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  • 黄庭堅(こうていけん)について解説/書風の特徴・代表作品:松風閣詩巻を紹介

    黄庭堅(こうていけん)について解説/書風の特徴・代表作品:松風閣詩巻を紹介

    黄庭堅こうていけんが生きていた北宋ほくそう(960年~1127年)という時代は、貴族的文化の社会構造への反抗として、科挙によって選抜された士大夫したいふたちによる新しい文化が芽生えます。

    書の分野でも、それまでの守旧的なものに対して、精神の自由な発露を革新的な表現に盛ろうとする者たちが現れました。

    黄庭堅こうていけんもその1人です。

    今回は、黄庭堅の人生を理解し、彼の書にどのような思いが込められているのかを考えていきます。また、代表作品も紹介していきます。

    黄庭堅の基本情報

    黄庭堅
    黄庭堅像

    黄庭堅こうていけん(1045~1105)は、北宋そくそうの政治家・詩人・書人です。1045~1105(慶暦5~崇寧4年)。

    あざな魯直ろちょく雅号がごう山谷さんこく涪翁ふうおうなどと称しました。洪州こうしゅう分寧(江西こうせい修水しゅうすい県)に生まれました。

    蔡襄さいじょう蘇軾そしょく米芾べいふつらとともに「宋の四大家」、または蔡襄さいじょうを抜いた蘇軾そしょく米芾べいふつ黄庭堅こうていけんの3人で「宋の三大家」と呼ばれ、後の書法史に大きな影響を及ぼしました。

    また、文や詩が得意で、故郷の江西を中心とした江西詩派の盟主でもあります。

    父の庶は広東かんとん康州こうしゅう知事、母は名高い学者・李常りじょうの娘でした。

    幼少の頃から才能にあふれ、李常がためしに架上かじょうの書を取って聞いてみたところ、すべてを暗唱していたといいます。

    また、母親が病気にかかった際には、自分の衣服を替えることもせずに昼も夜も看病するなど、その孝行ぶりは世間に言いふらされるほどでした。

    黄庭堅の人生/どんな人だったのか

    黄庭堅は、22歳の若さで科挙かきょ(官僚登用試験)に合格します。官僚としてエリートコースを歩むはずでしたが、当時、新法党と旧法党の党争の時代であり、黄庭堅も党派抗争に巻き込まれて複雑な足跡を残しました。

    地方勤務での蘇軾との出会い

    新法党が権力を握っていた熙寧きねい元豊げんぽう年間には、北宋の陪都ばいと(国都以外に別につくった都)の1つである北京ほくけい(現在の河北省大名県)の国子監こくしかん教授(教育行政機関の教授)となります。

    8年間国子監こくしかん教授を務め、この間に元豊元年(1078)、「宋の四大家」の1人である蘇軾そしょくに詩を贈り才能を評価され、親交を結びました。

    地方官をへた後、1085年(元豊8)、中央にもどりました。

    秘書省校書郎、江西・湖北知事などの官職を歴任しました。

    中央政府で活躍する

    元佑げんゆう年間、旧法党が権力を握る時代になると、秘書省ひしょしょう校書郎こうしょろう、『神宗実録しんそうじつろく』の検討官、著作佐郎ちょさくさろうをへて起居舎人ききょしゃじん抜擢ばってきされますが、母親が亡くなったために服し、つつしんだ生活を送りました。

    黄庭堅は母親に孝を尽くしたことから、「二十四孝にじゅうしこう」の1人に数えられています。

    が明けると、秘書丞ひしょじょうや国史編修官となりました。

    度重なる左遷

    紹聖元年(1090)、再び新法党が政権の座についたとき、編纂にたずさわっていた『神宗実録』中に、新法党を非難したところがあるという罪状で、四川省のふう州やけん州・じゅう州に左遷させんされました。

    徽宗きそう皇帝が即位(1100)したときに罪が許されて、朝秦郎・権知舒州などに任官しましたが、崇寧2年(1103)には、国政を批判したということで、また広西省、さらに湖南省への流罪となり、その地で病気で亡くなりました。

    これら晩年の官界での不遇と、黄庭堅の名品として現存している書跡の多くが晩年期に書かれたものとというのはなにか関係があるのかもしれません。

    黄庭堅は、師匠である蘇軾そしょくの「水が清らかに渓間を流れていくよう」な自然さに対して、「行者が険しい岩壁をよじ登っていくよう」であるといった評価がされます。

    黄庭堅は30代後半ごろに禅道を学びだし、飲酒・肉食・淫欲いんよくを断つことを誓いました。

    自分を厳しく律し、1つ1つの段階を踏みしめるように、繰り返し過去を顧みながら修練に努める姿勢は、日本の鎌倉・室町の禅僧に熱烈な追随者を生みました。

    黄庭堅の代表作品:松風閣詩巻(しょうふうかくしかん)

    黄庭堅の作品「松風閣詩巻」
    黄庭堅「松風閣詩巻」
    黄庭堅の作品「松風閣詩巻」
    黄庭堅「松風閣詩巻」#1タップ/クリックで拡大

    そうした黄庭堅晩年の書には、厳しい自己否定と、何度も遠方へ流された陰鬱さがにじみ出ています。代表される最も有名な作品が「松風閣詩巻しょうふうかくしかん」です。

    松風閣詩巻しょうふうかくしかん」は、徽宗きそう崇寧すうねい元年(1102)、左遷さきの湖北こほく鄂城がくじょう県のはんざんの景色を愛し、その山中の楼閣に松風閣と名づけた時の自作の詩を書いたものです。

    顔真卿がんしんけい柳公権りゅうこうけんの筆意を取り込み、重厚な書風で円熟した境地を見せています。

    波打つような横画や左右の払いなどは、他に類を見ない黄庭堅独自の表現で、不遇に耐える強い意志の力を感じさせられます。

    このような書風がどのように形成されたのかはわかりませんが、黄庭堅が書の上でかかげたものは、「俗気を脱する」という自信の人生の指針を同じ高潔な志であり、濁らない美しさでした。

    黄庭堅の書は、晩年の度重なる左遷にあらがう屈強な精神力と、ひたすらな鍛錬と禅の修養が同時に作用しながら完成したものなのです。

    黄庭堅の清廉な生き方は、小事に追われて日々生きている時代の私たちにとっても、心に留めておきたいものではないでしょうか。

    黄庭堅の作品「松風閣詩巻」
    黄庭堅「松風閣詩巻」#2
    黄庭堅の作品「松風閣詩巻」
    黄庭堅「松風閣詩巻」#3
    黄庭堅の作品「松風閣詩巻」
    黄庭堅「松風閣詩巻」#4

    その他の代表作品

    寒山子龐居士詩巻(かんざんしほうこじしかん)

    黄庭堅の作品「寒山子龐居士詩巻」
    黄庭堅「寒山子龐居士詩巻」

    寒山子龐居士詩巻は、元符元年(1098)、黄庭堅がじゅう州に左遷されている時に書いたものです。

    張通の作った筆を試しつつ、法聳上座ほうしょうじょうざのためにとう時代初期の寒山子かんざんしの勧戒詩と、同じく唐時代中期の龐居士ほうこじの詩の2首を書いたものです。

    諸上座帖(しょじょうざじょう)

    黄庭堅の作品「諸上座帖」
    黄庭堅「諸上座帖」

    諸上座帖しょじょうざじょうは、五代の僧・文益の語録を節録し、李任道という人に書き与えた作品です。

    語録の部分は狂草風で書き、末の識語13行は「松風閣詩巻しょうふうかくしかん」とよく似た行書で書かれています。

    王史二氏墓誌銘稿(おうしにしぼしめいこう)王長者墓誌銘稿

    黄庭堅の作品「王長者墓誌銘稿」
    黄庭堅「王長者墓誌銘稿」

    王史二氏墓誌銘稿おうしにしぼしめいこうは、「王長者墓誌銘稿おうちょうじゃぼしめいこう」と「史翊正墓誌銘しよくせいぼしめい」の2つをあわせたものをいいます。小文字の行書で書かれた草稿です。

    内容は、王長者おうちょうじゃ史翊正しよくせいという人の墓誌で、書写年代は明記されていませんが、それぞれの死後まもなくのことと推測されます。

    李太白憶旧遊詩巻(りたいはくおくきゅうゆうしかん)

    黄庭堅の作品「李太白憶旧遊詩巻」
    黄庭堅「李太白憶旧遊詩巻」

    李太白憶旧遊詩巻りたいはくおくきゅうゆうしかんは、唐時代の詩人・李白りはくの「憶旧遊寄譙郡元参軍」の詩を書いた作品です。

    ただし巻頭80字を欠損しています。これも書名はありませんが、古くから黄庭堅の真跡とされています。

  • 顔真卿の行書作品「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」について解説/内容・書風・特徴

    顔真卿の行書作品「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」について解説/内容・書風・特徴

    顔真卿がんしんけいと言えば数多くの碑石に残っている謹厳な楷書ですが、それらは顔真卿の公的な場における表向きの書です。

    彼の人間性を直接に伝えるものは、草稿として自分の思いを率直に書き連ねた「祭姪文稿さいてつぶんこう」「祭伯文稿さいはくぶんこう」「争坐位文稿そうざいぶんこう」のいわゆる「三稿」があります。

    本記事では、そのなかでも唯一真跡が現存している「祭姪文稿さいてつぶんこう」について解説していきます。

    祭姪文稿について

    祭姪文稿
    祭姪文稿1
    祭姪文稿
    祭姪文稿2
    祭姪文稿
    祭姪文稿3
    祭姪文稿
    祭姪文稿4
    祭姪文稿
    祭姪文稿5
    祭姪文稿
    祭姪文稿6
    祭姪文稿
    祭姪文稿7

