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  • 皇甫誕碑(こうほたんひ)について解説/特徴・書き方/臨書に仕える全文画像も掲載/欧陽詢の楷書作品

    皇甫誕碑(こうほたんひ)について解説/特徴・書き方/臨書に仕える全文画像も掲載/欧陽詢の楷書作品

    皇甫誕碑について解説

    皇甫誕碑の原碑
    皇甫誕碑の原碑
    皇甫誕碑
    皇甫誕碑#1 タップ/クリックで拡大

    皇甫誕碑こうほたんひは、皇甫誕という人物の功績をたたえる内容の碑です。

    碑文は于志寧うしねいが撰文し、文字は欧陽詢おうようじゅんが揮毫しました

    碑が建てられた年月の記載がないため、欧陽詢おうようじゅんが何歳のときの作品なのかは分かりませんが、晩年のころとされています。

    額に篆書てんしょの題字12字「隋柱国弘義明公皇甫府君碑」が陽刻され、碑文は28行、毎行59に並べられています。

    欧陽詢おうようじゅんの楷書作品の中でもとくに、文字の線が細めに彫られています。

    皇甫誕について

    皇甫誕碑
    皇甫誕碑#2

    碑の主人公、皇甫誕こうほたんについて紹介します。

    皇甫誕こうほたん(554~604)はずい王朝に仕えた名臣で、あざな玄憲げんけん、安定朝那(陝西省)のひとです。

    官としては、まず広州刺史、益州総管府司法を授けられ、つぎに治書侍御史に移り、大理少卿、尚書右を授けられ、やがて河北河南道の安撫大使となり、その功によって尚書左丞しょうしょさじょうという高位にまでのぼりました。

    晩年にいたり、楊諒ようりょう幷州へいしゅうに兵を起こして反乱したとき、彼は節を守ってそれに従わず、しばしばその非を諫め、かえってりょうの軍に敗れて殺害されてしまいます。仁寿じんじゅ4年9月、51歳のときでした。

    ずい煬帝ようだい(隋朝の第2代皇帝)は深くこれをなげき悲しみ、柱国左光禄大夫を贈り、弘義都公に封ぜられ、明公めいこうおくりなされました。

    やがて唐代になると、皇甫誕の子・無逸むいつが父の功績や善行などをたたえて世間に知らしめるために建てたのがこの「皇甫誕碑」です。

    皇甫誕碑は欧陽詢が最晩年期に書いた作品とされる

    皇甫誕碑
    皇甫誕碑#3

    皇甫誕碑こうほたんひには立碑年月の記載がなく、その年代が問題となっています。

    しかし、筆者欧陽詢おうようじゅんの官名に銀青光禄大夫とあり、別の作品の「温彦博碑おんげんばくひ」にもこの官名があるので、温彦博碑おんげんばくひとほぼ近い年、すなわち貞観じょうがん11年(637)前後の作品と考えられています。

    欧陽詢おうようじゅんは557年~641年の85歳まで生きた人なので、637年は最晩年期にあたります。

    皇甫誕碑の特徴・書き方

    皇甫誕碑
    皇甫誕碑#4

    皇甫誕碑こうほたんひを書いた欧陽詢の楷書は「楷法の極則」といわれ、美しさと緻密さを兼ね備えています。

    欧陽詢の楷書では、九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめい化度寺碑けどじひ温彦博碑おんげんはくひ皇甫誕碑こうほたんひの4作品がありますが、今回紹介した皇甫誕碑こうほたんひは、とくに右上がりが強く、字形が緊密で、筆画もとくに力強いです。

    欧陽詢おうようじゅんの楷書の特徴については、こちらの九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめいについての記事でくわしく解説しています。↓

    皇甫誕碑
    皇甫誕碑#5 タップ/クリックで拡大
    皇甫誕碑
    皇甫誕碑#6
    皇甫誕碑
    皇甫誕碑#7
    皇甫誕碑
    皇甫誕碑#8
    皇甫誕碑#9
    皇甫誕碑#9
    皇甫誕碑
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    皇甫誕碑
    皇甫誕碑#14
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    皇甫誕碑#15
    皇甫誕碑
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    皇甫誕碑
    皇甫誕碑#24
  • 温彦博碑(おんげんはくひ)について解説/欧陽詢の楷書作品

    温彦博碑(おんげんはくひ)について解説/欧陽詢の楷書作品

    温彦博碑について

    温彦博碑の原碑
    温彦博碑の原石

    とう太宗たいそう皇帝の墓地、昭陵しょうりょうの周囲には、陪葬ばいそうを許された功臣の石碑が多く建てられています。

    温彦博碑おんげんはくひは、その昭陵しょうりょう陪葬ばいそうを許された功臣の石碑の1つです。

    虞恭公碑ぐきょうこうひ」「温虞公碑おんぐこうひ」とも呼ばれています。

    碑の銘文は当時の大官、岑文本(595~645)が撰文し、欧陽詢おうようじゅんが揮毫しました

    欧陽詢おうようじゅんが81歳の時でした。

    原石は陝西省せんせいしょう醴泉県れいせんけんに現存しています。

    温彦博という人物について

    温彦博碑おんげんはくひの「温彦博」とは人の名前です。

    温彦博(574~637)は山西併州祁県の人です。字は多臨たいりん

    はじめはずい(唐の前王朝)に仕えていましたが、とうになると貞観じょうがん4年(630)中書令となり、虞国公に封ぜられ、貞観10年(636)尚書右僕射にのぼり、翌年6月に亡くなりました。

    亡くなったその年の10月、昭陵に陪葬されました。

    温彦博碑の石碑

    温彦博碑は良質な石灰岩で、石碑の大きさは高さ378㎝、幅115㎝という大きな碑です。螭首ちしゅの中央に篆書の題額16字「唐故特進尚書右僕射虞恭公温公之碑」が4行4字ずつ井格の中に陽刻されています。

    このことから「虞恭公碑ぐきょうこうひ」「温虞公碑おんぐこうひ」とも呼ばれています。

    また、文字は36行、毎行77字に並べられ、本来は2800字に近い長文だったとされていますが、かなり以前から碑の下半分の損傷が目立ちます。

    もっとも古いそう拓本でさえも文字が明瞭なのは上から二十数段のみで、残っている文字数は多いものでも700字程度です。

    温彦博碑の拓本画像

    温彦博碑の拓本を紹介します。

    写真は上海博物館に収蔵されている北宋ほくそう時代に採られた拓本です。

    現在知られる拓本の中ではもっとも古く、文字ももっとも見やすいものです。

  • 化度寺碑について解説/欧陽詢の楷書作品

    化度寺碑について解説/欧陽詢の楷書作品

    化度寺碑について解説

    化度寺碑 敦煌本
    化度寺碑 敦煌本

    化度寺碑けどじひは、ずいとう間における三階教さんがいきょうの名僧、邕禅師ようぜんじを葬った舎利塔しゃりとうの銘文が書かれていいます。

    正しくは「化度寺碑故邕禅師舎利塔銘」といいます。

    銘文は李百薬りひゃくやくが撰文し、文字は欧陽詢おうようじゅんが書きました

    欧陽詢が75歳の時の作品です。

    銘文に書かれている邕禅師とは

    化度寺碑けどじひ邕禅師ようぜんじという人を葬った銘文と紹介しましたが、邕禅師ようぜんじについて紹介しておきます。

    邕禅師ようぜんじは、俗姓は郭氏かくし、山西太源介休の人。

    13歳のときに出家します。三階教さんがいきょうの開祖信行しんぎょう禅師とともにこの宗教団体の指導者として活躍し、貞観じょうがん5年(631)11月6日、化度寺において89歳で亡くなりました。

    邕禅師ようぜんじの遺令により、霊魂を終南山麓の鴟鳴阜しめいふに奉送し、信行禅師の霊塔の左側に塔を建立し、その舎利が収められました。

    このとき唐の太宗たいそう皇帝は深く追悼の意を表し、はくを贈って追善したといいます。当時三階教さんがいきょうが迫害されていたにもかかわらず、欧陽詢おうようじゅんという最高の人に文字を書いてもらえたのは、このように太宗たいそう皇帝の後援があったからでしょう。

    邕禅師が信教した三階教とは

    僧侶である邕禅師ようぜんじが信教した三階教さんがいきょうというのは、ずい時代の信行しんぎょう(540~594)が創設した仏教の一派です。

    仏法を、一乗仏法、三乗仏法、普法仏法の三階にわけ、末法の現世は普法仏法により救済されるという教理に立つものです。

    これまでの仏教を改めてとにかく奇行が多かったため、隋の文帝ぶんていにより開皇20年(600)この宗派は異端として禁止され、とう時代に入っても制限を受け、唐の中頃についにこの宗派三階教さんがいきょうは消滅しました。

    化度寺碑の拓本を紹介

    化度寺碑けどじひは有名な拓本が2つあります。

    • 敦煌本とんこうぼん
    • 孟揚旧蔵本もうようきゅうぞうぼん

    それぞれ紹介していきます。

    敦煌本

    化度寺碑 敦煌本
    化度寺碑 敦煌本

    敦煌本とんこうぼんは唐時代に採られた拓本で、西域敦煌とんこうから出土したものです。

    20世紀初頭、イギリスのスタインや、フランスのペリオが行った中央アジア探検によって発掘されました。

    拓が採られた年代は書かれていませんが、敦煌とんこうで発掘されたという背景からとう時代に採られた拓本であるとされ、もっとも古い拓本です。古い拓本ほど欧陽詢の正しい姿を示すものということになります。

    もっとも古い拓本にもかかわらず欠文があることから、原石が唐時代においてすでに断裂していたことが分かります。

    全部で6枚表裏で12ページあり、毎ページ4行、毎行5字、あわせて236文字あります。

    ペリオが発見した前2ページ分はパリの国立図書館に、スタインが発見した10ページ分はロンドンの大英博物館に収蔵されています。

    ペリオ本1枚目の寸法は縦12㎝・横8.6㎝です。

    孟揚旧蔵本

    化度寺碑 孟揚旧蔵本
    化度寺碑 孟揚旧蔵本

    別のもう1つの拓本は、孟揚旧蔵本もうようきゅうぞうぼんです。

    中国のみん時代初期の詩人、王偁おうしょうあざな孟揚もうよう)の旧蔵本で、しん時代になると陳崇本ちんすうほん成親王せいしんおう呉湖帆ごこほんらの手をへて、現在は上海しゃんはい図書館に保管されています。

