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  • 九成宮醴泉銘の全文現代語訳/日本語訳

    九成宮醴泉銘の全文現代語訳/日本語訳

    九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめいは、魏徴ぎちょうが文章を作り、欧陽詢おうようじゅんが文字を書きました。

    九成宮醴泉銘の全文現代語訳/日本語訳を紹介します。

    また、九成宮醴泉銘の書き方・臨書のコツなどは「欧陽詢の九成宮醴泉銘について詳しく解説【臨書の正しい書き方・特徴・コツ・書風/内容なども紹介】」をご覧ください。

    九成宮醴泉銘の全文現代語訳/日本語訳

    貞観じょうがん6年の初夏4月、皇帝は九成宮きゅうせいきゅうに避暑なされた。これはつまりずい仁寿宮じんじゅきゅうである。山の頂きに宮殿を高く構え、谷をせきとめて池をつくり、水をまたいで橋をかけ、岩山を分けて宮門をそびえたたせる。高閣はめぐりたち、長い廊下は四方に走り、さまざまな建物がはるかに続き、高殿が高低いり乱れて建つ。仰ぎ見れば、その高くそびえる様は百尋ひゃくじん(長さの単位、一尋は1.8m)ばかり、見おろせば深くはるかなことは千仞せんじん(高さの単位、一は2mあまり)もあるほど。真珠や璧玉が照り映え、金と碧が輝きを競うかのようであり、雲霞うんかけつくすように照らし、日月じつげつおおい隠さんばかりである。このように山を移し、たにがわをめぐらして、贅沢ぜいたくを極め、多くの人を自己の欲のまま従わせたのをれば、大いに心とがめるが、金をも溶かす炎天にも、蒸し暑さとてなく、微風が静かにそよぎ、清らかな涼しさがあるのに至っては、まことに体を休めるのによい所であり、まことに心を養うのにすぐれた地である。漢の甘泉宮かんせんきゅうでさえも、この点ではかなわないだろう。

    太宗たいそう皇帝は、20歳にして尚書令しょうしょれいとして天下を治め、30歳となると帝位に即位され、たくさんの民を安んじ治められた。はじめは武功でもって天下を統一し、のち文徳ぶんとく(武力ではなく、学問によって)でもって遠い国の人々をもなつけられて、東は青丘せいきゅうを越え、南は丹徼たんきょうを越える国々まで、みな宝物を献上けんじょうしその土地の物産をささげ、通訳を重ねて来朝し、西は輪台りんだいに及び、北は玄闕げんけつに至るまで、みな土地はわが中国の州県の1つとなり、人々は戸籍こせきに編入されたのである。気候は穏やかで、4時は順調にめぐり、近きは安らかで遠きはつつしみ、生きとし生けるものみな生をまっとうし、天のめでたいおくものがことごとく至った。これは天地の功によるものではあるが、つまるところ、天子のおぼしのおかげである。我が身を忘れて万物を利し、風にくしけずり雨にもくし(濡れる)、民衆を思いやって、そのうれい(心配)のあまり病いとなられた。それは堯帝ぎょうていが政治の疲れの為にしわだらけになったことに同じく、禹王うおうが治水(洪水にならないよう)にけ回って足を痛めたこと以上である。そして何度も治療されたが、なお肌には張りがなく病気は思わしくなかった。

    皇帝は京師みやこの宮殿におられ、いつも夏の激しい暑さに疲れられた。そこで群臣は離宮を建てて心をやすめ静養されることを願ったが、陛下は一夫の労力をも大切にされ、十家の財産をも惜しまれて、かたくこばんで、承知しようとされなかった。そこで考えられたこのには、ずい氏の旧宮である仁寿宮じんじゅきゅうは、前代に作られたものであり、これを棄ててしまうのはまことに惜しく、また壊すのは労力を重ねることとなる。ものごとは、ふるいものにしたがうのを大切にするべきであり、どうして改めて作る必要があろうか、とのことであった。そこで華美な彫刻を削って質素なものとし、削り去った上にさらに削り、贅沢なところや過度なものを取り去って、また崩れている所はきなおした。その結果、丹塗りのにわに砂や小石をまじえ、白い壁に泥をまじえて、ぎょくを敷きつめた石畳いしだたみが土の階段に接し、茅葺かやぶきの建物が玉で飾った宮室に続くこととなった。仰いでその壮麗さをみては、滅び去った隋の代をおのれのいましめとすることができ、俯して倹素なさまをみては、教えを後世に示すに足るものである。これはいわゆる「至人はす無く、大聖はさず」ということであり、かの隋の文帝ぶんてい(隋の初代皇帝)がその力を尽くしたものを、わが太宗皇帝が享受きょうじゅするというわけである。