    祭姪文稿さいてつぶんこうは、全長約600㎝の巻子装です。
    そのうち本幅は28.8×77.0㎝です。

    内容は、758年(乾元元年)に、いわゆる安史あんしらんで殺されたおい顔季明がんきめいの霊に捧げた祭文です。

    作品の前後いたるところに収蔵印しゅうぞういんが押されています。

    元の鮮于樞せんうすうの至元25年(1288)跋から、清の乾隆52年(1787)の乾隆御跋にいたる13家の跋文と観記が入れられています。

    現在は台北故宮博物院に蔵されています。

    祭姪文稿の内容

    祭姪文稿の内容は、758年(乾元元年)、亡くなったおい顔季明がんきめいにささげた一種の弔辞ちょうじです。

    755年(天平14載)、安史あんしらんで、平原(河北省徳州)の太守顔真卿がんしんけいとともに、いちはやく義兵を挙げた従兄じゅうけいの常山(河北省真定)の太守顔杲卿がんこうけいが、その末子の顔季明がんきめいともども敵の軍勢によって殺されてしまいました。

    その後、ようやく顔杲卿がんこうけいの遺体と顔季明がんきめいの首を探し出し、墳墓の地に合葬した際の祭文の草稿がこの「祭姪文稿」です。

    この稿には、敵の軍勢によってしかも親の目の前で首をはねられた甥の顔季明がんきめいへの、悲しみやいきどおりが心なしか行間をはせめぐっているように感じられます。

    祭姪文稿の書風・特徴

    祭姪文稿は肉筆で書かれているため、線の抑揚、リズム、呼吸の変化などを学ぶのに最適です。

    顔真卿の激情をそのままぶつけたかのような自然な筆遣いの中に、筆の機能を最大限に生かした多彩な技術が読み取れます。

    重量感のある線

    祭姪文稿には芯棒が通ったような図太い線がいたるところに使われています。力強く見えるのは、筆圧をしっかりかけた中鋒の線のおかげです。紙にこすりつけたようなかすれた線からも、筆圧が十分かかっているのがわかります。

    縦線

    しっかり穂先が開いた縦画があります。穂先が線の中央を通るように起筆は蔵鋒で書き始めます。

    おさえこむ線

    筆の穂先を開いて下へ抑え込む線があります。最終画を重めに終わらせることで、文字全体にどっしりとした印象を与えます。

    回転運動

    筆圧をかけながら回転する線があります。縦画が下に向かうにつれて線は太くなり、ゆったりとした形になります。

    変化

    感情のおもむくまま書いた文字でも、蓄積された技術、美的造形に対するするどい感覚が、自然と同じ形を避けるのでしょう。同じ文字や筆画でも、線の強弱や方向の変化で多彩な表情を見せています。

    はね

    最終画に同じようなはねが連続している部分がありますが、夫々強弱や方向を変えて、単一な調子にならないようにしています。

    門がまえ

    同じ門がまえでも、筆圧のかけ方や穂先の出し方によって印象がちがいます。

    はらい

    はらいは穂先を十分に開き、筆の弾力を感じさせます。

    軽快な線

    祭姪文稿には太く力強い線だけでなく、細くて軽い線もたくさんあります。

    線の太さが極端に違っていても、全体としての違和感が全くないのは、細い線が筆の弾力をしっかり生かした、息の長い、しなやかで粘り強い線質で書かれているからです。

    連綿

    連綿れんめんも注意してみてみると、いろいろなリズムで書かれています。

    手前に引きずりおろすような運筆のものや、均一な筆圧でゆったりとした線のものなどがあります。

    筆の抑揚や、速度に気を付けて書きます。

    開いた線と閉じた線

    1つの文字の中に穂先が開いた線と閉じた線の両方の線質が混在している文字もあります。

    顔勤礼碑の上達には道具も大切

    ここまで祭姪文稿の書風・特徴を紹介してきましたが、上達するためには道具も大切です。

    作品を書く際、
    「お手本のようになかなか上手に書けない…」
    「筆が思うように動いてくれない…」

    という方は、普段使っている筆と違う筆を試してみると良いかもしれません。

    ちなみに、おすすめの書道筆は【おすすめ】書道筆「小春」を紹介/使いやすさ・美しさを求めた書道筆【悠栄堂「小春」】を参考にどうぞ。↓

  • 孫過庭の書譜について、内容、書風、特徴を紹介

    孫過庭の書譜について、内容、書風、特徴を紹介

    孫過庭そんかていが文章の内容を考え、自身が書いたとされる「書譜しょふ」は、草書の名品として、またすぐれた書論しょろんとして、高く評価されてきました。

    今回は、孫過庭について、書譜の内容、書風、特徴を紹介していきます。

    孫過庭について

    孫過庭像
    孫過庭像

    孫過庭そんかていは、唐時代の書人です。孫過庭本人についての伝記には諸説があり、はっきりとしたことは分かっていません。

    あざな虔礼けんれい。呉郡(江蘇省蘇州)の人と言われています。

    その生きていた年も(648?~703以前)と定かではありません。

    孫過庭という名前についても、「書譜しょふ」の冒頭に「呉郡孫過庭撰」とあることから、孫過庭と言われていますが、陳子昂ちんすごうの「率府録事そつふろくじ孫君墓誌銘そんくんぼしめい」には名前が虔礼、字を過庭としています。

    出身地も、陳留(河南省)、富陽(浙江省)、呉郡(江蘇省)など諸説あり、官職についても右衛冑曹参軍率うえいちゅうそうさんぐんそつであったとも率府録事参軍そつふろくじさんぐんであったとも言われています。

    どちらも下級官職であることから、政治的にはほとんど無名であったようです。

    また、孫過庭は博学で、文章に優れていたと言われていますが、「書譜」以外は伝わっていません。

    書譜について

    孫過庭の「書譜」#1
    孫過庭の「書譜」#1(クリックで高画質表示)

    書譜しょふは、孫過庭が書について論じた自らの文章を、草書で書かれた草稿本です。

    幅44センチの紙を23紙継いだ役27×900センチ、全長10メートルにおよぶ巻子本です。全部で3727文字もある長文です。

    書譜が書かれたのは、唐の中頃。孫過庭が40歳前後の頃に書かれたと推定されます。巻末の款記かんき(末尾)によると、垂拱すいきょう3年(687)に書かれたとあります。ただし、落記は始め「元」と書きかけ、「三」と改めた形跡があります。

    現在は1巻に仕立てられていますが、分断された痕跡や亡失した部分、汚損などが見られます。幸いにも宋代にとられた拓本の太清楼たいせいろう帖本、薛氏せつし本(元祐げんゆう本)、安麓村あんろくそん本(天津てんしん本)、停雲館ていうんかん帖本、三希堂さんきどう帖本など数多くの刻本によってその亡失した部分の内容を補うことができます。

    書譜の内容

    孫過庭の「書譜」#2
    孫過庭の「書譜」#2(クリックで高画質表示)

    書譜の内容は、六朝時代の書論を基盤としながら、王羲之を典型にとらえ、漢・魏以来の名家や書論を評価し、書の本質や価値、学書に対する考えなどが書かれています。

    一般的に6編に分けられます。

    書譜の現代語訳はこちらの記事でまとめています↓

    第1篇(四賢論と王羲之への称賛)

    四賢(張芝ちょうし鍾繇しょうよう、王羲之、王献之)を書道史上の四大家として褒めたたえています。その中にも優劣があり、その根拠を説明しながら、最終的には王羲之こそが書の典型であるとしています。

    第2篇(書の概念と本質)

    書の本質について解説しています。具体的な各書体について言及し、書とはいかに表現されてきたか、またどのように表現されるべきかを考察。人間の性質と形質の関係にも触れた哲学的ともいえる内容です。

    第3篇(六朝時代からの書論の論評)

    六朝時代から今までの書論は単なる技巧論であると批判しています。彼は精神論にまで踏み込み、芸術の境地へ達するすべを明らかにするための論を展開していくべきだと述べています。

    やや序論めいた物言いで書かれていることから、現存の「書譜」はあくまで序論にすぎないのでは、という議論もあります。

    第4篇(技法と表現)

    運筆論を基として、執(用筆法)・使(直筆法)・用(曲線法)・転(点画法)の4つの技法を統合することが書の最も大切なところだとしています。また王羲之はそこに心法を加え、書が思想感情を表現する芸術にまで高めていると結論しています。

    第5篇(書学の段階と書の妙経)

    書学の段階を、平正→険絶→平正と対立(矛盾)する2つのモノを1つにして説いています。しかる後に人間としての深みが増し、それと共に書も熟達していくことが理想であると述べています。

    第6篇(書の妙経を得て初めて書を論ずることができる)

    芸術の境地に達した表現はなかなか欲眼では理解しがたいものがあるとなげいています。自分の書とその論の正しさを匂わせ、世間一般の凡識を批判しながら、芸術鑑賞論を展開していきます。

    書譜の名言を紹介

    ここからは書譜の中で有名な言葉を紹介していきます。

    1つ目は表にした方が分かりやすいと思ったのでそうしてみました。

    「合」(調子のよい時) かい」(調子の悪い時)
    心が和らいで余裕のある時あわただしく身体がだるい時
    感覚がえ何事もすぐ理解できる時気持ちを集中できず気力が充実しない時
    気候が穏やかな時空気が乾燥し炎天の時
    紙と墨がよくなじむ時紙と墨がなじまない時
    書いてみようと書作への意欲がふとわいた時感興がわかず手が思うように動かない時