    帖のなかに王偁をはじめ、翁方綱おうほうこう英和えいか、陳崇本らの監蔵印がみられ、帖の後には翁方綱、成親王らの跋文があります。

    欠字の場所や文字の細部は敦煌本と一致しており、しかも敦煌本とんこうぼんよりも文字数がおおいです。

    清の金石学者翁方綱おうほうこうは化度寺碑にもっとも心酔した人で、この塔銘の復元作業を試みており、それによると銘文は34行、毎行33字、全1089字からなり、文字が書かれている面は高さ75㎝・幅80余㎝で、ほぼ正方形の墓誌に近い形式になっています。

    化度寺碑の特徴・評価

    化度寺碑は、欧陽詢の楷書作品の中でも字粒が小さく、書風は平静で高い風致を誇っており、筆の勢いや心の躍動を極力抑えています。

    この作品について、そう時代において書の鑑定に優れた姜夔きょうきは「化度寺碑は九成宮醴泉銘より優れている」といい、また趙孟堅ちょうもうけんは「化度寺碑と九成宮醴泉銘は楷書の第一」と推奨しています。

    唐の楷書としては、古来、欧陽詢おうようじゅん化度寺碑けどじひ九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめい虞世南ぐせいなん孔子廟堂碑こうしびょうどうひの3碑が最も優れたものであると言われています。しかし、これほど重きを置かれている碑であるにもかかわらず、化度寺碑けどじひは原石が早くそう代になくなってしまったためか、実際にはあまり知られていないようです。

  • 欧陽詢の楷書作品4つすべてを紹介/九成宮醴泉銘・化度寺碑・温彦博碑・皇甫誕碑

    欧陽詢の楷書作品4つすべてを紹介/九成宮醴泉銘・化度寺碑・温彦博碑・皇甫誕碑

    欧陽詢おうようじゅんは、とう時代に楷書の典型を確立した人物です。

    そんな彼の遺した楷書作品は、以下の4つが伝わっています。

    • 九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめい(貞観6年・632)
    • 化度寺碑けどじひ(貞観5年・631)
    • 温彦博碑おんげんはくひ(貞観11年・637)
    • 皇甫誕碑こうほたんひ(貞観年間)

    どれも唐の貞観じょうがん年間、欧陽詢おうようじゅんが75~81歳という晩年期に書かれたものでした。

    今回はこれら欧陽詢の代表作品4つについて紹介していきます。

    九成宮醴泉銘

    九成宮醴泉銘
    九成宮醴泉銘

    九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめいは、当時の皇帝・太宗たいそうが離宮である九成宮きゅうせいきゅう内に湧きでた醴泉れいせんにちなみ、太宗の徳治を称える内容の記念碑です。

    陽刻ようこくの篆書2行の題額があり、本文は24行、1行50字で書かれています。

    石碑は陝西省せんせいしょう麟遊県りんゆうけんに現存しています。

    欧陽詢のもっとも有名な作品で、「楷書の極則」と言われています。

    九成宮醴泉銘についてはこちらで詳しく紹介しています。↓

    化度寺碑

    化度寺碑敦煌本
    化度寺碑敦煌本

    化度寺碑けどじひは、三階教さんがいきょうの名僧で、89歳で亡くなった邕禅師ようぜんじの墓銘です。

    拓本は伝わっていたのですが、石ははやくになくなり、寸法は不明でしたが、この作品に夢中になった翁方綱おうほうこうは、拓本から復元し、約70×80㎝、34行、1行33字と推定しました。

    字の大きさは欧陽詢の作品中もっとも小さいです。

    化度寺碑についてはこちらで詳しく紹介しています。↓

    温彦博碑

    温彦博碑
    温彦博碑

    温彦博碑おんげんはくひは、378×113㎝の大きな碑で、陽刻の篆書4行の題額があります。

    碑文は36行、1行77字で入れていましたが、下方の破損がひどく、伝わっている宋拓本でも700字ほどです。

    この作品を翁方綱おうほうこうは「化度・九成両碑の妙を兼ねているが、どちらにもおよばない」と評価しています。欧陽詢はこのときすでに81歳です。さすがに眼も集中力も衰えてきていたのでしょうか。

    温彦博碑についてはこちらで詳しく紹介しています。↓

    皇甫誕碑

    皇甫誕碑 

    皇甫誕碑こうほたんひは、皇甫誕の頌徳しょうとくの墓碑です。

    陽刻の篆書3行の題額があり、本文は28行、1行59字です。

    この碑が建てられた年代については様々な説があり、定説はありません。

    書風はきつい背勢で右肩上がりが強いため、冷厳さに特徴があります。

    皇甫誕碑についてはこちらで詳しく紹介しています。↓

  • 日本の書流の流れについて解説【世尊時流・法性寺流・青蓮院流】

    日本の書流の流れについて解説【世尊時流・法性寺流・青蓮院流】

    日本の書流文化の原点は平安初期に活躍した空海くうかいです。

    空海は中国(唐)に渡って、中国の書風を日本に持ち帰りました。

    その空海が持ち帰った中国の書風を三筆さんぴつ空海くうかい嵯峨天皇さがてんのう橘逸勢たちばなのはやなり)が日本に広め、やがて遣唐使の廃止により中国文化の影響が弱まり、日本独自の文化が発展した時代になると三跡さんせき小野道風おののとうふう藤原佐理ふじわらのすけまさ藤原行成ふじわらのゆきなり)が日本独自の書風を完成させました。

    「〇〇流」という流派書道は三跡さんせきの1人、藤原行成ふじわらのゆきなりの影響によってはじまりました。

    今回は藤原行成ふじわらのゆきなりによってはじまった世尊寺流せそんじりゅう、そのつぎの書風の転換期、藤原忠通ふじわらのただみちからはじまった法性寺流ほっしょうじりゅう、江戸時代まで影響を拡大し続けた尊円法親王そんえんほうしんのうによる青蓮院流しょうれんいんりゅうについて紹介していきます。

    書流とは

    書流略系図
    書流略系図 ※クリックで拡大

    書流しょりゅうとは、和様書の流派の総称をさします。
    日本書道史上の能書家が筆法の「型」をつくりだし、その「型」が書流として受け継がれていきました。
    したがって、中国の書道の歴史上に書流という概念はありません。

    和様書は、平安時代中期に活躍した藤原行成ふじわらのゆきなりを祖とする世尊寺流せそんじりゅうからはじまり、脈流のように分派して多くの流派が誕生しました。

    数多くある流派のなかでも代表的なもの3つを紹介します。

    • 世尊時流
    • 法性寺流
    • 青蓮院流

    藤原行成からはじまった世尊時流

    小野道風おののとうふう(894~966)の時代に始まった和様の書は、その後、藤原佐理ふじわらのすけまさ(944~998)をはじめとした人々によって洗練が重ねられ、藤原行成ふじわらのゆきなり(972~1027)になって和様書道は完成しました。

    それ以降、藤原行成ふじわらのゆきなりの家系は宮廷書壇の中心として活躍していきました。

    平安時代においては、歴代の秘事ひじをうけ伝えていきながらも、個性豊かな書風が展開されました。

    この藤原行成ふいわらのゆきなりからはじまった何代にも続く書流のことを「世尊寺流せそんじりゅう」といいます。

    世尊寺流せそんじりゅうについては以下の記事で詳しく紹介しています。↓

    藤原忠通からはじまった法性寺流

    入木抄
    入木抄 ※左半分2行目から日本の書風の変遷が書かれている

    平安末期は鎌倉時代への転換期であり、政治の上で大きな変化があり、それが文化の面でもおおきな影響をもたらしました。

    書の流れにおいても、尊円法親王そんえんほうしんのうが書いた『入木抄じゅぼくしょう』によれば、
    「一条院御代以来、白川・鳥羽の御代まで、能書も非能書も皆行成卿が風也。法性寺入道出現の後、又、天下一向此様成了。後白河院依頼時分、如此。剰、後京極摂政相続之間、弥此風盛也。後嵯峨院比まで、此躰也。其間、弘誓院入道大納言等、躰がハりて人多好用之歟。是ハ法性寺関白の余風也。法性寺関白ハ又権跡を摸する也。…
    と記されています。

    つまり、藤原行成ふじわらのゆきなりの書風(世尊寺流せそんじりゅう)が1世紀半以上にわたって受け継がれてきましたが、藤原忠通ふじわらのただみち(1097~1164)という人物によって書風が一変したというのです。

    法性寺流の特徴としては、古い伝統に反発しようとした、個性的でたくましい書風です。

    その藤原忠通ふじわらのただみちの書流を「法性寺流ほっしょうじりゅう」といいます。

    法性寺流については以下の記事で詳しく紹介しています。↓

    上の書流略系図を見てもらうと、「世尊寺流せそんじりゅう」が「法性寺流ほっしょうじりゅう」の流れをくんでいますが、これは平安時代の藤原行成ふじわらのゆきなりの一系のころには書流という概念がなかったためです。

    尊円法親王による青蓮院流

    尊円法親王そんえんほうしんのうは、書道・書流の歴史を語るうえでとても重要な人物です。

    尊円法親王そんえんほうしんのうは、世尊寺家せそんじけの当主、世尊寺経尹ゆきただ・世尊寺行房ゆきふさ・世尊寺行尹ゆきただに教えを受けています。

    その生存中からすでに彼の書はとても尊重されており、亡くなった後も、彼が門跡を務めた青蓮院しょうれんいんの歴住たちによってその書風が受け継がれていきました。

    一条兼良いちじょうかねよし(1402‐1481)の『尺素往来せきそおうらい』によると、
    「和字。漢字。共に青蓮院尊円法親王の御筆を以て規範と為す。而都鄙翫之…」
    と記されています。

    つまり、仮名・漢字、ともに青蓮院しょうれんいん尊円法親王そんえんほうしんのうの筆跡をお手本とする。それは、都も田舎もこぞって珍重したといいます。

    当時の書の流行が尊円法親王そんえんほうしんおうの書法一色に塗りつぶされていたことがわかります。

    そんな尊円法親王のあとを継いだ代表的な4人、尊応准后そんのうじゅごう(?~1514)・尊鎮法親王(1504~1550)・尊朝法親王(1552~1597)・尊純法親王(1591~1653)がとくに活躍します。

