です。

    二十九日甲戌。正二位藤原朝臣多美子薨ず。右大臣贈正一位良相の少子にして、清和天皇の女御なり。天皇入道の日、出家して尼となる。晏駕あんが(天皇が亡くなる)の後、平生賜うところの御筆の手書を収拾して、紙をつくり、もって法花経を書し、大斎会を設けて、上皇の恩徳に酬い奉るなり。

    『日本紀略』(886年(仁和2)10月29日条)

    この記録は、清和天皇せいわてんのう女御にょうご藤原多美子ふじわらのたみこが亡くなったことを伝えるものです。

    内容としては、
    清和天皇せいわてんのうとともに、879年(元慶3)5月8日、落飾らくしょくしてあま(出家して仏門にはいった女性)となりました。清和天皇は、その翌年12月4日、31歳の若さで亡くなります。追慕ついぼの情もだしがたく、この女は生前清和天皇からもらっていた自筆の手紙や文書などを取り集めて、それを料紙に仕立てて、みずから筆を運んで『法華経ほけきょう』を書写した
    といいます。

    この文章から、亡くなった人をしのんで、その人の筆跡がしたためられた紙に写経するという文化があったことがわかります。

    消息経の料紙の仕立て方

    手紙の紙を写経の料紙として仕立てるときの方法を紹介します。

    主に以下の3つの方法があります。

    1. 手紙をこん色に染めて、その上に金泥の写経をする。
    2. 手紙の反故を水に浸してつき砕き、煮て、その繊維を再度き直す。
    3. 手紙の紙をそのまま継いで、表面にそのまま直接写経する、裏面の白紙の部分に写経するもの。あるいは表面に雲母きらをぬって文字を隠して、その上に写経する。

    1番は、手紙の文字が書かれた紙をあい染汁そめしるに何度も何度も紙をけて乾かし、また浸けて乾かし、という操作の繰り返すことで染め上げたものです。
    これによって、紙がこん色になるので、もともと書かれていた手紙の文字も見えなくなります。

    消息経の遺品を紹介

    消息経の遺品を紹介します。

    1. 宝篋印陀羅尼経ほうきょういんだらにきょう 1巻 大阪・金剛寺蔵
    2. 仏説転女成仏経ぶっせつてんにょじょうぶっきょう 1巻 東京国立博物館蔵
    3. 大毘盧遮那だいぴるしゃな成仏神変加持経じょうぶつじんぺんかじきょう巻第四 1巻 奈良国立博物館
    4. 金字阿弥陀経きんじあみだきょう 1巻 栃木・輪王寺蔵
    5. 仏頂尊勝陀羅尼ぶっちょうそんしょうだらに 1巻 大東急記念文庫蔵

    1,2は平安時代の遺品、3,4,5は鎌倉時代のものです。

    宝篋印陀羅尼経

    1番の宝篋印陀羅尼経ほうきょういんだらにきょうは、さまざまな反故ほごを継いで1巻をつくり、金泥のかいを引いて、金泥きんでいで書写をしています。反故の表面に、そのまま直接写経をしています。

    反故にはいろいろなものがあり、消息(1通)・歌集(未詳・46首)・今様いまようの歌詞(13首・平安時代の歌の1つ。七五調の4句からなる。和賛をもととしたものがおおく、とくに平安末期に流行しました)・願文や結縁けちえん文などが継がれています。

    今様いまようは、後白河法皇の『梁塵秘抄りょうじんひしょう』などとともに、数少ない平安末期の今様の歌詞を補う点で貴重な遺品です。

    書写年代については、中の
    「嘉応2年(1170)8月15(日)馳疎筆了。安応聖囚最末弟砂門寂真」
    から把握できます。

    仏説転女成仏経

    仏説転女成仏経
    仏説転女成仏経
    仏説転女成仏経

    2番の仏説転女成仏経ぶっせつてんにょじょうぶっきょうは、仮名の消息2枚を継いだ、短い写経です。

    その上にじかに金泥きんでいで文字を書いています。

    消息部分は、大ぶりな仮名文字でかかれています。それを書いた人の追善のための写経供養であると考えられます。

    大毘盧遮那成仏神変加持経巻第四

    大毘盧遮那成仏神変加持経 巻第四
    大毘盧遮那成仏神変加持経 巻第四 上
    大毘盧遮那成仏神変加持経 巻第四
    大毘盧遮那成仏神変加持経 巻第四 中
    大毘盧遮那成仏神変加持経 巻第四
    大毘盧遮那成仏神変加持経 巻第四 下

    3番の大毘盧遮那だいぴるしゃな成仏神変加持経じょうぶつじんぺんかじきょう巻第四は、ふつう『大日経』とよばれるもので、7巻からなります。

    仮名の消息を継ぎ足した、長い1巻です。

    両氏の両面、仮名の文字の上を雲母きらで塗りつぶしていますが、文字の判読は可能です。変転自在、流麗な仮名消息が書かれています。

    巻末にみえる、明治8年7月、東大寺惣持院住職佐保山晋円の筆によれば、仮名の消息の筆者を但馬守平経政、そして、経文の書写者は仁和寺の守覚法親王(1150~1202)といいます。

    金字阿弥陀経

    4番の金字阿弥陀経は、金銀の切箔きりはくをちりばめた華麗な装飾経そうしょくきょうです。金泥で『阿弥陀経あみだきょう』の経文を書写しています。

    本紙の第2紙あたりに、金銀の箔越しに、地紙に美しい仮名文字がみえます。読んでみると、

    あさひかげにほへるやまのさくらばな
    つれなくきえぬきかとぞみる

    と書いてあります。

    歌は新古今和歌集時代の代表歌人である藤原有家ありいえ(1155~1216)の歌で、『千五百番歌合』に収められているものです。

    仏頂尊勝陀羅尼

    仏頂尊勝陀羅尼ぶっちょうそんしょうだらには、ごくふつうの消息経です。

    この経の書写者は明らかではありませんが、珍しく巻末に奥書があります。

    承久四年三月三日丑刻、許於法性寺禅屋書写了。為過去出霊出離生死証大菩提、以後亡者手跡之裏、令写真文云々。

    もじどおり、まさしく「過去の出霊出離生死証大菩提」のための写経で、供養の意趣が述べられています。

    このほか、たとえば、鳥取・大雲院に蔵されている「金字法華経」巻第2・第4(重要文化財)などのように、紙の裏の消息と、表面の写経とが1人によって書かれたという、珍しい遺例もあります。
    これは、伏見天皇ふしみてんのうが、みずから逆修ぎゃくしゅ(生きているうちに、自分の冥福を祈る仏事をすること)のために、身辺に散乱する自身の消息をあつめて料紙をつくり、その裏面に金泥で写経をしたものです。