    王羲之の書はいつの世も称揚され習う者が多い。書法として優れており、書学者の指針としてふさわしい。これは古今の書法に精通しているばかりではなく王羲之の書には気品があり、自然な趣をかもし出しているためである。

    思索しさくは年を取るにつれて深まるが、学習は若い時代に励むべきである。

    古人の書を学ぶとき、精緻せいち(非常に細かい点にまで注意すること)な姿勢で書かなければならない。臨書するときは、筆跡全体がそっくり似るように学習すべきである。臨書して似せることができず、細かいところまで観察・分析しない学習法では、古人の書境に近づくことはできない。

    書譜の書風・特徴

    孫過庭の「書譜」#3
    孫過庭の「書譜」#3(クリックで高画質表示)

    孫過庭は王羲之の書風をよくし、この書譜も王羲之の草書を基盤としています。

    唐の太宗たいそう皇帝が王義之を崇拝していた当時の風潮を反映しているのでしょう。

    そのため用筆は技巧的にも洗練されており、現代においても「十七帖じゅうしちじょう」と並んで草書の典型とされ、草書学習には欠かせない古典です。

    節筆

    書譜には「節筆せっぴつ」と呼ばれる箇所があります。幅約2,4センチ間隔の縦の折り目に筆先がぶつかり、点画の所々が独特な線の表情になっているところを言います。節筆の部分は太く変化しています。

    この節筆は偶然できたものですが、表現上多彩な表情を生み、書風の魅力の1つにもなっています。

    孫過庭の「書譜」#4
    孫過庭の「書譜」#4(クリックで高画質表示)
    孫過庭の「書譜」#5
    孫過庭の「書譜」#5(クリックで高画質表示)
    孫過庭の「書譜」#6
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    孫過庭の「書譜」#7
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    孫過庭の「書譜」#8
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    孫過庭の「書譜」#9
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    孫過庭の「書譜」#10
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    孫過庭の「書譜」#14
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    孫過庭の「書譜」#15
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    孫過庭の「書譜」#16
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    孫過庭の「書譜」#18
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    孫過庭の「書譜」#20
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    孫過庭の「書譜」#21
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    孫過庭の「書譜」#22
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    孫過庭の「書譜」#23
    孫過庭の「書譜」#23(クリックで高画質表示)

    孫過庭の「書譜」#24
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    孫過庭の「書譜」#25
    孫過庭の「書譜」#25(クリックで高画質表示)
  • 智永の真草千字文:内容や智永の制作意図とは

    智永の真草千字文:内容や智永の制作意図とは

    千字文は、習字帖として古くから中国・日本で活用され親しまれてきました。

    今回は、千字文の現存最古の古典である王羲之7世の孫、智永の「真草千字文」について紹介していきます。

    智永について

    智永ちえい王羲之おうぎしの7世の孫。出家して呉興ごこう永欣寺ようごんじの住職となり、積年書を学び、彼の書を求めるものが多く訪れ、鉄門限といわれました。

    王羲之第1の名作といわれる蘭亭序は、智永の所有物だったとされています。しかしその後、唐の太宗皇帝に取り上げられてしまします。

    王羲之の子孫

    智永ちえい王羲之おうぎしの7世の孫です。

    要するに王羲之の遠い子孫で、王羲之の5番目の子供である王徽之おうきしの系統にあり、智永の本名は王法極おうほうきょくといいます。

    王羲之は東晋そうしん時代の名族中の名族でしたが、東晋が宋によって倒され、さいりょうちんと次々に南朝の政権が代わっていくうち、だんだんとその位置づけが気薄になり、智永のように僧侶の道を選ぶ者も出てきました。

    あだ名は鉄門限

    永欣寺ようごんじの住職をしていた時、智永に鉄門限というあだ名がありました。

    ここでいう門限とは門が閉じる時間ではなく、左右の門柱の下部に横渡よこわたしたた「しきみ」と呼ばれる木材のことを言います。

    門に入る、出るとはこの板を渡るかどうかを指しています。

    当時の仏教は、身分が高く教養のある人が信仰するもので、寺院は庶民がそうそう気安く出入りするところではありませんでした。

    ところが、智永は庶民にやさしく、気軽に字を書いてあげました。

    人気奮闘で参拝者はひきもきらず、その門限をどんどん踏んでいくので、いくら直してもすぐつぶしてしまいます。

    そこで智永はこれに鉄板をはめ直して頑丈にしました。

    そこで人々はそれを「鉄門限」と呼んだといいます。

    門限の角がすり減って丸くなっているお寺は見かけなくもないですが、鉄で補強するのはよほど珍しかったのでしょう。

    千字文について

    千字文は4字を1句とする250句で構成し、1字も重複しない1000字からできているのでこの名前がついています。

    千字文の成立

    千字文は中国りょう武帝ぶてい(464~549)が殷鉄石いんてっせきに王羲之の書を集め模写させ、その文字を使って周興嗣しゅうこうしに文を作らせたものとされています。

    梁の武帝は王羲之の書を愛好していたので、王子たちに書を習わせる手本として、殷鉄石いんてっせきに命じて王羲之の筆跡の中から1千字の模本を作らせました。

    その字はいろんな文から1字ずつ抜き出してできたものなので、ばらばらで文にもなっていませんでした。

    そのままでは学びづらいので、梁の武帝は、文章を書く才能があった周興嗣しゅうこうしに命じて文章として読めるようにしました。

    周興嗣は1字の重複もない4言で1対2句の整然たる韻文(詩・短歌・俳句のこと)にまとめ上げます。

    これが「千字文」です。

    千字文の内容

    千字文の内容は、すべてが一貫しているわけではありませんが、悠遠なる天地自然の理法から始まり、古来の人生観を織りまぜで人間の生き方にまで及んでいます。

    故事成語、魏晋以来の詩文等、儒家の経書、道家の著録、南朝の文人の作品にふさわしい思想背景がうたいこまれており、当時の思想背景を広くみることができます。

    もともと千字文は識字用に作られたものではなく、習字手本として作られました。

    千字文が普及した理由として、書としての素晴らしさがあったことは言うまでもありませんが、その中に多くの故事成語や興味深い古人の逸話などが盛りこまれ、韻を踏んだ素晴らしい文でつづられていたので、知識の習得もねて勉強することができたからでしょう。

    智永の真草千字文

    真草千字文は、中国の梁・陳から隋(6世紀ごろ)にかけて生きていた智永が書いたものだと言われています。

    各文字を真書(楷書)と草書で隣り合わせに書いていくもので「真草千字文」とよばれています。

    智永は梁末から生きていましたが、「千字文」を書写したのは隋代でした。

    智永は永欣寺に住んでいる間、真草千字文を800本も書写して江東(長江下流の南側)のたくさんの寺にそれぞれ1本ずつ配りました。

    800本を書写したと言われる「千字文」は、書を想像的に加工などという姿勢は全くなく、王羲之の原本に忠実な復元作業であったと言えます。

    なぜこれほどたくさんの本数を書写したかといえば、王羲之の子孫である自分が確かな書法を伝えたかったからだと予想されています。

    また、北朝の隋が南朝の陳を倒して天下統一をなした王朝であったことも影響しています。

    北朝勢力が南朝勢力を圧迫したことで、物事の価値観も北朝有利に働きました。

    王羲之は南朝の人だったため、王羲之の評価も急激に薄れてしまいます。

    その北朝支配に対しての抵抗だったとも考えられています。

    王羲之書法を自分の手で書き残し、後世に伝えたいという願いが智永の行動には感じられます。

    智永が写した千字文は唐宋時代にはかなり残っていたようですが、現存する真跡本は日本にある「小川本」のみで、ほかに拓本2種(関中本・宝墨軒本)が伝えられています。

  • 王羲之の十七帖について、内容や書風、特徴、いろいろな種類の拓本を解説

    王羲之の十七帖について、内容や書風、特徴、いろいろな種類の拓本を解説

    十七帖じゅうしちじょうは草書を習得するため古来より草書の典型とされ、多くの人に尊重されてきました。

    今回は、十七帖について、内容や書風、特徴、いろいろな十七帖の拓本を解説していきます。

    十七帖について

    十七帖(じゅうしちじょう)は、王羲之おうぎしの手紙29通を集めて石に刻したものです。

    王羲之のファンとして有名なとう太宗皇帝たいそうこうていが集めた3000枚にも及ぶ王羲之の筆跡の中から書きぶりが似ているものを厳選した法帖です。

    はじめの一通に「十七日先書」とあることから、その書き出しの「十七」をとってこのように呼ばれています。

    原跡は早くに失われ、現在見られるものはすべて複製されたものです。

    十七帖は草書のお手本として作られた

    十七帖はとう時代、太宗たいそう皇帝が文化政策を推し進めるために設けた弘文館こうぶんかんの貴族子弟への草書の手本として作られました。

    その根拠として、十七帖に掲載されている手紙29通をはじめから順を追って見てみると、構成には効果的な草書学習をねらったように思える工夫があります。

    初めは一か所の連綿もなく全て単体の草書で書かれていて、その書きぶりは整っており、わかりやすいです。

    しかし、全体の3分の1程度を過ぎたあたりからは連綿の箇所は増え、行の流れにも動きが出てきます。文字の大小などリズム感や変化も加わり、運筆の呼吸も感じます。

    その後、動きを止めた平静なものにいったん戻りますが、3分の2を過ぎたあたりからまたリズミカルな調子になります。

    そして最後の3通とても激しく書かれています。

    このように全体構成を見てみると、静かな単体の文字から、動きのある連綿れんめんのあるものへと、段階的に草書を習得させるという指導理念があるように思えます。

    十七帖を練習したい人は初めから順に従って臨書すると良いのではないでしょうか。

    十七帖の内容

    十七帖は、手紙29通を集めたものと紹介しました。

    3000枚にも及ぶ王羲之の筆跡の中から厳選した、と記録(『右軍書記』)に残されていますが、手紙の多くはしょく(現在の四川省しせんしょう)の地にいた親友の周撫しゅうぶという人物にあてたものです。