    書流の流れの中では、それぞれ尊王流・尊鎮流・尊朝流・尊純流をたて、尊円法親王の尊円流を4派に分けています。

    これら尊円法親王の後の4つの流派をあわせて青蓮院流しょうれんいんりゅうという呼び方をしています。

    別の呼び方として、青蓮院が京都の粟田口あわたぐちにあることから、粟田流または粟田口流ともいいます。

    江戸時代に入って、この流派の勢いがさらにおおきくなると、御家流おいえりゅうという名前で呼ばれるようになりました。

  • 王羲之の蘭亭序(らんていじょ)について詳しく解説【臨書の書き方・特徴、何がすごい?本物は存在しない?】

    王羲之の蘭亭序(らんていじょ)について詳しく解説【臨書の書き方・特徴、何がすごい?本物は存在しない?】

    蘭亭序らんていじょは、「書聖しょせい」と呼ばれる王羲之おうぎしが353年に書いた、中国書道史上の最高傑作です。28行324字の行書作品で、酒席の即興で書かれた草稿(下書き)にもかかわらず、1700年以上にわたって「天下第一の行書」と称されています。

    この記事では、蘭亭序の書き方のコツ・行書としての特徴・歴史的背景から、本物が現存しない理由、複製本4種の比較まで、画像付きで詳しく解説します。

    蘭亭序とは?──28行324字に凝縮された書の最高傑作

    蘭亭序「八柱第三本(神龍半印本)」
    蘭亭序「八柱第三本(神龍半印本)」

    蘭亭序は、東晋とうしん時代の貴族きぞく官僚かんりょうであった王羲之(307〜365)が51歳のときに書いた行書作品です。353年(永和9年)、会稽山かいけいざん浙江せっこう紹興しょうこう市)のふもとにある蘭亭で開かれた詩会「曲水きょくすいうたげ」で詠まれた37首の詩をまとめた詩集に、王羲之が序文(前書き)として書き添えたものです。

    全部で28行、324文字。正式な清書ではなく草稿として書かれましたが、王羲之は後から清書しようとしても草稿を超える出来にならず、この一枚がそのまま後世に伝わりました。書道の世界では、意図して仕上げた「作意の書」に対し、自然体で書かれた「率意の書」に高い価値が置かれます。蘭亭序はまさに率意の書の代表格です。

    蘭亭序を書いた王羲之とは?

    蘭亭序を書いた王羲之とは?

    蘭亭序を書いた人物は、王羲之です。

    王羲之おうぎしは中国東晋時代の政治家・書道家で、その書跡は歴代の皇帝に愛好され、「書聖しょせい」と呼ばれるに至りました。中国書道の歴史の中でもっとも重要な人物です。

    楷書では「楽毅論・黄庭経などの小楷作品」、草書では「十七帖」、そして行書の最高峰がこの蘭亭序です。

    王羲之について詳しく知りたい方は「王羲之(おうぎし)について解説」をご覧ください。

    蘭亭序の基本データ(成立・文字数・書体)

    蘭亭序の基本データ
    • 成立年:353年(永和9年)3月3日
    • 書いた人:王羲之(51歳)
    • 書体:行書
    • 文字数:28行324字
    • 内容:詩会「曲水の宴」で詠まれた37首の詩集の序文
    • 場所:会稽山(浙江省紹興市)のふもとにある蘭亭
    • 参加者:41名の知識人

    行書の基本的な特徴や書き方のコツについては別の記事でも解説しています。蘭亭序を学ぶ前に行書の基礎を確認しておくと、理解がより深まります。

    では、蘭亭序を実際に臨書するうえで押さえておきたい技法を見ていきましょう。

    蘭亭序の書き方と3つの技法

    蘭亭序を臨書するうえで、押さえておきたい3つの技法を紹介します。

    • 流れを意識した自然な入筆
    • 右払いのバリエーション
    • 草かんむり艹は左右に分けて書く

    この3つの技法を習得すると、蘭亭序の行書としての美しさを再現できます。練習を重ねて、王羲之の筆跡を手本にしつつ、自分自身の書風を磨いていきましょう。

    流れを意識した自然な入筆

    蘭亭序の行書における自然な入筆の技法を解説した図

    行書は線の流れを切らさず、自然に筆を運ぶことが大切です。前の画の流れを受け、どこからでも入筆できるような自在な筆づかいを意識しましょう。

    蘭亭序の入筆における筆の動きと線のつながりの例

    起筆は、線の方向や前の画の流れから、さまざまな角度で入筆します。

    筆の先を出さずに、線の内側に隠すような起筆もあります。線の進む方向とは逆方向から軽く入筆し、強く押さえつけずに、筆の反動を活かして線を引きます。前の画の流れから、自然な筆の流れで運筆することがポイントです。

    右払いのバリエーション

    蘭亭序に見られる右払いの3つのバリエーションを比較した図

    蘭亭序の右払いには、3つの代表的な技法があります。

    ①三角形にまとめる:徐々に力を入れて線を太くしていき、線が最も太くなったところで、自然に筆を持ち上げて横へと抜きます。線の終わりが三角形の形になるように意識します。

    ②はらわずに止める:右に向かって一定の太さで線を引き、適切な位置で筆を止めます。筆を上げずにそのままの太さで終わります。筆圧を一定に保ち、均一な線を引くことがポイントです。

    ③下方向に抜く:線が最も太くなったところで、力を緩めて筆を下方向に抜きます。線の太さをコントロールしながら、自然な流れを保つことがポイントです。

    草かんむり(艹)は左右に分けて書く

    蘭亭序における草かんむり(艹)を左右に分けて書く技法の図解

    蘭亭序の草かんむり(艹)は、左右に分けて書かれています。

    草かんむりを左右に分けることで、文字が詰まりすぎず、ゆとりのある印象を与えます。これにより、文字全体のバランスが美しく整います。

    この特殊な草かんむりの書き順は、「萬」という字を参考に、横→縦→横→縦と書くとよいでしょう。

    こうした繊細な筆づかいを再現するには、筆選びも大切です。蘭亭序のような行書に合う筆の選び方は「おすすめの書道筆ランキング」で詳しく紹介しています。

    ここまで技法を見てきましたが、蘭亭序の行書には技法以上に大きな特徴があります。次は、蘭亭序が他の行書と一線を画す理由を見ていきましょう。

    蘭亭序の行書の特徴──なぜ同じ字がひとつもないのか

    蘭亭序がほかの行書と一線を画す最大の特徴は、文中に同じ字が繰り返し出てきても、すべて異なる形で書かれていることです。この変化の豊かさこそ、蘭亭序が「天下第一の行書」と呼ばれる理由の一つです。

    点画の丸みと省略

    蘭亭序は行書を学ぶうえで、まず最初に取り上げられる法帖です。基本的な点画の丸みや省略など、行書の特徴からおさらいしましょう。

    行書の5つの特徴(点画の丸み・方向の変化・線の連続・画の省略・筆順の変化)をまとめた表
    行書の特徴
    • 点画の丸み
    • 点画の方向や形の変化
    • 点画の連続
    • 点画の省略
    • 筆順の変化

    「之」を20回すべて違う形で書いた美学

    蘭亭序における同じ字(之・事・一など)の変化を比較した図

    蘭亭序324字の中で、「之」という字は20回登場します。注目すべきは、この20個の「之」がすべて異なる形で書かれていることです。

    「事」「一」なども複数回出てきますが、それぞれ少しずつ変化がつけられています。王羲之は同じ字を同じ形で繰り返すことを避け、一字一字に独自の表情を与えました。

    この「変化をつける美学」は、蘭亭序を臨書する際にもっとも重要なポイントの一つです。臨書するときは、一つひとつの「之」の違いを注意深く観察してから書くようにしましょう。

    右下がりの中心移動(字形構造)

    蘭亭序の字形における右下がりの中心移動を解説した図

    「豈」「管」「品」など上下に分かれる構造の字を見ると、下部の中心線が右に移動し、左側に傾いたような姿になっています。

    この中心線の移行は王羲之の書に共通する特徴です。この動きに注目して観察すると、王羲之の書の理解がより深まります。

    では、こうした特徴を踏まえて、蘭亭序の臨書を効率よく上達させるにはどうすればよいのでしょうか。

    蘭亭序の臨書を上達させるには

    蘭亭序の臨書は、正しい手本選び・段階的な練習・客観的なフィードバックの3つが上達の鍵です。

    段階的な練習法──まず神龍半印本から

    臨書を始めるなら、まず八柱第三本(神龍半印本)を手本にするのがおすすめです。

    神龍半印本は墨色が濃く、筆の穂先の動きや細かな筆致まで鮮明に残されています。筆遣いや字形のニュアンスを読み取りやすく、初心者の手本として最も適しています。

    神龍半印本で基本的な字形と筆遣いを習得したら、次に八柱第一本(張金界奴本)に進むと、より原跡に近い柔らかな表現を学べます。

    練習には筆の質も重要です。蘭亭序のような繊細な行書には、穂先の弾力が生きる筆を選びましょう。慣れてきたら、自分に合った筆を探す楽しみも増えます。

    的確なフィードバックが上達の鍵

    蘭亭序のような古典作品の臨書では、「お手本通りに書いているのに形が整わない」「筆が思うように動かない」と感じることがあります。そうしたとき、自分の作品を客観的に見てもらうことで、思いがけない気づきが得られます。

    SHODO FAMのオンライン書道講座では、蘭亭序のような古典作品にも対応したカリキュラムを用意しています。スマホで撮って送るだけで、コースごとの専門講師から画像とコメントによる丁寧な添削を受けられます。個人教室だと先生一人で得意分野に偏りがちですが、SHODO FAMではコースごとに専門の講師が担当するので、行書の指導も安心です。

    まずはオンラインで試してみて、自分に合うかどうかを確かめてから、通学の教室を探しても遅くありません。

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    ここからは、蘭亭序がどのような背景で生まれた作品なのかを見ていきましょう。