    ところで、旧時の沼地はみな谷川の水を引いてきたものであり、この九成宮の城内にはもともと水源がなかった。求めようにも無いのが、この水であったのであり、人の力ではどうしようもないものであったが、皇帝はこのことを心におもい、忘れられなかった。さて4月16日のこと、皇帝は皇后とともに、城内の建物を見て回られた。西城の下を散歩し、高閣の下に立ち止まって、うつむいてその土をご覧になったところ、かすかに湿り気があるのを感じられた。よってつえで突きさすと、泉がそこから湧きだしたのであった。そこで石の井桁いげたでその泉を囲んで水をめ、その水を引いて水路を作った。その清らかさは鏡のよう、味の良さはあまざけのようであった。水は南に丹霄殿たんしょうでんの右に注ぎ、東に流れて双闕そうけつをこえ、青瑣せいきをつらぬいて流れ、紫房をめぐりとりまいて、清波をはげしくたてて流れ、きずやけがれを洗い去る。その水は正性を導き養うことができ、心を清め磨くことのできるものであり、様々な形をありのままにうつし出し、万物をうるわしはぐくむ。それは天地の恵みが尽きないのに同じく、皇帝の恩沢おんたくが絶えないのに等しい。このことはただ天の精華であるばかりではなく、思うにまた地の宝でもあるのである。

    つつしんで考えてみるに、『礼緯れいい』には「王たる者の刑罰が罪に相当するものであり、恩賞が功にふさわしいものであって、それらが礼法にかなったものであれば、醴泉れいせんが宮中の庭に湧き出る」という。『鶡冠子かつかんし』には「皇帝の徳が上は天に及び、下は地に及び、中は万物に及べば、醴泉が出る」という。『瑞応図ずいおうと』には「王たる者の心が、純粋でおだやかであり、飲食物を献上させたりしなければ、醴泉が出て、それを飲めば長生きすることができる」という。『東観漢記とうかんかんき』には「光武帝の中元元年(56)に、醴泉が京師に出た。これを飲んだ者は、永年の病気がみな治癒ちゆした」という。してみると、このような瑞祥ずいしょうがあらわれたのは、まことに太宗皇帝をたすけるものであり、その永年の病気を除くことができるうえに、さらにその長寿をのばすこととなろう。

    かくして公卿百官こうけいひゃっかんが駆けつけて、大いに驚いたが、我が皇帝は賢く謙遜けんそんの心をいだき、自らの美徳によるものだとはされなかった。たとえ美徳とされようとも、美徳だと自負してはならぬ、ということは、ただいにしえに聞くばかりのものではなく、また瑞祥をいましめとする、ということは、いまこの時にその実例をのあたりにした。これこそ天帝のくだした瑞兆ずいちょうであり、天子の美徳であって、どうして私ののような浅学の者が、世のなかをはっきり見ることができるものであろうか。しかし、私の職務は天子の発言をしるしておくことであり、その職に属してことを書しておかねばならない。国家のこの盛美を、記録に書き落としてはならないのであり、あえてありのままを述べ、ここにこの銘をきざむのである。

    ことばにいう、皇帝は帝位につくめぐりあわせを手に入れて、天下を統一された。皇帝がこうして千載一遇せんざいいちぐうの時にあたって帝位につかれると、万物は感応し、仰ぎ見てたたえた。その功績はかの大舜だいしゅん(儒教の聖人)よりも高く、懸命に勤め励まされたことは、かの伯禹はくう(伝説上の聖王)以上である。まさに空前絶後、三皇に達し、五帝にまさるものである。

    天下のかなめを握り、人の道を守られたことは、これこそ聖これこそ神といえるもので、武威をもっては天下の混乱をおさめ、文徳をもっては遠き辺境の民族をなつけられた。古い記録にも記されず、開闢かいびゃく(世界の始まりの時)以来、家来として主君に服従したことのなかったものも、みな我が中国の公的な服装をして続々と来朝し、献上された宝物、地元の物産がたくさん並べられた。