    内容はごくありふれた存間の短い文章ばかりですが、なかには王羲之の人生に対する思いが垣間見られるものもいくつかあります。

    特に、十七帖の中の〈逸民帖いつみんじょう〉や〈蜀都帖しょくとじょう〉などには王羲之が名門貴族であり東晋とうしんの枢要な人脈の中にありながら、政治の表舞台での活躍を望まず逸民として心の平安を第一とする彼の心情が吐露され興味深い内容です。

    十七帖の書風、特徴

    十七帖を草書の典型として練習する場合、点画の長短、曲直、細太、遅速、抑揚、疎密など、細かい点にまで注意して、特色を把握することが大切です。

    文字の上部が大きい

    文字の上部を極端に大きくした造形は、一見不自然にも見えますが、1字における空間の疎・密の関係、形、力量の変化などでバランスをとっています。

    このバランス感覚により、文字の大きさや明るさも表現することができます。

    偏と旁のバランス

    へんつくりのどちらか一方を大きくしたり、上にあげたりすることがあります。これにより1字の中に変化が生まれ、動きのある文字構成となります。

    中心線の移動

    上部と下部で大胆に中心線を移動させた文字が多くみられます。この移動により生じる字形の不安定感を、墨量や線の動きなどの力量関係、白の空間の巧みさでバランスをとっています。

    この字形は「喪乱帖そうらんじょう」「集王聖教序しゅうおうしょうぎょうじょ」にも多くみられ、王羲之独特な造形感覚です。

    いろいろな十七帖

    私たちは王羲之おうぎしの真跡が現存していなくても、過去に作られた複製品を通してその字を見ることができます。昔の職人や書家によって臨模りんもされたり、石に刻されたりしたものです。

    従って多少は臨模りんもした人のクセが加わったり、石に彫る側の意図や美意識が反映されたりするでしょうし、後の時代になるほど何度も作り直すことで当初の姿から大きくかけ離れてしまった可能性もあります。

    特に十七帖の場合は、東晋とうしん時代に書かれた王羲之の筆跡とその字が好きだったとう太宗たいそう皇帝が、貴族の弟子への手本として複製させたものとも言われています。

    したがって、草書の典型として後世の人々に尊ばれてきましたが、同時にいくつもの刻本がつくられました。そして現代にもいくつかの拓本が伝えられていますが、その表情もそれぞれ微妙に違いが生じてしまっています。

    十七帖の複製本は大きく分けて2つの系統に分けることができます。

    館本

    1つ目が、帖末に「勅」という字の押書がある「館本かんぽん」の系統です。

    館本系では、幸いにもそうの時代にとられた有名な拓本たくほんが日本にあります。「三井本みついぼん」「上野本うえのぼん」「欠十七行本けつじゅうしちぎょうぼん」が有名です。

    三井本

    三井本みついぼん」は手紙29通すべてがそろっていて、王羲之本人の筆跡に最も近いとされている拓本です。

    「三井」とは日本3大財閥である三井財閥の意味です。

    日本にもたらされてから貫名菘翁むきなすうおう巌谷一六いわやいちろく日下部鳴鶴くさかべめいかくを経て、三井家の聴氷閣ていひょうかく(拓本コレクション)に加えられたことから、この名前がついています。

    大きな特徴として、“断筆”といって、草書では切りはなさない転折の部分を、あえて2画で刻してあるのが所々に見られます。その断筆の効果によって、起筆や終筆が鋭く、力強い筆勢です。

    上野本

    上野本うえのぼん」は、上野理一氏の有竹斎ゆうちくさい(コレクション)に所蔵されたことからそう呼ばれています。現在は京都国立博物館に寄贈されています。

    この帖はゆったりとした運筆、無理のない筆使いで、自然な風趣に特色があります。

    ただ、中間で10行分を欠失していて、補修部分があり、「三井本」と比べると少し鮮やかさといったものは劣ります。

    欠十七行本

    欠十七行本」は、十七行目の欠落部分があることからそう呼ばれています。三井本・上野本に比べて少し筆勢にうねりが見られ、やや軽い感じがしますが、肉筆のような刻り方がされていておっとりしています。

    賀監本

    2つ目が、唐中期の賀知章がちしょうの臨本が元になっていると言われている「賀監本がかんぼん」の系統です。

    賀監本がかんぼん」は、 唐の賀知章の臨書と伝えられています。王羲之の雰囲気からはやや離れ、骨格も少し弱いように見えますが、鋭い線とおおらかなリズムが見られます。

    手紙の1通ごとに楷書の釈文がつけられていますが、先に紹介した「館本」には及ばないとされています。

    最後に

    ここまで十七帖について、内容や書風、特徴、いろいろな種類の拓本を解説してきました。

    書は人間性を表すとよく言われますが、表現しやすい草書はそれを体現する書体としてもっとも適しているのではないでしょうか。

    十七帖を練習することで、草書の用筆、造形の特徴を理解し、自由な表現が楽しめるようになりたいですね。

  • 草書とは?書道講師が教える書き方のコツ・覚え方・おすすめ古典

    草書とは?書道講師が教える書き方のコツ・覚え方・おすすめ古典

    草書(そうしょ)とは、漢字の五書体(篆書・隷書・楷書・行書・草書)のなかで最も簡略化された書体です。紀元前1世紀ごろ、隷書の早書きから生まれました。

    書道教室で生徒さんに草書を教えていると、「楷書と形が違いすぎて読めない」「どこをどう崩しているのかわからない」という声をよく聞きます。たしかに、草書は楷書と形がかけ離れています。しかし、省略のルールを知れば、一見バラバラに見える草書の世界が一気に整理されます。

    この記事では、書道講師の視点から草書の特徴・2000年以上の歴史・書き方のコツ・覚え方・おすすめの古典を体系的にまとめました。草書をこれから学ぶ方にも、作品制作に活かしたい方にも役立つ内容です。

    草書とは?30秒でわかる基本

    草書とは、漢字を極限まで省略・連続させて書く書体です。「草」には「下書き」「走り書き」の意味があり、正式な隷書に対するくだけた書き方として生まれました。

    草書の最大の特徴は、筆を紙から離さずに一気に書くこと。点画を省略し、連続させることで、流れるようなリズムと独特の美しさが生まれます。

    草書の読み方・意味

    草書は「そうしょ」と読みます。英語では「cursive script」と訳されます。「草」の字は植物の草ではなく、「粗い」「ラフな」という意味です。中国の後漢時代に書かれた『説文解字』の序文には「漢興りて草書あり」と記され、漢の時代にはすでに一般的な書体として認識されていたことがわかります。

    楷書・行書・草書の違い【比較表】

    書体の違いを理解するために、楷書・行書・草書を比較してみましょう。

    楷書行書草書
    省略度省略なし一部省略・連続極限まで省略
    書く速さ遅い(一画ずつ止める)やや速い最も速い
    読みやすさ誰でも読めるほぼ読める学ばないと読めない
    用筆トン・スー・トン(三過折)三過折を簡略化スー・トンや旋回運動
    美の特徴構造美・端正さ構造美+流動美流動美・リズム感
    成立時期後漢〜魏晋(最も遅い)後漢末〜魏晋前漢(最も早い)
    代表的古典九成宮醴泉銘(欧陽詢)蘭亭序(王羲之)十七帖(王羲之)

    意外に思われるかもしれませんが、「楷書→行書→草書」の順に簡略化されたわけではありません。実は草書が最も先に生まれ、楷書が最も後に完成した書体です。この順序を知っておくと、草書の成り立ちがぐっと理解しやすくなります。

    楷書についてさらに詳しく知りたい方は「楷書体とは?書道講師が教える特徴・歴史・7つの代表的な書風」で解説しています。行書については「行書とはなにか・練習方法・いろいろな行書の古典を紹介」をご覧ください。

    草書の5つの特徴

    草書にはほかの書体にない独特の特徴があります。ここでは、草書を理解するうえで欠かせない5つのポイントを紹介します。

    1. 点画の省略と連続——筆を紙から離さない

    楷書では一画ずつ筆を止めて書きますが、草書では画と画のあいだで筆を離しません。実際には存在しない「つなぎの線」を書くことで、驚くほど速く書けます。

    私が生徒さんに草書を教えるとき、まず「楷書の筆を止める癖を忘れてください」と伝えています。楷書のリズムが体に染みついていると、どうしても一画ごとに止まってしまう。草書では、その「止まる」をやめることが第一歩です。

    2. 同じ字でも複数の崩し方がある

    楷書の「道」はだれが書いても同じ形ですが、草書の「道」には何通りもの崩し方があります。時代や書家によって字形が異なり、縦長になったり横に広がったりと、ひとつの字に複数の「正解」が存在します。

    ただし、崩し方には許容範囲があり、草書にもルールはあります。ほんの少しの点画の違いで別の字になることもあるため、正確に覚えることが大切です。

    3. 楷書の構造美 vs 草書の流動美

    楷書の美しさは建築的です。一画一画が柱や梁のように組み合わさり、端正で安定した姿をつくります。

    一方、草書の美しさは川の流れに似ています。筆の速度、リズム、強弱の変化が連続して生まれる流動美です。墨を含んだ筆が紙の上を走るとき、かすれや潤いが自然に現れ、二度と同じ表情は生まれません。草書を書くたびに、その瞬間だけの一期一会の線が生まれる——それが草書の魅力です。