    蘭亭序はどんな作品か?誕生の背景と内容

    蘭亭序は、東晋の永和9年(353年)に開かれた詩会「曲水の宴」から生まれた作品です。美しい山水への賛美と、人生の儚さへの哲学的な思索が込められています。

    詩会「曲水の宴」から生まれた草稿

    蘭亭序はもともと、宴の席で詠まれた詩をまとめた詩集の「序文(前書き)」として書かれた草稿(下書き)です。

    永和9年(353年)3月3日、王羲之は会稽山かいけいざん浙江せっこう紹興しょうこう市)のふもとにある蘭亭に、41名の教養ある人物たちを招きました。

    この集まりには、のちに宰相さいしょう(総理大臣)となる謝安(しゃあん)や、文学者として名高い孫綽(そんしゃく)、王羲之の息子たちなども名を連ねていました。息子の一人である王献之もこの時代を代表する書家として知られ、父とあわせて「二王」と称されます。

    一同は3月3日のみそぎ(身を清め、けがれを取り除くこと)の儀式を行い、その後に「曲水きょくすいうたげ」という詩会を開きました。参加者たちによって全部で37首の詩が詠まれました。

    主催者であった王羲之は、これらの詩をひとつの詩集としてまとめ、その冒頭に「序文」を書き添えました。それが後に伝わる「蘭亭序」です。

    この「蘭亭序」は正式な清書ではなく、あくまで草稿(下書き)として書かれたものです。伝説によれば、王羲之はこの草稿を後から清書しようとしたものの、どうしても草稿以上の出来にならず、最終的にこの一枚がそのまま後世に伝わることとなったといいます。

    曲水の宴とは?──詩と酒を楽しむ文人たちの雅な遊び

    蘭亭図巻(万暦本)流觴曲水の宴の様子
    蘭亭図巻(万暦本)流觴曲水の宴の様子が描かれている

    曲水きょくすいうたげ」は、陰暦3月3日・上巳(じょうし)の節句に行われる行事で、古代中国の文人文化を象徴する風流な遊びです。

    参加者たちは、曲がりくねった小川のほとりに座り、その上流から酒杯を流します。杯が自分の前に流れ着くまでに詩を詠むのが決まりで、詩を完成させることができなければ、その杯の酒を飲み干すという風流な遊びが催されていました。

    この行事には「禊」としての意味合いも含まれていました。小川の水で体を洗い清めることで、災厄や穢れを祓う儀式です。蘭亭序の文中にある「禊事を修むるなり」とは、まさにこの禊のことを指しています。

    曲水の宴の起源

    「曲水の宴」の原型は、古代の政治家・周公旦(しゅうこうたん)が、洛邑(らくゆう)で流水に酒杯を浮かべたという故事に由来すると伝えられています。

    陰暦3月3日・上巳の日に水辺で身を清める「禊」の習慣は、漢代(前206〜220年)にはすでに年中行事の一つとして定着していました。

    その後、詩を詠む文人たちの宴として発展した「曲水の宴」は、西晋(せいしん)の初代皇帝・武帝(ぶてい/司馬炎)の時代(265〜290年)に文化的儀礼として形式化されました。

    王羲之が蘭亭でこの宴を催したのは、それから約一世紀後、東晋の永和9年(353年)のことです。王羲之の蘭亭序は、古くから続く禊の風習と、西晋以降に洗練された曲水の宴の形式を受け継いだ、貴族文化の精華とも言える文学的記録です。

    蘭亭序の内容:自然賛美と人生の儚さ

    蘭亭序の内容:自然賛美と人生の儚さ

    蘭亭序の内容は、東晋時代の貴族文化を背景とした文学作品です。美しい山水をこよなく賛美するだけでなく、老荘思想を匂わす清談せいだん的で、やや哲学的な人生観がちりばめられています。

    蘭亭のような美しい自然を前にすると、天地宇宙の偉大さを感じる。それに対して人間は、悲しみや喜びに左右され、長生きや早死にを心配する。そうした弱さを天地宇宙の偉大さと引き比べたとき、最後は死ななければならないという生き物のはかなさを思わざるをえない。古人(荘子)はそうした感情の営みをすべて相対化し、生も死も同じだと言ったが、むしろ人間のそうした弱さ、時間とともに変化する感情の営みを生命のありかたにこそ人間の自然があるのだ。

    最後には「時が移り事物が変わっても、後の人間がこの文章を見たなら何かを感じてくれるだろう」と締めくくります。

    蘭亭序の詳しい内容は「蘭亭序の全文現代語訳」で全文を紹介しています。

    「蘭亭序」と「蘭亭叙」の違い

    「蘭亭序」と「蘭亭叙」の違い

    文献によって「蘭亭」と「蘭亭」の表記が揺れることがあります。正しい表記は「蘭亭序」です。

    蘭亭序は詩集の序文として書かれたことから、「序(じょ)」の字がふさわしいのです。

    「叙」が使われるようになった理由は、北宋ほくそうの文人・蘇軾そしょくが、自身の祖父の名前を避けるために「序」を「叙」と書き換えたことに由来しています。

    中国には古来、避諱(ひき)という習慣がありました。亡くなった目上の人の本名に使われている漢字を口にしたり書いたりするのを避けるという儀礼的な慣習です。蘇軾が祖父の名を避けて「序」を「叙」に改めたことから、後世の人々の間でもそれに倣って「蘭亭叙」と書く例が現れるようになりました。

    本来の表記として正しいのは「蘭亭序」であり、学術的な資料や書道作品の名称としてもこの表記が一般的です。

    続いて、蘭亭序の最大の謎──なぜ本物が残っていないのかを見ていきましょう。

    なぜ蘭亭序の本物は存在しないのか

    王羲之おうぎしの直筆による真跡(しんせき)は現存していません。現在、私たちが目にする蘭亭序は、とう時代以降に制作された複製本です。

    唐の太宗と蘭亭序の伝説

    真跡が失われた理由は、唐の第2代皇帝・太宗(たいそう/李世民)にまつわる伝説にあります。

    太宗は王羲之の書を深く愛し、とりわけ蘭亭序を「天下第一の書」と称して愛蔵していました。生涯その書を手元に置いていた太宗は、自身の死後、その真跡を陵墓に納めるよう命じたとされています。

    その陵墓が、現在の陝西省にある「昭陵(しょうりょう)」です。この伝承が事実であれば、蘭亭序の真跡は太宗の棺とともに地中に葬られたことになり、今日まで誰も確認できていません

    王羲之が書いた「本物の蘭亭序」は、いまも昭陵の地下深くに眠っている可能性があります

    なお、王羲之の真跡にもっとも近いとされる法帖には「姨母帖と喪乱帖」があります。蘭亭序とはまた異なる王羲之の筆致を知ることができる貴重な作品です。

    臨模本と搨模本の違い

    現在伝わる蘭亭序の複製は、大きく2つの方法で制作されました。

    • 臨模りんも:原本を横に置いて見ながら忠実に模写したもの
    • 搨模とうも:原本を下に敷き、上から透かしてなぞり写したもの

    これらの複製本を通して、王羲之の「かつての姿」を想像することしかできないのが現状です。では、現存する代表的な複製本を見ていきましょう。

    現存する蘭亭序の複製本4種を紹介

    代表的な蘭亭序の複製本を4種類紹介します。いずれも書道史・美術史の中で特に重要とされているものです。

    • 八柱第一本(張金界奴本)
    • 八柱第二本
    • 八柱第三本(神龍半印本)
    • 定武蘭亭序(呉炳本)

    八柱第一本(張金界奴本)

    ハ柱第一本(張金界奴本)
    ハ柱第一本(張金界奴本)

    とう時代の書家・虞世南ぐせいなんによる臨模本と伝えられています。もともとは褚遂良ちょすいりょうによる模本とされていましたが、みん時代の文人・董其昌とうきしょうが「虞世南の筆致に似ている」と跋に記したことで、それ以降は虞世南の臨模とされるようになりました。

    何度か改装される過程で洗浄処理が行われており、墨の色が全体的に薄くなっています。その分、文字にはやわらかさと上品な趣きが感じられるのが特徴です。

    別称として「天暦本」(元代(1271〜1368)の内府で押された印「天暦之宝」に由来)、「張金界奴本」(本文の最後に「臣張金界奴上進」という記述があるため)があります。

    八柱第二本

    蘭亭序 八柱第二本(褚遂良の臨書とされる複製本)
    八柱第二本

    唐時代の名書家・褚遂良による模本と伝えられてきました。文字の形がやや縦長で、線質が細く繊細な印象を与える点が特徴です。

    巻末には、米芾による七言古詩(10行)、蘇耆による天聖4年(1026年)の題記、范仲淹はんちゅうえんをはじめとする宋時代の十数名の文人による観款など、著名人の題跋が数多く残されています。

    使用されている楮皮紙ちょひし(楮の皮から作られた紙)は宋代以降に多く使われた素材であることから、北宋時代(960〜1127年)ごろに制作された模本ではないかとも推測されています。

    八柱第三本(神龍半印本)

    八柱第三本(神龍半印本)
    八柱第三本(神龍半印本)

    高校の書道教科書でも取り上げられており、もっとも目にする機会の多い蘭亭序の複製本です。

    最大の特徴は、墨色が濃く、筆の穂先の動きや細かな筆致まで鮮明に残されている点です。臨書を行う際にも筆遣いや字形のニュアンスを読み取りやすく、実践的な手本として非常に優れています

    神龍半印本」の名は、唐の中宗(在位705〜707)の年号「神龍」の印が巻頭と巻末にそれぞれ半分ずつ押されていることに由来します。唐時代の印が確認できる唯一の例とされ、歴史的価値が極めて高い作品です。

    蘭亭八柱とは
    北京・中山公園にある蘭亭八柱亭の写真
    蘭亭八柱亭 朱塗りの柱が8本立ち、その内側に石碑が8つ並んで建てられている。

    「蘭亭八柱」とは、清代の皇帝・乾隆帝が収集した蘭亭序に関する貴重な墨跡本8点を、石碑として刻んだものです。

    これらの石碑は、北京にある中山公園内の「蘭亭八柱亭」に安置されています。八柱亭は、名前の通り朱塗りの柱が8本立つ八角形の建物で、その内側に8つの石碑が円形に並んで建てられているのが特徴です。

    とくに有名な八柱第一本から第三本は、唐時代に作られたとされる複製本として特に価値が高いものです。複製本の詳しい比較は「六朝時代の書風と蘭亭序の複製本3つを紹介」でも解説しています。