    大いなる道に名づけるべき名などなく、最上の徳は自らに徳があるとはしない。奥深い天のわざは、ひそかにめぐりゆきわたり、そのかすかなことは測り知れない。民は井戸を掘っては水を飲み、田をたがやしては食べるが、天のめぐみに感謝するものもなく、どうしてそうした満ち足りた生活が天子のおかげであることを知ろうか。

    天のなすわざには匂いも音もないが、万物はそれをもととして始まり、それぞれの形をうけて広がった。聖人が世に出たことに感じて、すべてはその性質をかえ、またその徳にこたえて不思議なしるしが現れた。それは音に応する響きのようにはっきりしており、盛んで明らかなものであった。

    (昔からすぐれた治世ちせいには)天は次々と大きな幸いを降し、盛んに多くの福をあらわした。雲氏うんし竜官りゅうかん亀図きと鳳紀ほうきをはじめ、日が5色の光を含み、3本足の鳥があらわれるなど、楽人はそれをほめたたえて歌うのをとめることなく、史官はその記録に筆をやすめることができないほどであった。

    最高の善には天は幸いを降し、最高の智者たる聖王はそれに喜ぶ。醴泉の水は低きに流れて地を潤し、さらさらと流れてけがれがない。ほとりに生える水草の味はうまく、水のあまざけにょうに甘く、また氷や鏡を思わせるほど清らかでみわたっている。いくら用いようと日々に新しく、めども汲めども尽きることがない。

    道はその時どきに従ってやすらかに通じ、天のくだす幸いは泉とともに広く流れ及ぶ。しかし我が皇帝はつねにおそれ慎まれて、美徳とするに値することも、そうは考えられない。粗末な住まいを尊び、楽しみにもはめをはずすこととてなく、天子の乗るにふさわしい立派な黄屋の車も欲しがることなく、天下をもってうれえとなされた。

    前人は華美をもてあそんだが、我が皇帝は質素を大切にし、すなおで飾りけがない本来の姿もどして、ぶんしつにかえられた。高いところにては、ちはしないかと懸念けねんし、満ち満ちたものを持っては、あふれはしないかといましめつつ、このことを常に思い、行い、いつまでも正しい道を保っていれば吉を得るであろう。

    九成宮醴泉銘について詳しく学ぶ

    九成宮醴泉銘について、歴史的背景や書き方・臨書のコツなどを詳しく知りたい方は、
    九成宮醴泉銘について解説/臨書の書き方のコツは?気をつけたい3つの特徴を紹介【書道のうでまえアップ】
    をご覧ください。

  • 鄭道昭の鄭羲下碑(ていぎかひ)とは/内容や書き方を解説

    鄭道昭の鄭羲下碑(ていぎかひ)とは/内容や書き方を解説

    鄭羲下碑(ていぎかひ)は、作者である鄭道昭ていどうしょうが父の鄭羲ていぎ(426~492)のために書いたもので、北魏永平4年(511)にはじめは天柱山に刻したのを上碑、雲峰山に「石の好きを以て此れに之を刊す」とあるのを下碑と呼びます。

    この碑は山東省の掖県に現存しています。自然にある石の壁面に刻されているため、凹凸が激しく、字は等しくありません。

    鄭道昭鄭羲下碑のほかに、「論経書詩」「登雲峰山観海童詩」「天柱山東堪石室銘」などを残していますが、いちばん洗練され、素朴な中から完成度が高いのはやはり鄭羲下碑でしょう。

    今回は、鄭道昭の代表作である鄭羲下碑について、内容、書き方などを解説していきます。

    鄭羲下碑の作者、鄭道昭について

    鄭道昭ていどうしょう(?~516)は、滎陽けいよう開封かいふう(河南省)の人です。あざな僖伯きはく

    父は鄭羲といい、字は幼驎、兄は懿といいました。

    少年時代から学問を好み、多くの書物を総覧したといい、自ら中岳先生と号しました。

    北魏の高祖(考文帝)に仕え、官吏かんしとしては、まず秘書郎となり、主文中散をへて員外散騎侍郎、秘書丞兼中書侍郎となり、累進して司徒諮議(教育の諮問者)、通直散騎常侍(天子の近くで事の可否を決定する官)、国子祭酒(教育行政を取り扱う官庁長官)、秘書監(宮中の機密の記録)