    4. 芸術的表現に最適な書体

    草書は実用的な場面にはあまり向きません。草書の省略法を知らない人には読めないからです。手紙の宛名を草書で書いたら、郵便配達員が困ってしまいます。

    しかし、芸術的な表現という点では、草書は五書体のなかで最も自由度が高い書体です。字形が動的で、書く人の感情がそのまま線に表れます。喜びも悲しみも、激しさも静けさも、筆の動き一つで表現できる。書道展の作品に草書が多いのは、この表現力の豊かさが理由です。

    5. 曲線と旋回運動が生む多彩な線

    草書では、直線的な画が省略されるにつれて、多くの点画が曲線に変わります。筆の運びは旋回運動が中心で、とくに右回りの動きが多いのが特徴です。

    筆圧の強弱、速度の緩急、墨量の濃淡——これらが組み合わさることで、太い線・細い線・かすれ・にじみなど、驚くほど多彩な表情が生まれます。筆の弾力を最大限に活かせる書体でもあり、上質な筆を使ったときの気持ちよさは草書が一番だと私は思います。

    草書の歴史——楷書より先に生まれた書体

    「楷書を崩したのが行書、さらに崩したのが草書」——こう思っている方は多いのですが、実は逆です。書体の成立順は「篆書→隷書→草書→行書→楷書」であり、草書は楷書よりも数百年早く生まれました。

    草書の古典作品例——行草書巻
    草書の古典作品例

    紀元前1世紀:隷書の早書きから誕生

    草書は隷書(れいしょ)の早書きから生まれました。紀元前1世紀ごろの出土資料を見ると、隷書の波磔(はたく=右払いの装飾)とリズムを残しながらも、大幅に省略された文字が見つかっています。

    当時は竹簡(ちくかん)や木簡(もっかん)に文字を書いていました。役人が大量の文書を処理するために速く書く必要があり、その実用的な要求から草書が自然発生したと考えられています。

    隷書について詳しくは「隷書(れいしょ)について学ぼう【書き方・特徴・歴史・古隷と八分隷】」で解説しています。

    後漢〜西晋:簡略化と整理の時代

    後漢(25-220年)から三国時代、西晋へと時代が進むにつれて、草書の簡略化と整理が進みました。西域から出土した晋代の木簡や残紙には、初期の素朴な草書から徐々に洗練されていく過程が記録されています。

    この時期の草書は、書体としての構造や用筆はまだ素朴でしたが、後漢末に張芝(ちょうし)という書家が「今草」と呼ばれる新しい草書体を確立しました。張芝は「草聖」と称えられ、後世の草書に大きな影響を与えています。

    東晋:王羲之が草書の美を完成させた

    草書を芸術として完成させたのが、東晋の王羲之(おうぎし、303-361年)です。王羲之は楷書で確立された三過折(トン・スー・トンの筆法)の原理を草書に取り入れ、それまでの素朴な草書を格調高い芸術に昇華させました。

    王羲之の草書の代表作『十七帖(じゅうしちじょう)』は、友人への手紙29通をまとめたもので、実用の中に芸術が宿る最高の手本です。この作品は、1600年以上たった今でも草書学習の最高峰とされています。

    王羲之がなぜ「書聖」と呼ばれるのかは「王羲之(おうぎし)について解説/王羲之とはどんな人物だったの?」で詳しく紹介しています。

    唐代:孫過庭『書譜』——草書理論の集大成

    唐の時代になると、孫過庭(そんかてい)が687年に『書譜(しょふ)』を著しました。書譜は草書で書かれた書論であり、草書の書き方を草書そのもので実践して見せるという、理論と実技が一体になった稀有な作品です。

    同じく唐代には、懐素(かいそ)の『自叙帖(じじょじょう)』(777年)のように、酔いに任せて一気に書き上げたと伝わる豪放な草書作品も生まれました。張旭(ちょうきょく)とともに「顛張狂素(てんちょうきょうそ)」と呼ばれ、草書の自由な表現の可能性を極限まで押し広げています。

    日本への伝来と「ひらがな」の誕生

    草書は奈良時代に中国から日本へ伝わりました。平安時代になると、日本人は草書をさらに崩して、日本独自の文字「ひらがな」を生み出しました。

    たとえば「安」の草書を崩すと「あ」に、「以」の草書を崩すと「い」になります。普段何気なく使っているひらがなが、実は草書から生まれたものだと知ると、草書がぐっと身近に感じられるのではないでしょうか。

    平安時代の藤原佐理(ふじわらのすけまさ)は草書の達人として「三跡」の一人に数えられ、日本の書道史に大きな足跡を残しました。日本書道の歴史について詳しくは「日本書道の歴史を時代ごとに解説」をご覧ください。

    草書の書き方——5つのコツ

    草書はルールを知らずに雰囲気で書くと誤字になります。逆に、コツを押さえれば上達は早い。ここでは、私が教室で生徒さんに伝えている5つのポイントを紹介します。

    コツ1:まず楷書の形を頭に入れてから崩す

    草書を書く前に、その字の楷書を思い浮かべてください。楷書の構造がわかっていれば、「どの画が省略されているのか」「どこが連続しているのか」が見えてきます。

    教室では、新しい草書の字を練習するとき、必ず先に楷書で3回書いてから草書に取りかかるようにしています。遠回りに見えますが、結果的にこのほうが覚えが早いです。

    コツ2:連続線は細く、本来の画は太く

    草書では画と画をつなぐ「連続線」が現れます。この連続線は、本来は存在しない線です。だから細く書く。本来の画は太く書く。この太細のメリハリが、読みやすく美しい草書の鍵です。

    連続線を太く書いてしまうと、どこが本来の画でどこがつなぎなのか区別がつかなくなり、別の字に見えたり、読めない字になってしまいます。

    コツ3:筆順の違いを意識する

    草書の筆順は楷書と異なることが多いです。その理由は、草書が楷書より前の隷書の時代に成立したためです。隷書の筆順をベースにしつつ、早書きに便利なように接近した画を連続して書くことで、楷書ともまた違う独自の筆順が定着しました。

    「楷書の筆順で草書を書こうとする」のはよくある間違いです。草書の字典を見るときは、筆順もセットで確認する習慣をつけましょう。

    コツ4:部首の省略パターンを覚える

    漢字は多くの場合、偏と旁、冠と脚など複数の部首の組み合わせでできています。草書には、部首ごとに共通した省略パターンがあります。

    たとえば「さんずい」の草書は、どの字でもほぼ同じ形に崩されます。このパターンを覚えれば、新しい字でも「さんずい+旁の草書」で推測できるようになります。一字一字バラバラに覚えるより、はるかに効率的です。

    ただし注意点もあります。同じ部首でも、組み合わせる相手によって省略の仕方が変わることがあります。「偏と旁」のセットで覚えることを意識してください。

    コツ5:迷わず一気に書く(筆勢が命)

    草書で最も大切なのは筆勢——筆の勢いです。途中で止まったり、迷ったりすると、線が死にます。

    私がいつも生徒さんに言うのは「頭で考えてから筆を持って、筆を持ったら考えずに書く」ということ。字の形を頭に入れたら、あとは一気に書き切る。失敗してもいい。止まるよりずっといい。勢いのある失敗からは学べますが、おそるおそる書いた線からは何も生まれません。

    草書の覚え方——効率的な3ステップ

    草書は覚える字の数が多く、挫折しやすい書体です。効率よく覚えるための3ステップを紹介します。

    ステップ1:覚えやすい部首から始める

    草書のなかには、ほとんど省略がなく、楷書との違いが小さいものがあります。こうした部首は直感的に理解できるので、まずここから入りましょう。

    連続と簡略化だけで成り立つ形を先に身につけると、草書の「崩し方の感覚」が体に入ります。いきなり複雑な字に挑戦するより、成功体験を積み重ねるほうが長続きします。

    ステップ2:偏と旁の組み合わせパターンを理解する

    漢字は単独の部首だけの字は少なく、「偏と旁」「冠と脚」「内と外」など複数の要素を組み合わせています。草書には、この組み合わせごとに共通した省略法があります。

    部首の省略形を個別に覚えるのではなく、「この偏とこの旁が組み合わさるとこう変化する」という法則を意識すると、応用力がつきます。ここが草書の覚え方で最も差がつくポイントです。

    ステップ3:丸ごと暗記が必要な字は古典で身につける

    草書のなかには、楷書の形とあまりにもかけ離れていて、法則では説明しきれない字があります。これは草書が隷書の時代に成立した名残で、楷書と隷書で形がまったく異なることが原因です。

    こうした字は、一字一字を丸ごと覚えるしかありません。最も効果的な方法は、古典の臨書(りんしょ)を通じて体で覚えることです。次のセクションで、臨書におすすめの古典を紹介します。

    草書の臨書におすすめの古典3選

    草書を学ぶなら、優れた古典の臨書が最善の方法です。教室でも推薦している3つの名品を紹介します。

    王羲之『十七帖』——草書の王道

    王羲之が友人の益州刺史・周撫に送った手紙29通をまとめた草書の名品です。4世紀の作品ですが、草書学習の最高の教科書として今も使われ続けています。

    十七帖の草書は端正で読みやすく、崩し方にも節度があります。草書の基本を学ぶには最適の一冊です。ただし、やや淡々とした印象で、感情の起伏は控えめ。技術を固めるための教材と考えるとよいでしょう。

    孫過庭『書譜』——理論と実践の融合

    687年に孫過庭が著した書論で、草書で書かれた草書論という唯一無二の作品です。書道の原理を論じながら、その文章自体が最高の草書作品になっています。

    書譜の線は変化に富み、速度の緩急が豊か。十七帖で基礎を固めた後に取り組むと、草書の表現の幅が格段に広がります。中級者以上に強くおすすめします。

    智永『真草千字文』——初心者に最適

    智永(ちえい)は王羲之の7世の孫にあたる僧侶で、6世紀に活躍しました。『真草千字文』は、千字文の各字を楷書(真書)と草書で並べて書いた作品です。

    楷書と草書が横に並んでいるので、「この楷書がこの草書になるのか」と一目で対応がわかります。草書をゼロから学び始める方にとって、これほど親切な教材はありません。私の教室でも、草書の入門として最初に手に取ってもらう古典です。

    よくある質問(FAQ)

    草書と行書の違いは?