    定武蘭亭序(呉炳本)

    定武蘭亭序(呉炳本)
    定武蘭亭序(呉炳本)

    唐時代の書家・欧陽詢おうようじゅんによる臨書をもとに刻石されたものと伝えられています。

    唐の太宗たいそうは王羲之の蘭亭序の筆跡を残すために欧陽詢に臨書させ、宮中に保管していたといわれています。

    それからおよそ300年後の宋時代・慶暦年間(1041〜1048)「定武」(現在の河北省)で蘭亭序の刻石が発見されました。完成度の高さから「欧陽詢の臨書をもとにしたものだ」と信じられるようになりました。

    この発見にちなんで拓本たくほんは「定武本」と呼ばれ、宋時代の書家・呉炳が伝えたことから「呉炳本」とも呼ばれています。

    原石は宋の徽宗の大観年間(1107〜1110)に宣和殿に移されましたが、靖康の変(1127年)で金軍に奪われ、以降、原石の所在は不明です。

    臨書で蘭亭序を書く際は、筆選びも仕上がりに大きく影響します。行書に適した筆の選び方は「おすすめの書道筆ランキング」でまとめています。

    蘭亭序は何がすごいのか──謎に包まれた不思議な書物

    蘭亭序が書道史の中でも特に謎めいた存在とされる理由は、次の2点にあります。

    • 真跡(直筆の原本)が現存しない
    • 唐時代になってから、突如として高く評価され始めた

    蘭亭序は王羲之の死後300年以上経った唐の時代になって、文献の中に突然登場します。しかも真筆はすでに失われており、現存しているのは後世に複製された模写や拓本のみです。

    それにもかかわらず、なぜ蘭亭序はこれほどまでに神格化され、崇拝され続けているのでしょうか。

    その理由の一つは、「謎めいた存在感」そのものにあると考えられます。

    実際に蘭亭序を臨書してみると、点画の描き方や配置、文字構成の法則が一見してわかりにくく、整っているとは言いがたい部分もあります。初心者にとっては「何を学べばよいのか」がすぐには掴めないこともあるでしょう。

    さらに、蘭亭序の原本が本当に存在していたのかどうかすら不明です。複製本がどのような原本に基づき、どれほどの段階を経て模写されたのかも、正確な記録は残っていません。

    こうした「よくわからないことの連続」こそが、反論を封じ、むしろ「神秘」として長く崇拝される要因になってきたのです。※参考文献:中田勇次郎『王羲之を中心とする法帖の研究』(1960年)、『臨書を楽しむ』(2003年)ほか

    よくある質問(FAQ)

    蘭亭序は何文字ですか?

    蘭亭序は28行324字の行書作品です。353年(永和9年)に王羲之が51歳のときに書きました。

    蘭亭序の本物はどこにありますか?

    王羲之による真跡は現存していません。唐の太宗(李世民)が生涯愛蔵し、死後に陵墓「昭陵」に納めたとされています。現在私たちが目にする蘭亭序は、すべて唐代以降に制作された複製本です。

    蘭亭序の臨書はどの手本から始めるべきですか?

    八柱第三本(神龍半印本)から始めるのがおすすめです。墨色が濃く筆致が鮮明なため、筆遣いや字形を読み取りやすく、実践的な手本として最も適しています。基本を習得したら、八柱第一本(張金界奴本)に進むとよいでしょう。

    「蘭亭序」と「蘭亭叙」はどちらが正しいですか?

    正しくは「蘭亭序」です。「蘭亭叙」は北宋の文人・蘇軾が祖父の名を避けるために「序」を「叙」と書き換えた「避諱(ひき)」の習慣に由来しています。

    蘭亭序はなぜ「天下第一の行書」と呼ばれるのですか?

    唐の太宗が蘭亭序を「天下第一の書」と称して以来、中国書道史上の最高傑作として評価されてきました。「之」の字を20回すべて違う形で書く変化の豊かさ、草稿でありながらの自然な美しさ、そして真跡が失われたことによる神秘性が、その評価を支えています。蘭亭序が書かれた背景について詳しくは「蘭亭記を紹介・現代語訳」も参考になります。

    まとめ:蘭亭序を学ぶことで見えてくる書の奥深さ

    蘭亭序は、ただの歴史的な書跡ではなく、書道の奥深さや人間の精神性までも映し出す特別な作品です。たとえ原本が残っていなくても、数多くの臨模本・搨模本を通して、その精神を今に感じ取ることができます。

    「自分でも書いてみたい」と思ったら、まずは神龍半印本を手本に臨書からはじめてみてはいかがでしょうか。SHODO FAMのオンライン書道講座では、蘭亭序を題材とした丁寧な添削指導も行っています。通う前にまずオンラインで試してみて、自分に合うかどうかを確かめてみてください。

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    始平公造像記(しへいこうぞうぞうき)について詳しく解説・臨書作品の書き方・特徴、全文画像・現代語訳

    始平公造像記しへいこうぞうぞうきは、龍門造像記のなかでも特に優れた名品として「龍門四品」の1つに数えられています。

    今回は、始平公造像記について詳しく解説、臨書の書き方・特徴、釈門も紹介します。

    始平公造像記の基本情報

    始平公造像記
    始平公造像記

    始平公造像記しへいこうぞうぞうきが造られた時期は、中国の北魏ほくぎ時代 太和22年(498)9月14日です。
    大きさは縦89.0×横39.0。

    内容は、国家の平和のため石窟寺せっくつじを造ること・龍門石窟りゅうもんせっくつの創設にかかわった高僧こうそうである慧成えじょうの父・始平公しへいこうのために石像1体を造り、供養くようすることの2点について書かれています。

    作者は、書者が朱義章しゅぎしょう、撰文者が孟達もうたつ

    特徴として、ほかの龍門20品に比べて線が太いです。点画はとくに鋭く、筆遣いは側筆にみえる部分もあります。

    始平公造像記がある場所は、中国・河南省にあるユネスコの世界遺産「龍門石窟りゅうもんせっくつ」の古陽洞こようどうにあります。
    古陽洞こようどうの中のどの位置にあるかというと、北壁、上中下の3段ある大きい仏龕のうち上段、洞窟の入り口に最も近い位置にある仏龕ぶつがん(壁面に彫った仏壇)の右側に刻されています。

    仏龕の右側に刻された始平公造像記
    仏龕の右側に刻された始平公造像記 ※碑の大きさは縦89.0×横39.0。

    古陽洞こようどうについてはこちらの牛橛造像記ぎゅうけつぞうぞうきの記事で詳しく紹介しています。

    始平公造像記は陽刻で彫られている

    左:始平公造像記(陽刻) 右:牛橛造像記(陰刻)
    左:始平公造像記(陽刻) 右:牛橛造像記(陰刻)

    始平公造像記の文字は、すべて陽刻ようこく(文字の周りを彫って線が盛り上がる)でられています。

    陽刻ようこくの造像記は龍門石窟りゅうもんせっくつのなかではとくに珍しく、全体的に見てもこのような例はとても少ないです。

    本来、金石きんせきの刻字は金文きんぶんにしても石刻にしても、また、古印にしても陰刻(文字を彫って、拓本にすると文字が白い)が普通です。

    陰刻の方が作りやすく、文字の筆画が表現しやすく、保存にも適しています。碑の題額や墓誌の蓋などは陽刻の場合が多いです。この題額や墓誌の蓋などが陽刻なのは、その成立の際に最初に作られるため、とくに大切なものとして装飾的工夫がされたからではないかと思われます。

    始平公造像記の「始平公」ってどういう意味?

    始平公造像記の「始平公」とは人物のことです

    始平公の「始平」は、地名(扶風郡、南白水郡どちらかの郡に属する県であるとされ、詳細は分かっていない)のことで、「公」はその地の公務に就いている人のことです。

    この始平公が具体的に誰だったのかについでは、いろいろな伝記で推測されており、脩義・馮熙・賈儁などという人物が挙げられていますが、生きていた年代や当時の役職がずれていることから確かな情報はわかっていません。

    始平公造像記の臨書作品の書き方・特徴

    始平公造像記をはじめとする龍門造像記の特徴は「方筆ほうひつ」といわれ、激しい筆づかい、鋭角的な三角線、右肩上がりの力強い構成に注目されます。

    臨書の際、この「方筆ほうひつ」を表現するためにはどのような点に気をつけるとよいのでしょうか。解説します。

    横画・縦画

    始平公造像記の縦画と横画の書き方
    始平公造像記の縦画と横画の書き方

    横画は、起筆から直角に近い角度で右へぐいぐい押していきます。
    終筆はしっかり止めて、右上へやや押してから右斜め下へ力強く抜きます。

    縦画は横画とおなじ要領でよいてしょう。鋭く入筆し、筆を前に倒しながら(引く方向と逆に)じっくりと筆圧ひつあつを加て書き進み、終筆は鋭く右下へ抜きます。側筆で力強く筆勢をつけて引き下ろすことが重要です。

    点折

    始平公造像記の点折の書き方
    始平公造像記の点折の書き方

    「石」や「四」の口の1画目は、穂先を右に向けて入り、そのまま下へ進ませていきます。

    2画目の横画から縦画へ折れる部分は、縦画と横画を連続で書くイメージです。折れた後の縦画は、筆先が左側を通るように引きおろすと、重厚な縦線を書くことができます。

    ハネ

    始平公造像記のハネの書き方
    始平公造像記のハネの書き方

    ハネは、特に鋭く、激しく、空間をしっかりおさえるようで、筆端にまで力が充実しています。

    「有」を書く場合、1度筆を止めて力を蓄え、はねるというよりも、はねだしたいところまで筆を運ぶ気持ちです。モップを押すように筆を書く方向と逆側に倒すイメージで書いてみるのもよいでしょう。

    右ハライ

    始平公造像記の右ハライの書き方 ※右が九成宮醴泉銘の「大」
    始平公造像記の右ハライの書き方 ※右が九成宮醴泉銘の「大」

    始平公造像記しへいこうぞうぞうき九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめいの右ハライを比較してみると、始平公造像記の方はかなり激しい線で書かれています。

    起筆から徐々に筆圧を加えていきます。そして払う手前で止め、いったん左へ筆を押し返し、肉をしっかりとつけて長く払います。

    九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめいのようにきれいな三角形をつくろうとしたのではこの勢いは表現できないでしょう。形を気にせず、方向を決めたら一気に払う気持ちで書きましょう。

    始平公造像記の点の書き方
    始平公造像記の点の書き方

    造像記の点は特殊な書き方をします。

    ノミで石にりこんだような三角形状になっています。
    これを臨書する場合、右上から左下に向かって進ませて三角形をつくったり、下から右上へはね上げながらつくったりするとよいでしょう。

    始平公造像記の上達には道具も大切

    ここまで始平公造像記しへいこうぞうぞうきの書き方を紹介してきましたが、これらの技法や筆づかいを表現するためには、適切な道具が不可欠です。
    特に筆の選び方は非常に重要です。適切な筆を使わないと、上達しないばかりか、間違った方法を覚えてしまうこともあります

    もし、「お手本通りにうまく書けない…」や「筆が思うように動かない…」と感じる方は、普段使っている筆を見直してみると良いかもしれません。

    書道筆「紫乃」は、その書きやすさと使いやすさから、多くの書道愛好者に支持されています。
    筆選びで迷っている方は「書道筆『紫乃』の魅力:初心者からプロまで愛される万能筆の秘密」を参考にしてみてください。

    始平公造像記の臨書に使える画像・釈門・現代語訳

    始平公造像記
    始平公造像記

    (夫靈蹤□啓。則攀宗靡尋。容像不陳。則崇之必□。)
    そもそも釈迦しゃかの行跡があらわされなければその教えを求めようとしても手掛かりがなく、仏像が造られなければ崇拝したくてもできない。

    始平公造像記

    (是以真顏□於上齡。遺形敷于下葉。)
    そこで釈迦は上古の昔に出現され、そのお姿を後世にのこされたのである。

    始平公造像記

    (曁于大代。茲功厥作。比丘慧成。自以影濯玄流。邀逢昌運。率渴誠心。)
    いまこのすばらしき御代みよに至って、お姿を造ろうとしているそのとき、比丘びく慧成えじょうは身を仏教界に置き、国家の昌運にうことができた。

    始平公造像記

    (率渴誠心。為國造石窟時。□糸答皇恩。有資来業。)
    そこでまごころをくし、国のために石窟寺を造り、わすかでも天子の御恩におこたえし、来世らいせの善業に役立てようとする。

    始平公造像記

    (父使持節光祿大夫洛州刺史始平公。奄焉薨放。)
    突然、我が、父、使持節・光禄大夫・洛州刺史の始平公しへいこうが逝去された。

    始平公造像記

    (仰慈顏。以摧躬□。匪烏在□。)
    父の慈顔を仰ぎ見れば、身もくだける思いである。

    始平公造像記

    (遂為亡父作石造一區。)
    そこで亡き父のために石造1体を造った。

    始平公造像記

    (願亡父神飛三□。智周十地。□玄照。則万有斯明。震慧嚮。則大千斯瞭。)
    願わくは、亡き父の霊の魂が解脱げだつし、その智慧ちえ十地じっちにあまねく、奥深いかがやきは万物を照らし、さとき仏の境地で三千世界を輝かさんことを。

    始平公造像記

    (元世師僧。父母眷屬。鳳翥道場。鸞騰兜率。)
    あわせて過去世かこせいの師僧および父母ふぼ眷属けんぞくが仏道に入り、おおとりらんのように兜率天とそつてん弥勒菩薩みろくぼさつが住む浄土)に飛翔せんことを。

    (若悟洛人間。三槐獨秀。九棘雲敷。)
    もし誤ってふたたび人間に生まれるのならば、三公や九卿のような高貴の人になって栄えんことを。

    始平公造像記

    (五有群生。咸同斯願。)
    訖すべての人々もこの願いを同じにせんことを。

    始平公造像記

    (太和廿二年九月十四日訖。朱義章書。孟達文。)
    太和22年(498)9月14日完成。朱義章しゅぎしょうの書、孟達もうたつの文。

  • 牛橛造像記(ぎゅうけつぞうぞうき)について詳しく解説/作者・内容・全文釈門/評価も紹介

    牛橛造像記(ぎゅうけつぞうぞうき)について詳しく解説/作者・内容・全文釈門/評価も紹介

    牛橛造像記きゅうけつぞうぞうきは造像記のなかでもっとも代表的なものです。

    造像記の書法を学びたい人は、まず牛橛造像記から練習すると良いでしょう。

    今回は、そんな造像記のなかでもっとも代表的な牛橛造像記について解説していきます。

    また、造像記の正しい書き方について知りたい方は始平公造像記(しへいこうぞうぞうき)について詳しく解説・臨書作品の書き方・特徴、全文画像・現代語訳をチェックしましょう。

    牛橛造像記の基本情報

    牛橛造像記
    牛橛造像記 ※クリック/タップで拡大

    牛橛造像記(ぎゅうけつぞうぞうき)は、正しくは「長楽王丘穆陵亮夫人尉遅為牛橛造像記」と、とても長い呼び方をします。

    牛橛造像記が建てられた時代は北魏ほくぎの時代、太和19年11月(495)。龍門石窟のなかでもっとも古い造像記です。

    作者は分かっていません。

    場所は、中国・河南省にあるユネスコの世界遺産「龍門石窟りゅうもんせっくつ」の古陽洞こようどうにあります。

    内容は、息子を亡くした母親が冥福めいふく(故人の死後の幸せ)を祈る文章が書かれています。

    特徴としては、どの字も直線的で角張った形をしています。

    碑の大きさは66.0×33.4㎝、縦が約1メートルの大きさです。

    牛橛造像記の碑がある古陽洞について

    古陽洞
    古陽洞

    古陽洞こようどうは、龍門石窟りゅうもんせっくつのなかでもっとも古く、またもっとも大きい規模をもつ幅約6.8m、奥行約13m、高さ11mのドーム状の石窟せっくつです。

    北魏・太和年末に比丘慧成びくえじょうが国家のために造営しました。

    正面の奥の壁には釈迦仏と見られる坐像(座っている仏像)を中心として、両脇に立像菩薩ぼさつ(立っている仏像)がつくられています。

    左右(南北)の壁面は上中下3段に分かれており、上中段には大きい仏龕ぶつがん(壁面に彫った仏壇)が左右4つずつ連ねています。下段にも仏龕ぶつがんはあるのですが、未完成のものもあり、この部分は本尊が完成したあとに追加でつくられたもののようです。

    仏龕の右側に刻された牛橛造像記
    仏龕の右側に刻された牛橛造像記

    この左右の仏龕ぶつがんには造像記を彫ったものがあり、その中には龍門造像記の名品「龍門二十品」のうち19品がここに収められています。牛橛ぎゅうけつ造像記ぞうぞうきは、古陽洞北壁上層部、古陽洞の入り口にもっとも近い仏龕ぶつがんに彫られています。

    この上中下3段の大きい仏龕の中間にも、たくさんの小さい仏龕ぶつがんが散在しています。なかには造像記が彫られているものもあります。また、洞に入って前後(南北)の壁上部にもたくさんの小さめの仏龕が造られています。これらを千仏といいます。

    牛橛造像記の文字は、手書きにでは表現できない形状をしている

    牛橛造像記の三角形の起筆、直線的な棒状の送筆部分、これは石を刻ることによって出現した形状で、手書きにはありえない極端な形状をしています。

    同じ時代の残っている肉筆の文字と見比べてみると、忠実に再現することをめざして刻られた文字というよりも、明らかに彫刻による変形をともなった文字です。

    この刻られた文字に下書きがあったのかどうかはわかりませんが、書かれた文字と刻された文字の間に大きな差があっただろうと推測されます。

    牛橛造像記の内容・全文釈門

    牛橛造像記の内容は、息子を亡くした母親が冥福めいふく(故人の死後の幸せ)を祈る文章が書かれています。

    以下、釈門↓

    (太和十九年十一月。使持節司空公長樂王兵穆陵亮夫人尉遲。爲亡息牛橛。請工鏤石。造此彌勒像一區。)
    太和19年(495)11月、使持節・司空公・長楽王(役職名)の丘穆陵亮きゅうぼくりょうりょう(人名)の夫人尉遅いち氏が、亡くなった息子の牛橛ぎゅうけつのために工人に依頼して石を彫り、この弥勒像みろくぞう(仏像)1体をつくらせた。

    (願牛橛捨於分段之鄉。騰遊无礙之境。)
    願わくは、我が子牛橛輪廻りんねの迷いの境界を離れ、自由自在の天上界に遊ぶように。

    (若存託生。生於天上諸佛之所。)
    もし託生たくしょうできるならば、天上の諸仏のところに生まれるように。

    (若生世界。妙樂自在之䖏。)
    もしこの世に生まれ変わるならば、この上なく楽しく自由なところであるように。

    (若有苦累。卽令解脱。)
    もし苦患があるならば、すみやかに解脱げだつするように。

    (三塗惡道。永絶因趣。)
    三悪道(地獄・餓鬼・畜生)と永遠に絶縁するように。

    (咸蒙斯福。)
    一生の生きとし生けるもの、みのこの福をうけるように。

    丘穆陵亮について

    本文に出てくる丘穆陵きゅうぼくりょうりょうという人物について解説しておきます。

    丘穆陵きゅうぼくりょう族の複姓で、漢人の習慣に従ってぼく氏と呼ばれます。

    北魏ほくぎ(国)に仕えた臣下しんかで、帝室とは代々婚姻関係を結んでいます。

    丘穆陵 りょうは、あざな幼輔ようほといい、彼の経歴としては、北魏の第5代皇帝献文帝けんぶんてい(465~471在位)のときに任官し、侍御中散となり、中山長公主(皇族女子)と結婚し、駙馬都尉となり、趙郡王に任命され、つぎに侍中、征南大将軍となり、長楽王に任命されました。また、第6代皇帝孝文帝こうぶんてい(~499在位)のときに使持節となり、第7代皇帝宣武帝せんぶていのときに司空公となり、景明けいめい3年(501)52歳で亡くなりました。

    孝文帝こうぶんていの「弔比千墓文」の碑の裏側に、当時地位の高かった官職名が書きならべられているのですが、最高官の数名の第3位に「使持節・司空公・太子太傅・長楽公・臣江南郡丘目陵亮」と記されています。

    これを見ても、とても位の高い地位にいた人物であったことが分かります。

    このように丘穆陵亮きゅうぼくりょうりょうは権力のある人物であり、その夫人が仏教への信仰が厚かったため、亡くなってしまった息子の牛橛ぎゅうけつにむけての文章が残されることになったのです。

    牛橛造像記に対する評価

    しん康有為こうゆういは「広芸舟双楫」学叙第二十二において、
    「体方にして筆圧、画平らにして豎直じゅちょくよろしくこれ(牛橛造像記)を学ぶべし
    といって、造像記を学ぶ人の最初に選ぶべき名品としています。

    同じく清の汪鋆おういん「十二硯斎金石過眼録」巻五にも、
    書法純正にして、率更(唐の欧陽詢)の筆法によって出るところである」
    といっています。

  • 泰山刻石(たいざんこくせき)について詳しく解説・書体は?作者はだれ?