    行書は楷書を少し崩した書体で、読みやすさを保ちながら速く書けます。草書は極限まで省略した書体で、学ばないと読むことができません。省略の度合いが行書と草書の最大の違いです。行書は日常の手書きに使えますが、草書は主に芸術作品で使われます。

    草書は独学で覚えられる?

    草書字典と古典のテキストがあれば、独学でも基本的な字形は覚えられます。ただし、筆の運び方やリズム、速度の感覚は、手本を見るだけでは身につきにくいのが正直なところです。可能であれば、書道教室で先生の筆の動きを直接見ることをおすすめします。SHODO FAMのオンライン書道教室でも、画面越しに運筆のリズムを学べる草書レッスンを行っています。

    草書の練習に最適な筆は?

    草書には柔らかい筆が向いています。羊毛筆(ようもうひつ)や兼毛筆(けんもうひつ)がおすすめです。草書は旋回運動が多いため、筆に弾力と柔軟性が求められます。硬い筆(狼毫)だと曲線の表現が固くなりがちです。まずは兼毛筆から始めて、慣れてきたら羊毛筆に挑戦してみてください。

    まとめ

    草書は2000年以上の歴史をもつ、最も自由で芸術的な書体です。隷書の早書きから生まれ、王羲之によって芸術に昇華され、日本ではひらがなの母体にもなりました。

    書き方のコツは5つ。楷書を頭に入れてから崩す、連続線は細く、筆順の違いを意識する、部首のパターンを覚える、そして迷わず一気に書く。覚え方は、覚えやすい部首→組み合わせパターン→古典の臨書の3ステップです。

    草書の名人たちの筆跡を見ると、紛らわしい形もきちんと区別して書かれています。最初は細かい違いがわからなくても、古典に触れ続けるうちに、だんだんその違いが見えてきます。焦らず、筆を楽しみながら取り組んでみてください。草書を基礎から学びたい方は、SHODO FAMのオンライン書道教室もぜひご覧ください。

  • 風信帖の内容を全文現代語訳で紹介

    風信帖の内容を全文現代語訳で紹介

    風信帖ふうしんじょうとは、空海くうかい最澄さいちょう(767~822)にあてた手紙(風信帖・忽披帖こっぴじょう忽恵帖こっけいじょう)計3通をつなげて1巻に仕立てた総称です。

    こちらでは、風信帖3通の内容を全文現代語訳で紹介します。

    第1通「風信帖」

    釈文

    風信雲書、自天翔臨。
    披之閲之、如掲雲霧。兼
    恵止観妙門、頂戴供養、
    不知攸厝。已冷。伏惟
    法體何如。空(海)推常、擬
    隨命、躋攀彼嶺。限以少
    願、不能東西。今思与我金蘭
    及室山、集會一處、量商仏
    法大事因縁、共建法幢、報
    仏恩徳。望不憚煩勞、蹔
    降赴此院。此所々望々。忩々
    不具、釋空(海)状上。
               九月十一日
    東嶺金蘭 法前
                謹空

    現代語文

    お手紙をいただきました。拝見いたしますと、ご近況が明らかとなり、雲や霧が去ったよに心が晴れ晴れといたしました。また、お手紙とともに「摩訶止観まかしかん」の経典を下さいまして、ありがたくいただき、供養をいたします。ご厚情に身のおきどころもありません。厚くお礼申し上げます。

    もうだいぶ寒くなりましたがお体はいかがでございますか。わたくしは、相変わらず元気に過ごしております。

    わたくしも、おことばに従って、お山に登ってお目にかかりたく思いますが、用事に追われて、参上することもできません。いま、あなたと室生むろうざん堅慧けんえと3人がどこか一緒に集まり、仏法の重要な教義や因縁について語り合い、共同の力でおなじ信条にもとづく宗旨の寺を建立して、仏の宏大無辺こうだいむへんの恩徳に報いたいと思っています。どうかそのためにも面倒くさがらずに、わたくしのいるこの寺にあなたのほうからお越しください。これこそ、わたくしの希望するところです。

    9月11日

    東嶺とうれい金蘭きんらん(最澄へ向けたあて名のこと)

    法山(空海の弟子で、室生山の堅慧けんえ

    法前ほうぜん脇付わきづけにあたるもの。僧侶に対してのみ使う用)

    謹空きんくう(手紙の一番終わりに書いて敬意を表す用語)

    第2通「忽披帖

    釈文

    忽披枉書、已銷陶尓。
    御香兩裹、及左衛士
    督尊書状、並謹領
    訖。迫以法縁、暫闕談
    披、過此法期、披雲。
    因還信奉此。不具、
    釋遍照状上。
       九月十三日

    現代語訳

    お寄せいただいたお手紙を早速に拝見いたして、心配も消え安心しました。届けてくださったお香2包と、それに左衛士さえじかみの藤原冬嗣さまの手紙、ともに拝受いたしました。ところがただ今仏事にとり込んでいまして、お手紙を拝見したり使いの方とも話をする時間がありません。この仏事がすんだ後に、すぐに拝見いたし、かならずくわしくご返事申し上げます。ご使者に託して、とり急ぎこの手紙をさし上げました。

    9月13日

    第3通「忽恵帖

    釈文

    忽恵書札、深以慰情。香
    等以三日來也。從三日起
    首、至九日、一期可終。
    十日拂晨、將參入。願
    留意相待。是所望。
    山城石川兩大徳、深
    渇仰望申意也。
    仁王經等、備講師將
    去未還、後日親將去
    奉呈。莫々、責々也。因
    還人、不具、沙門遍照状上。
          九月五日
    止観座主 法前
                   謹空

    現代語訳

    早速にお手紙をいただき、深く安心いたしました。お香などは3日にこちらに参りました。この月の3日からはじめて9日までで仏事が済みます。したがって10日の明け方発足してあなたさまの所へお伺いいたしましょう。どうか、そのおつもりでお待ちいただきたく存じます。山城と石川の両高僧も、深くあなたに帰依しており、その気持ちをお伝えしたいと望んでいます。

    ところで法会のためにととのえた『仁王経しんのうきょう』などの経典は、国分寺の講師が持ち帰ったままで、まだ返して参りません。後日、わたくしが言って取り返してきます。どうぞあしからず、お許しくださいますように。帰りの使いにこの手紙を持たせます。よろしく。

    9月5日

  • 王羲之:蘭亭序の内容を全文現代語訳で紹介

    王羲之:蘭亭序の内容を全文現代語訳で紹介

    書道をされている方なら必ず知っているであろう王羲之の蘭亭序。

    漢文で訳も分からず書いているけど、一応意味も知っておきたいと思いませんか?

    今回は王羲之の蘭亭序の現代語訳を全文を紹介します。
    現代風に意訳した部分や、新字体を用い、現代かな使いを用いています。

    蘭亭序についての詳しい解説・正しい書き方などを知りたい方は「王羲之の蘭亭序(らんていじょ)について詳しく解説【臨書の書き方・特徴、何がすごい?本物は存在しない?】」をチェックしましょう。

    蘭亭序の内容

    東晋とうしん永和えいわ9年(353)3月、王羲之おうぎし会稽山かいけいざん浙江せっこう紹興しょうこう市)のふもとにある蘭亭に名士41人を招きました。

    みぞぎ(身を清め、けがれを取り除くこと)の儀式を行った後に、「曲水きょくすいえん」という詩会を開催し、それぞれが作った詩を集めて詩集を作りました。

    このとき書いた詩集の序文の草稿が「蘭亭序」です。

    内容としては、前半に詩会が行われた会場の情景や天気、集まった人たちがどんな様子であったかを描写しています。後半は王羲之自身が考えること(生きること死ぬこと)を語っています。

    蘭亭序のあらすじ

    永和9年3月3日に蘭亭において禊事けいじを行ったところ、諸賢が余すところなく集まってくれました。自然の環境に恵まれ、しかも天気が良くて気分も爽快になり、曲水に酒杯しゅはいを浮かべ、詩情を心ゆくまで尽くしあいました。

    人はそれぞれありかたが違うとしても、喜びに行きついてしまうと、やがては秋が来て感慨も薄れてしまいます。これは人の命においても、長短にかかわらず必ず最期あることから、「人の偉大さは生死によって左右されるものではない」という古人(孔子)の言葉には決して同意できません。

    古人の文を読むたびに、感激する原因が同じところにあることに気づきますが、過去の人は今の人ではなく、後世の人からすれば自分たちも過去の人になります。生死を同一視するのは嘘で、人が永遠ではないことが悲しいです。