    泰山刻石(たいざんこくせき)について詳しく解説・書体は?作者はだれ?

    泰山刻石たいざんこくせき小篆しょうてんの典型として尊重されています。

    今回は、泰山刻石が作られたきっかけや特徴などを紹介します。現代語訳も紹介します。

    泰山刻石の基本情報

    泰山刻石たいざんこくせきしん始皇帝しこうていが自らの功績を記した石碑です。

    石碑の作者は李斯りしとされています。この石碑は書者の名前が分かるものとしては最も古いものです。

    書体は篆書てんしょ小篆しょうてん)。

    泰山刻石が作られたきっかけ

    秦の始皇帝は、天下統一を果たすと、地方の政治や民の生活状態を視察するために各地を巡回じゅんかいしました。

    その際に、自分の功績を記した碑を各地に建てました。

    これらすべての碑の作者が李斯りしとされています。

    嶧山刻石(紀元前219年・山東芻県東南)、泰山刻石(紀元前219年・山東泰安)、琅邪台刻石(紀元前219年・山東諸城東南)、之罘刻石(紀元前218年・山東烟台)・之罘東観刻石、碣石刻石(紀元前215年・河北昌黎西北)、会稽刻石(紀元前210年・浙江紹興東南)

    しかし、原石のほとんどは失ってしまっており、泰山刻石は幸いにも古い拓本が伝わっていますが、原石は破片2個、10字しか残っていません。

    泰山刻石の変遷

    泰山刻石の全文は『史記』(秦始皇本紀)で確認することができ、本来は222字ありました。

    しかし現在は破損がひどく、わずか10字しか確認することができません。

    どうしてそうなってしまったのかを紹介します。

    宋の大観2年(1108)、劉岐りゅうきが泰山の山頂でこの石を発見しました。

    高さは1.4メートルあったといいます。

    発見当時すでに文字の磨滅が多かったそうです。

    明時代に再び土の中から発掘され、嘉靖年間(1522~1566)に碧霞祠の東廡に移動したときにはわずか29字となっていました。

    さらに清時代の乾隆5年(1740)に火災に遭い10字だけになってしまいました。

    現在は破損し、破片2個に10字だけ確認することができます。

    そのわずかな破片2個は、現在山東省泰安県の岱廟だいびょうに保存されてます。

    泰山刻石の拓本

    泰山刻石の拓本はとても少なく、明の安国が所蔵していた、宋時代の拓本といわれる165字のもの、53字のものの2種類が有名です。

    現存する拓本の中でもっとも字数が多い165字の拓本は日本の書道博物館、次いで53字の拓本は三井文庫に所蔵されています。

    泰山刻石の特徴

    泰山刻石の文字の線は横画を水平に、縦画を垂直、一定の細さのままです。

    字の形は縦長で左右対称にまとめられています。

    文字の大きさは等しくそろえられ、丁寧で変化のない線が何とも無表情なおもむきかもしだしています。

    泰山刻石の現代語訳/日本語訳

    (皇帝臨立。作制明法。臣下脩飭。)
    皇帝は位につかれて、制度を作り法律を明らかにし、臣下は整え修めた。

    (廿有六年。初幷天下。罔不賓服。)
    26年(紀元前221)、初めて天下を併合し、服従しないものはなくなった。

    (寴䡅遠黎。登茲泰山。周覽東極。)
    皇帝はみずから遠方の人民の間を巡幸され、この泰山に登り、あまねく東のはてまでもご覧になった。

    (從臣思迹。本原事業。祗誦功德。)
    従臣は皇帝の事跡を思いしたい、事業のみなもとをたずね、つつしんで功徳ととなえる。

    (治道運行。者產得宜。皆有法式。)
    天下を治める道は天下とともに運行し、多くの産物はほどよきを得て、すべて法式にかなっている。

    (大義著名。陲于後嗣。順承勿革。)
    大義ははっきりとあらわれて、子孫に垂れ示し、のちに世に継承されて改めることがないように。

    (皇帝躬聽。旣平天下。不懈於治。)
    皇帝がみずからお聴きになったように、すでに天下を平らげ、政治をおこたらなかった。

    (夙興夜寐。建設長利。專隆教誨。)
    早朝に起きて深夜に床につき、永久の利を建設して、ひたすら教誨きょうかいを盛んにされた。

    (訓經宣達。遠近畢理。咸承聖志。)
    教訓となるべき常法はのべ伝えられ遠近もすべておさまり、みな皇帝の意志をたいした。

    (貴賤分明。男女體(禮)順。愼遵職事。)
    貴賤の区別は明らかとなり、男女の礼は乱れず、慎重に職事に従っている。

    (昭隔内外。靡不清浄。施于昆嗣。)
    あきらかに朝廷の内と外とをわけ、清浄でないものはなく、子々孫々にほどこして、徳化はつきることのないように。

    (化及無窮。遵奉遺詔。永承重戒。)
    後の者は遺詔をささげ守り、永久に受け継いで重く戒めとすべきである。

    (皇帝曰。金石刻。盡始皇帝所爲也。)
    二世皇帝はいう、金石の刻は、ことごとく始皇帝が作られたものである。

    (今襲號。而金石刻辭。不稱始皇帝。)
    今、自分が皇帝の称号をついだが、金石の刻辞には、始皇帝となっていない。

    (其於久遠也。如後嗣爲之者。)
    後世になると、あとの皇帝が作ったと思われるかもしれない。

    (不稱成功盛德。)
    始皇帝の成功盛徳を称することにはならないのである、と。

    (丞相臣斯。臣去疾。御史大夫臣德。昧死言。)
    丞相の臣(李斯)、臣去疾(馮去疾)、御史大夫の臣徳らは、死を恐れずに申し上げます。

    (臣請。具刻詔書。金石刻因明白矣。)
    臣ら請い願いますには、詔書をつぶさに刻せば、金石の刻はそれがために明白となりましょう。臣ら死を恐れずに要請いたします、と。

    (臣昧死請。制曰。可。)
    二世皇帝が制していよう、よろしい、と。

  • 石鼓文(せっこぶん)について詳しく解説、臨書の書き方、全文日本語訳も紹介

    石鼓文(せっこぶん)について詳しく解説、臨書の書き方、全文日本語訳も紹介

    石鼓文せっこぶんは篆書の学習では代表的な古典です。

    今回は石鼓文について詳しく解説し、臨書の書き方、日本語訳も紹介します。

    石鼓文について解説

    石鼓文
    石鼓文

    石鼓文せっこぶんは、篆書の中でも大篆だいてんという書体です。
    大篆の代表とされるものが石鼓文です。

    大篆だいてんがあれば、逆に小篆しょうてんもあります。
    しん始皇帝しこうていが文字を統一する少し前の東周時代に使用されてた篆書が大篆、統一された後の篆書を小篆、とわけて表現されます。

    石鼓文は高さ、直径ともに60~70㎝ほどの大きな石10個に刻されています。

    字形はどれも整っており、1字の大きさは4~5㎝、青銅器に文字がまれた金文きんぶんに比べるとかなり大きい字です。

    石鼓文という名前の由来

    北京故宮博物院 石刻資料館 石鼓文
    北京故宮博物院 石刻資料館

    石鼓文という名前の由来は、石の形状がどう中がふくらんでおり太鼓たいこに似ていることからきています。

    中国とう時代の張懐瓘ちょうかいかんが石鼓と称し、韓愈かんゆ蘇軾そしょくとうそう時代の詩人が「石鼓歌」という大作を遺して以来、「石鼓」と呼ばれています。 

    石鼓文が作られた年代

    石鼓文がいつ作られたのかはいろいろな説があります。

    とう韓愈かんゆ韋応物いおうぶつそう蘇軾そしょくなどによって、しゅう宣王せんおうの時代(紀元前9~8世紀)に作られたとされていましたが、最近の研究によれば、郭沫若かくまつじゃく『石鼓文研究』では周の平王へいおう元年・しん襄公じょうこう8年(紀元前770)、唐蘭とうらん『石鼓年代考』では周の烈王れつおう2年・秦の献公けんこう11年(紀元前374)とし、ほかに周の威烈王いれつおう4年・秦の霊公れいこう3年(紀元前422)とされています。それぞれ詩文とう歴史の記録、その所在地、字体から推測されています。

    いづれにしても、戦国時代しんの中期(紀元前5~4世紀)、統一以前のの文字ということが分かります

    石鼓文の拓本

    石鼓文の拓本【中権本】
    石鼓文の拓本【中権本】

    石鼓文は本来700字以上あったとされていますが、唐時代に発見されたそのときにはすでに損傷が激しく、その後もさらに磨滅が進行し、現在では272字しか確認することができません。

    そのため、今日まで伝えられている拓本は、今ではもう確認でいない石鼓文の文字を伝える貴重な資料です。

    なかでもとくに優れた北宋ほくそう時代にとられた拓本3通、先鋒本せんぼうぼん(480字)、中権本ちゅうけんぼん(497字)、後勁本こうけいぼん(471字)が有名です。

    現在では3本そろって日本の三井文庫が所蔵しています。

    3本の中でもっとも文字数の多い中権本をこちらで紹介しています。↓

    石鼓文の臨書の書き方

    石鼓文の臨書の書き方を紹介します。

    • 起筆は丸く(逆筆)
    • 送筆は中鋒(ちゅうほう)で線の太さは均一
    • 字形は、縦長で左右相称
    • 横画は水平、縦画は垂直
    • 折れは丸くなめらか