    そこで、今日の詩会に集まった人たちの名と、作られた詩を後世に残すことにしました。後世の人の心を動かすことができたらいいです。

    王羲之:蘭亭序 全文現代語訳

    永和9年(353)癸丑きちゅうの歳、暮春3月の初め、会稽・山陰にある「蘭亭」で禊事けいじをひらきました。心身を清めるのみそぎが目的のもよおしです。おおぜいの知識人、それも年配者から若い人までみんな来てくれました。
    さて、この地には高い山、けわしいみね(山の高くそびえるいただき)に囲まれているところで、生い茂った林、そしてみごとにのびた竹があります。また、清らかな流れと、流れのはやいの川があって、それは左右に映えています。その水を引いて、さかずきを流すための「曲水」をつくり、一同まわりにならんですわりました。楽団が控えていて音楽を奏でるというような華かさこそありませんが、酒を飲み詩をむというこの催しには、心の奥を述べあうに足りるだけのすばらしさがあるのです。
    この日、空は晴れわたり空気は澄み、春風がおだやかに吹きわたっていました。
    我々は、宇宙の大きさを仰ぎみるとともに、地上すべてのものの生命のすばらしさを思いやりました。
    かくして目の保養をはかり、また心を開いてのべ合い、目や耳を十分に娯しませることができ、まことに楽しいことであった。

    そもそも人間が、同じこの世で生きるうえにおいて、ある人は心中の見識こそいちばん大切だとして、部屋の中で語り合うこともあるでしょうし、ある人は何かに託して、形骸を忘れて自由に生きようとします。
    その生き方はいろいろであり、静と動と同じではないけれど、それぞれに自分の境遇を喜び、しばらく思うように言っている時には、心地よく満足して、老いがわが身に迫ろうとしていることも忘れてしまいます。
    しかし、している事にやがて飽きがきて、気持ちもそれにつれてうつっていくと、やがて感慨がいてきます。以前、あれほど喜んでいたことでも、しばらくたつともはや過去のこととなってしまい、とりわけこのことで物思いを起こさずにはいられません。
    まして命の長い者も短い者も自然の変化のままに、やがては命尽きてしまうからにはなおさです。古人(孔子)は「死と生は人生の大事である」といいましたが、これほど痛ましいことはありません。

    昔の人がいつも何に感激していたか、そのさまをみてみると、私もまったく同じことを思いました。そうして古人の文章を読んでは、これまでなげいたまないことはありませんでしたが、それを心にさとるところまではいけませんでした。しかし今や、死と生は同じと見るのはでたらめです。長命も短命も同じだなどというのは無知そのものであることが、よくわかりました。

    後世の人々が今の私たちを見るのも、ちょうど今の私たちが昔の人々を見るのと同じでしょう。悲しいことですが、そこで、今日あつまった人々の姓名を書き連ね、その作った詩を記録しておきます。世の中は変わっても、心に深く感ずるということの根拠は、結局のところかわりはありません。したがって、後世これを手にとって見てくれる人は、きっとこの文章に何かを感じてくれるにちがいないと信ずる次第です。

    蘭亭序についての詳しい解説・書き方は「王羲之の蘭亭序(らんていじょ)について詳しく解説【臨書の書き方・特徴、何がすごい?本物は存在しない?】」で紹介しています。

  • 王羲之の字を集めた集王聖教序:碑文の内容、字の集め方などを解説

    王羲之の字を集めた集王聖教序:碑文の内容、字の集め方などを解説

    今回は、集王聖教序の呼び方で、どういったものなのか、文の内容などを解説していきます。

    集王聖教序の概要

    集王聖教序しゅうおうしょうぎょうじょ」は、中国とう時代に王羲之おうぎしの真跡から文字を集めて(集字して)作られた碑の拓本です。

    当時の都であった長安ちょうあん弘福寺こうふくじ懐仁えにんという僧侶が24年の歳月をかけて完成させ、672年に碑が建てられました。

    王羲之の字姿をもっともよく伝えるものとして古来、学書の手本としても珍重されてきました。

    碑文の冒頭にあるように「大唐三蔵だいとうさんぞう聖教序しょうぎょうじょ」とも呼ばれています。ほかに、碑の上部に七体の仏像が彫られていることから、「七仏しちぶつ聖教序」とも称されています。
    王羲之おうぎしの字を集めて作成されたので、一般には「集王聖教序しゅうおうしょうぎょうじょ」「集字聖教序しゅうじしょうぎょうじょ」の名で親しまれています。

    これは唐の僧・玄奘げんじょう法師が持ってきたサンスクリット語(古代インドの文語)の経典を中国語に翻訳した業績を記念するために作られました。

    碑文の主な内容は、唐の太宗たいそう皇帝が玄奘の経典を翻訳したことを称えるために書いた序文、皇太子・高宗こうそうによる序記、玄宗による「謝表」、および「心経」です。

    玄奘(げんじょう)は有名な三蔵法師

    玄奘は、三蔵法師という名前で3人の弟子と天竺てんじくまで経典を求めて旅する物語、「西遊記さいゆうき」で有名です。

    現在は陝西省博物館の西安碑林の第二室に列置され、私たちは高さ350センチ、幅113センチの立派な碑を今でも見ることができます。

    碑文のくわしい内容

    太宗たいそう皇帝による序文、高宗こうそうによる序記にはどのようなことが書かれているのでしょうか。その内容について簡単にまとめてみます。

    太宗皇帝による序文

    太宗たいそうの序文では、仏教が崇高すうこうで奥深いことを説き、その教えがインドにおこり、中国にも福音ふくいん(救い)をもたらしたが、真の教えとは程遠いことを述べます。次に、清らかな精神と非凡な才知をもつ玄奘げんじょうが、仏教をより研究しようとインドへ行くことをこころざし、旅の苦労を超えて三蔵の経典を国へ持って帰り、翻訳した功績をたたえます。最後に、この経典が広がって日月とともにおろそかにおろそかにならず、至福が永遠にもたらされることを願います。

    これに対し玄奘は「あなたにむなしくお褒めの言葉をわずらわせた」と謙虚な返答もあります。

    高宗による序記

    高宗こうそうの序記は、最初に聖教はさまざまな理法(道理にかなった法則)の根元であり、あらゆる経典の規範であるが、奥深くなかなか研究し尽くせない、といいます。つぎに、皇帝陛下の聖徳によって仏教が中国に広められ、玄奘げんじょうがはるかインドから聖教をたずさえて帰国し、命令を受けて弘福こうふく寺で翻訳した経緯をしるします。そして、陛下が美しい序文をおつくりになったので、序記を作ってこれに添えます、と述べます。

    これに対しても玄奘は謙虚な返答をし、さらに高宗が「労をかけて申し訳ない」と返答しています。

    般若心経

    最後に般若心経はんにゃしんぎょうが刻されています。そもそも般若心経は「大般若経」という600巻におよぶ長編の経典から、その神髄しんずいを抽出したものです。原点はサンスクリット語なので、さまざまに漢訳されていますが、日本で広く読まれているのが玄奘訳の般若心経です。

    集王聖教序は王羲之の書を集めたもの

    この碑は「書聖しょせい王羲之おうぎしの書跡から文字を集字して、あたかも王羲之が書いたように似せています。

    実際、碑文の二行目に「弘福こうふく寺の妙門みょうもん懐仁えにんしん右将軍うしょうぐん王羲之の書を集む」と書かれています。

    王羲之は、4世紀中期の人で、集王聖教序が建てられる300年ほど前の人です。その当時から書家として有名で、その書跡は珍重ちんちょうされました。

    唐代に入り、太宗たいそう皇帝は王羲之の書を大いに好み、「蘭亭序らんていじょ」をはじめとして、大量の王羲之の書跡を収集しました。そして自らも王羲之の字を学び、臣下しんかにもこれを学習させました。

    この太宗が収集した大量の王羲之の書跡の中から、文字を集字して作られたのが、この「集王聖教序」です。

    懐仁による集字

    弘福こうふく寺の僧・懐仁えにんが、20年ほどの歳月をかけて集字したとされています。

    弘福寺をはじめとする都の僧侶たちが、太宗にこれを石に刻す許可をえて、その後懐仁らに託して王羲之の字を集めて碑に彫らせました。

    碑の文字数は、重複を含むとはいえ1900字を超えますから、相当な量の原跡がないと不可能です。

    内府に収蔵されていた王羲之の書跡からのほかに、当時懐仁は、王羲之の筆跡を収蔵している人がいると聞くと、どれほど遠くても訪ねていき、それを借り受けました。また王羲之の書跡を持っており、この機会に乗じて高値で売って、大儲けしようというものに対しても、懐仁は大金で買い取ったと言います。

    他にも王羲之の文字を集字したものとして、「興福寺断碑」「新集金剛経」がありますが、彼の字をよりよく伝えるものとして「集王聖教序」が最も優れています。

    ほかの「聖教序」

    玄奘げんじょう法師は、懐仁えにんに王羲之の字を集めてもらっている間に、当時の著名な大書家である、褚遂良ちょすいりょうにも「心経」を書いてもらうように依頼し、碑を西安にある慈恩寺じおんじの大雁塔がんとうの下に建てました。これが、「雁塔聖教序がんとうしょうぎょうじょ」です。

    雁塔は、インドから将来した経典などを安置しておくために建てられた塔です。

    集王聖教序は王羲之の文字を伝える貴重な資料

    現代において王羲之の真跡作品は1つも存在していません。
    今あるのはこの碑をはじめ、模本といわれる写しや、法帖に刻されたものばかりです。

    そのため、この碑は王羲之の文字を伝える最も貴重なものの1つということができます。

    「集王聖教序こそ、王羲之の行書にもっとも準拠すべき作だ」、という人がいれば、「間違いなく摸本から採り、懐仁えにんの、すなわち唐人の好みにあった王羲之が入り込んでいるため王羲之の文字の真相を見ることはできない」という意見もあります。