    以下、それぞれくわしく解説します。

    起筆は丸く(逆筆)

    起筆は、とにかく丸くすることに注力します。

    起筆を丸くするコツとして、
    ①筆を進める方向と逆の方向から穂先を紙面に引っかけて丸めこんで書きます。
    ②または、右巻き・左巻きで丸みをつくる書き方もあります。

    このように穂先を隠す筆づかいを蔵鋒ぞうほうといいます。

    送筆は中鋒(ちゅうほう)で線の太さは均一

    送筆そうひつは、穂先が線の中央を通るように書きます。これを中鋒ちゅうほうといいます。

    曲線や右肩の折れなどの曲げ所は一定の太さで方向を転換します。

    収筆しゅうひつは、そのまま止まってスッと引き上げます。

    字形は、縦長で左右相称

    字形は基本的には縦長(なかには正方形の字形もあります)。
    そして、左右相称さゆうそうしょうです。

    向かい合う縦線、横線の距離は等間隔、字間と行間も等間隔です。

    「草」の「屮」の4つの配置は、絵の模様を思わせる造形です。
    「楽」の余白はほぼ均等な空間です。このような構成の文字は安定感がありますね。
    「異」は(A)(B)の傾きも左右相称です。

    横画は水平、縦画は垂直

    線の傾きは、横画は水平、縦画は垂直が基本です。

    そして横画と縦画の空間は均等に構成されています。

    この字形はあ文字を整斉にし、安定感があります。

    折れは丸くなめらか

    石鼓文には、折れの部分や縦画にゆるやかな曲線を見ることができます。

    曲線は動的な表現を形成します。臨書するときは、曲線の動き、大きさ、カーブの仕方などに注意する必要があります。

    中峰ちゅうほうを意識しながら書き進めることも重要です

    この曲線と直線のバランスは、創作時のポイントとなるでしょう。

    石鼓文の臨書といえば、呉昌碩ごしょうせきの臨 石鼓文がとても有名です。呉昌碩について解説【石鼓文の臨書作品についても解説】

    書道の上達には道具も大切

    ここまで石鼓文の臨書の書き方を紹介してきましたが、これらの技法や筆づかいを表現するためには、適切な道具が不可欠です。
    特に筆の選び方は非常に重要です。適切な筆を使わないと、上達しないばかりか、間違った方法を覚えてしまうこともあります。

    もし、「お手本通りにうまく書けない…」や「筆が思うように動かない…」と感じる方は、普段使っている筆を見直してみると良いかもしれません。

    書道筆「紫乃」は、その書きやすさと使いやすさから、多くの書道愛好者に支持されています。
    筆選びで迷っている方は「書道筆『紫乃』の魅力:初心者からプロまで愛される万能筆の秘密」を参考にしてみてください。

    石鼓文の内容/全文日本語訳

    石鼓文は全部で10個の石に詩と思われるものが記録されています。

    詩の内容は石鼓文が発見されたときにすでに欠けている文字が多かったため完全には理解できませんが、郭沫若かくまつじゃくの『石鼓文研究』によれば王の狩猟の光景を詠んだものとされています。

    その文章の意味によって、古来、10個の前後の順序についても論争が交わされています。

    石鼓文は本来は700字以上あったとされていますが、文字の磨滅がひどく拓本からは500字も確認できません。そのため、確認できないところは省略して紹介します。

    吾車鼓:狩の序盤を描写した詩

    私の車はすでに用意でき、私の馬はすでに集まった。
    私の馬はすでにく、私の馬はすでにえている。
    君子はここにかりをし、ここに遊ぶ。
    麀鹿めじかはすばしこいが、君子の求める獲物えもの
    赤黄色の角弓かくきゅう、弓はここにしっかり持った。
    私が特(3歳の獣)をりだすと、走ってくるせかせかと。
    ぴょんぴょんとぞくぞくと、私の方へこちらの方へ。
    麀鹿めじかはよろよろと、走ってくるつぎつぎと。
    私がその大きいやつを駆りだすと、走ってくるぞくぞくと、その豚と獨(獣の名)をる。

    汧殹鼓:土地の豊かさを称えた詩

    けんの水はひろびろとみち、大きなあの深いふち
    なまずこいがここにいて、君子はこれを捕る。
    あさせには小さな魚、その泳ぐさまはすいすい。
    大きな魚はきらきらと、その躍るさまはまったくあざやか。
    黄と白の魚はひらひらと、ほうがおりハク(魚)もいる。
    つづくさまははなはだ多い。
    これをかこんで追いこめば、つきすすみ逃げまわる。
    その魚はいったい何、これはたなごこれはこい
    何でもってこれを包もう、それは楊や柳。

    田車鼓:狩の情景を描写した詩

    かりの車はとても安らか、飾りの手綱たづなと馬の腹帯、4頭の馬と3人の兵士はすでに選ばれた。
    左の驂は力がみち、右の驂は勇ましい。
    私は狩の原にのぼり、私の兵士はさかにゆく。
    王の車は美しく立派、弓を引いてようと待つ。
    おおじかいのししはとても多く、麀鹿めじかきじうさぎは、にわかにはねまわり、その逃げ走るのはあわただしく、たくさん出てくるのをそれぞれに追う。
    柔弱な夭初は、捕まえて射殺すな。
    多くの者はいきいきとし、君子はこうして楽しむ。

    鑾車鼓:狩が終わって喜ぶ情景

    しゃんしゃんとすずを飾った馬車。あざやかなうるしり玉をちりばめ金で飾る。
    赤い弓はこんなに大きく、赤い矢は赫々かくかくと輝く。
    4頭の馬は毛並みよく、6本の手綱たづなで走らせる。
    供人ともびとはこんなに多く、りょ(地名)の原は広々と大きい。
    そこで省車せいしゃが行くと、公のともつつみのよう。
    高原にさわきたみなみに、うねうねとつづく馬車。
    ひょうと激しくこれをて、おおじかさえぎるのは虎のよう、鹿しかを狩るのは犬のよう。
    まことに勇ましい立派な人々は、えものをとても激しく追いかける。
    私の獲物えものはほんとに珍しい。

    霝雨鼓:雨の中を帰る人々の姿

    吉日きちじつは癸の日、めでたい雨はびしょびしょと。
    流れは速くひろびろと、海を満たしてあふれ出る。
    君子はわたしばにきて、馬をわたして流れを渡る。
    けんの水はみなぎって、盛んに流れてとてもよい。
    舟を並べて西へとどき、りょ(地名)より北へ道をとる。
    供人ともびとたちはあとたたず、船をつないでそしてゆく。
    あるいはみなみまたはきたふちかじとりかみそなえる。
    水の一方に神は居て、来るのでもなく止まりもしない。
    走りまわって神にすすめ、おごそかに祭事をつつしむ。

    乍原鼓:破損を免れた1行下段の「□乍原乍」が通称の由来

    大いに明らかなはかりごとをもって、原を作りさわを作る。
    ひとびととしたその道、私のおさめるむら往来おうらいする。
    せっせと雑草を除くのは、あの阪の下より始める。
    さくさくと刈られる草、ここに30の里とつくる。
    私の住まいはほんとによく、きっちりとして大きい。
    よい樹それはくりははそならは抜かれてしまう。
    茂った棕梠しゅろの木には、きいきいと鳴く鳥。
    草木はあおあお鳥はちいちい、なよなよとしたその花。
    安らかな私の園は、のんびりとする所。
    ぱかぱかと走る馬しゃんしゃんと鳴る鈴、堂々と道にやてってくる。
    2の日に木をうえて、水をやるのは5の日。

    而師鼓:3行目末尾の「而師」が通称の由来

    さわもすでにおさまって、君子もすぐに集まった。
    盛んなことよそのともびとは、弓も矢もはなはだしく多く、すっきりときらきらと。
    4頭だての馬車はぱかぱかと、左のそえうまを右に廻らせる。
    兵士たちはみちあふれ、かくも盛んにかくも素早い。
    ふるきも新しきもそなわらぬことなく、亦遠くも近きも共にめぐってやってくる。
    宮車はなんときらきら、貴も賤も共にはべる。
    やわらぎながら来て楽しみ、天子(周王)もおいでになる。
    嗣王よつぎのきみ(秦王)ははじめて祭りを行うので、それゆえ私も来て仕えよう。

    馬薦鼓:ほとんど字を失っており詩の解釈不能

    蒼い空ははればれと明け、虹霓にじは西にのぼる。
    あの野原は高く平らかで、車を並べて仲良く走ろう。
    馬薦わかくさはぎっしり生える。
    すくすくとぼうぼうと。
    きじの鳴き声はようようと、その相手を求めて飛ぶ。
    ずるうさぎはぴょんぴょんと、前後して逃げかくれる。
    私の心はこれを喜び、…

    吾水鼓:冒頭「吾水既瀞」に由来

    わが川はすでにみ、わが道はすでに平らか。
    わが足はすでに止まり、嘉樹(栗)は根づいた。
    天子はいつまでも安らかに、今日の日は丙申へいしん
    あかあかと輝きいきいきと新しく、私が出発する。
    わが馬はすでに速く、ごろごろと車をってゆく。
    しゅりゅうに乗ってゆけば、左のそえうまはゆっくりと、右のそえうまは足ばやに。
    えたわが幅広の馬、よくれらされていないものはない。
    4頭の馬は足ばや毛はくろぐろ、猟犬かりうどいさみたつ。
    公は大祝にいう、私はよくつつしんで祭る、どうして神が私を助けないものかと。

    呉人鼓:冒頭「呉人憐亟」に由来。呉人(野守)が自然に感謝する描写

    呉の山の神よ憐れみたまえ、朝な夕なうやまい祭る。
    西に供え物をし北にも供え、粗略にせずおこたりもしない。
    あなたの出入を祈り、進め献ずるのにとく(大きな犠牲)を用い、誠意をいたさないときはない。
    立派な大祝たいしゅくは、神はその捧げものを受け取られたという。
    どうかくだってこの仮寓かりずまいに参られよ。
    中囿なかにわで非常に多くの獲物にうが、麀鹿めじかはよく肥えている。
    私はそれを狩り、貈綞として大命たいめいをつぎ、わざわいもなくわざわいもなく、夤恭つつしんで天祐てんゆうを祈る。
    大きく明らかなの神よ、ここにのぞみここにみそなわせ。