  • 曹全碑(そうぜんひ)の全貌とその美しさを学ぶ/臨書の際に気をつけたい書き方・特徴

    曹全碑(そうぜんひ)の全貌とその美しさを学ぶ/臨書の際に気をつけたい書き方・特徴

    曹全碑は中国の歴史的な書道作品であり、その美しさと独特な特徴が注目されています。

    本記事では、曹全碑の基本情報・内容・魅力について詳しく解説します。
    また、臨書のための書き方・特徴も紹介します。

    曹全碑の基本情報

    曹全碑
    曹全碑

    曹全碑そうぜんひは、曹全そうぜんという人物の功績を称えるために建立された石碑です。

    後漢ごかんの末期、185年(中平2年)に作られました。

    書かれた文字が優れていることから、書道芸術においてその書風が注目されています。
    書体は隷書れいしょで書かれています。典型的な八分隷はっぷんれいです。

    正式名は「漢郃陽令かんこうようれい曹全碑」と言います。

    曹全碑の原石は現存しており、現在は中国の陝西省せんせいしょう西安市せいあんし西安碑林せいあんひりんの中に保存されています。

    碑の大きさは272×95センチで、碑首はなく、20行、一行45。

    曹全碑の出土と来歴

    曹全碑の全拓 碑が断裂してしまっている
    曹全碑の全拓 碑が断裂してしまっている

    みん万暦ばんれき年間(1573~1620)の初めに、今の陝西省せんせいしょう広陽こうよう県の東、当時の都である洛陽らくようからほど近い莘里しんり村から出土しました。
    碑石は出土時、完全な状態で文字もはっきりしており、美しい状態でした。

    永らく土中に埋められていたため、石の破損が少なく、刻字当初の美しい文字の姿をとどめていました。

    後漢ごかん王朝がおとろえ、弟の永昌太守えいしょうたいしゅ曹鸞そうらんも政権抗争で殺され、曹全そうぜん自身も7年間身を隠したりしました。その後、黄巾こうきんの乱を収めるなどの功績で完成近くまで進められた建碑でしたが、再び政変による曹全の失脚によって、建碑に関わった人たちは、この碑が自分たちに影響を及ぼすことを恐れ、建碑することなく、そのまま地中深くに埋めてしまいました。

    その結果、約1300年ものあいだ土の中で磨滅まめつをまぬがれ、綺麗な状態で出土しました。

    しかし出土してからは、おろそかな保管と歳月の浸食によって欠字が出てしまったり、台風のために木が倒れてきて碑が断裂してしまったりします。現在見ることのできる曹全碑の拓本の大部分は石碑が割れてしまった後のものです。顧公雄の家族が寄贈した《曹全碑冊》は、石碑断裂前の拓本で、欠字もない完全な状態を保存しており、もっとも貴重な拓本だと言えます。

    現在は、陝西せんせい西安せいあん市の西安碑林せいあんひりん博物館に安置されています。

    曹全碑の内容

    内容は、曹全そうぜんという人物が、地方の黄巾こうきんの乱を収めたことや、民政に功績をあげたことなどがしるされています。
    つまり彼の功績をめたたえるものです。

    曹全碑のくわしい内容は「曹全碑 全文 日本語訳」をご覧ください。

    碑の主人公:曹全とは

    曹全そうぜんとは人の名前で、あざな景完けいかんといい、敦煌とんこうにおける漢人豪族の末裔まつえいです。

    高祖こうそ(遠い祖先の意味)以来、5世にわたって相当な官位についていますが、曹全は幼くして父を亡くし、義祖母に養育され、継母けいぼに仕えました。

    学を好み、親孝行にあつく、当時、「親を重んじ歓を致す曹景完」ということわざがあったそうです。

    官についてからは、一時、党錮とうこの禁にい失脚したこともありましたが、官史としては有能であっただけでなく、武将としても臨機応変な策略が得意でした。張角ちょうかくらによる黄巾こうきんの乱(組織的な農民反乱)のとき、陝西省せんせいしょう郃陽こうよう令(長官)に選ばれ、治安を収めることに成功しました。

    曹全碑が持つ文化的意義

    隷書の規範とも言え、隷書の基本的構造を知るうえで格好の古典です。

    隷書体における曹全碑の位置づけ

    曹全碑は、乙瑛碑いつえいひ礼器碑れいきひと並び、隷書碑がもっとも盛んになる後漢ごかん時代の代表的な作品です。

    従来、礼器碑れいきひとともに漢隷の双璧とうたわれてきた作品で、漢隷の最大の特徴である波勢の美しさがあますことなく表現されています。

    曹全碑の芸術的な価値と影響

    曹全碑は、隷書碑のなかでも点画のすみずみまで心配りした理知的な構成と、肥痩ひそう・強弱の運筆、ゆったりとした上品で余裕のあるおもむき、どれ1つをとっても優れています。

    刻された文字ではありますが、筆意に富み、肉筆のような味わいがあります。

    左右の均衡を絶妙に保つ点画構成、扁平に構え密度のある字形、伸びやかな波磔など、その書法はかん時代の隷書の1つの典型を示しています。

    全く風化作用を受けず、まるで真跡に接しているかのように筆路、用筆、結体の特徴がよく分かり、しかも碑文字数の多い曹全碑は、隷書学習の入門書として最適だと言えるでしょう。

    曹全碑の書き方・特徴を7つ紹介

    ここからは、曹全碑の書き方・特徴を紹介します。

    曹全碑は、隷書の基本的な特徴である、扁平・水平・等分割に加え、
    伸びやかな横画・右はらい、ゆったりと流れるような美しさ、という点が特徴的です。

    以下の書き方・特徴に注意すれば、曹全碑をうまく表現できるでしょう。

    1. 字形は扁平
    2. 水平
    3. 等間隔
    4. 丸みのある線
    5. 伸びやかなはらい
    6. 曲がり角(折れ)は2画に分けて
    7. 点も丸く丁寧に

    以下それぞれ詳しく解説します。

    字形は扁平

    1つ目、隷書は基本的に扁平へんぺいな形をしています。

    扁平に見せるために文字造形にさまざまな工夫がみられます。
    縦画を短くして横画の長さを強調する、斜めの線においても水平に近い角度、などが挙げられます。

    図で紹介した文字では、
    ・「分」は、「八」の間に「刀」が入れる
    ・「布」は、真ん中の縦画を短くする
    ・「所」は、左の縦画が水平に近い角度ではらう
    などの工夫がみられます。

    横画は水平

    2つ目、横画は基本的に水平です。

    隷書は扁平へんぺいなので、自然と横画が見立ちます。
    波磔はたくのついた長い横画があれば、横への動きはより誇張されます。

    中には、波磔はたくへんつくりの関係によって一部の横画が傾いていたとしても、全体としては水平に見えるようにバランスをとりましょう。

    線と線の間は等間隔 

    3つ目、水平な横画を美しく見せるためには、線と線の間隔を等間隔にすることが大切です。

    単体の文字で横画が3本以上の場合、等間隔になっています。

    横画が重なるときは、なるべく感覚を詰めて扁平な字形にしましょう。

    丸みのある線

    4つ目、始筆は、穂先を中に巻き込むようにして、先端を丸くします(蔵鋒ぞうほう)。
    筆の入り方は、右巻き・左巻きのどちらから書いても良いです。

    送筆部分は、穂先が線の中心を通るようにしましょう(中鋒ちゅうほう)。

    終筆は、止めたらそのままスッと筆を離します。

    波磔のある横画は、終筆部分でいったん止めた筆を右下に押し下げ、徐々に筆を抜いていきます。

    ただし、1字のなかで波磔をつけるのは、1画のみです。(一字一波)。

    伸びやかなはらい

    5つ目、左右のゆったりとした伸びやかさや、穏やかで軽やかな風格を表現するためには、左右に広がるはらいの勢いに注意します。

    左はらいは、縦画と同じように筆を入れ、左ななめ下に向かいます。終筆部分は止めたらそのまま離すか、軽く押し出します。

    右払いは、多くの場合に波磔はたくをもっています。横画と角度は違いますが、波磔のある横画と同じような運筆うんぴつではらいましょう。

    曲がり角(折れ)は2画に分けて

    6つ目、曲がりかどは筆を一旦離してから、2画にわけて書きます。

    それぞれ独立した2つの線を組み合わせて1画をつくるのは、隷書のおおきな特徴です。

    点も丸く丁寧に

    いろいろな形の点がありますが、基本的に横画、縦画と同じように丸め込んで書きます。

    点は筆画のなかでもっとも小さい画です。軽視せず隷書の書き方に従って丁寧に書きましょう。

    曹全碑の上達には道具も大切

    ここまで曹全碑の書き方を紹介してきましたが、上達するためには道具も重要です。
    ちゃんとした筆で練習していないと、いつまでも上達せず、間違った方向に進んでしまうこともあります。

    作品を書く際、
    「お手本のようになかなか上手に書けない…」
    「筆が思うように動いてくれない…」

    という方は、普段使っている筆と違う筆を試してみるといいかもしれません。

    ちなみに、おすすめの書道筆は【おすすめ】書道筆「小春」を紹介/もう筆のせいで失敗しない【悠栄堂「小春」】を参考にどうぞ。↓

    曹全碑の特徴を身につけて美しい隷書を書こう!

    曹全碑の来歴・内容・隷書のなかの位置などに加え、
    臨書の際に気をつけたい書き方・特徴を紹介しました。

    曹全碑は、隷書の古典のなかでもとくに「ゆったりと流れるような美しさ」が最大の特徴であり、魅力的なところです。

    今回紹介した書き方・特徴に気をつけ、正しい筆を使えていれば、曹全碑の美しさを表現できるようになるでしょう。