    そのほか、司州大中正、使持節督光州諸軍事、平東将軍光州剌史(県長)となって萊城(今の山東省掖県)に赴任しました。

    さらに、のち青州剌史に転じ、再び秘書監として洛陽に帰り、熙平元年(516)に亡くなっています。

    鎮北将軍相州剌史を贈られ、文恭ぶんきょうおくりなせられました。

    高祖が饗宴の際に、道昭、兄の懿とともに侍坐し、楽に酒に大いに腕を競いました。

    道昭がその作品の多くを残したのは光州在任中のときです。

    また好んで詩賦を作り、その数は数十篇にもなるといいます。

    光州、青州の2州に任期中は政務寛厚、威形に任せず、市民から大いに愛されました。

    また、道昭の3番目の子述祖も、北斉時代の書人として有名です。「天柱山銘」「重登雲峰山銘」などがあり、父である道昭とはまた違った味わいがあります。

    鄭羲下碑について

    鄭羲下碑 整本

    鄭公文碑は上に書いたように上碑と下碑に分けられており、鄭道昭がその父鄭羲の事績を後世に伝えるために刻したものです。

    高さ約2メートル、幅約3.4メートルの碑形に刻された摩崖碑まがいひです。

    磨崖(まがい)とは

    摩崖まがいとは、天然の岩壁を利用して文字や画を刻したもののことです

    題額は7字「熒陽鄭文公之碑」が楷書で字の大きさは13センチほどあります。本文は51行、毎行29字、1字の大きさは7センチほどです。

    中央にななめに長く石裂が入っており、字はそれを避けて刻されています。

    鄭羲下碑が人気になった理由

    清の阮元が現地に行き、その全拓を得てから有名になったもので、それまでほとんど世に出ていませんでした。

    わずかに宋の趙明誠の金石録に著録されている程度で、その存在さえもあまり知られていませんでした。

    中国の書は、清時代の中期ごろまでいわゆる帖学派によって支えられてきましたが、清朝の後半、碑学派の勢力が拡大してきます。

    碑学が盛んになり、包世臣ほうせいしんが「芸舟双楫げいしゅうそうしゅう」の中で鄭羲下碑は篆隷の古意を得ていることを激賞したことによって、北碑派の書人から非常に高く評価されるようになります。

    日本では江戸末期までの御家流的書風から一変し、この中国からの影響が日本の明治以降の書道を180度転換のきっかけとなります。

    日本の書家中林梧竹が中国にわたり、潘存に師事したり、楊守敬が来日して日下部鳴鶴などが碑学派の教えを受けて、日本の漢字界に碑学的基礎を固めました。

    日下部鳴鶴は廻腕法でこの鄭道昭の書風をマスターし、数多くの門下生につたえ、そのまた門下生の多くがこれを学びました。

    鄭羲下碑の書き方・運筆法

    鄭羲下碑を書く際に使う筆は基本的に普通の兼毫筆けんごうふでが使いやすいと思いますが、人によっては素朴な雰囲気を表現するために羊毛の筆を使う人もいます。

    筆法は、楷書を篆書の筆意で書いたと思えば一番わかりやすいと思います。

    そのため払いは行草のようになって角張ったものが少なく、非常に伸びやかです。

    線質は古淡とか、素朴と表現されます。千数百年の風化によって刻した直後とはだいぶ変化があると思います。

    そうすると、この拓本の見たままを真の鄭道昭の字をするべきか、紙に書いた鄭道昭の字はどんな字なのかに大きな疑問を持たざるをえません。

    また磨滅の部分が多いために、線の位置・方向・雰囲気などの見極めがむずかしい字が多いです。虚画(見えない線)と実画(見えてる線)の区別もつけづらく、その場合は他の字と見比べて正しい判断を下す必要があります。

    磨滅した部分をそのまま書くのは正しくないかもしれません。しかしあまり判断が難しい磨滅の字を無理に書く必要はありません。

    1300字もある中で見やすいものはたくさんあるのでそれだけで十分です。

    臨書作品の際も分からない文字は飛ばしても構いません。

    さいごに

    ここまで鄭道昭の鄭羲下碑について内容や書き方なのどを解説してきました。

    鄭羲下碑は鄭道昭が摩崖まがい(大きな石の壁面)に直接書いたものなのか、それとも紙に書いたものを刻したものなのか。

    磨滅した線質を鄭道昭の線だとするのは無理があるように思うため、鄭道昭が紙に書いた場合どんな字を書いたのかとても気になります。

    自分自身がじかに原本を観察して気付くもの、悟るものを総合して、鄭道昭の書法を探求していきたいと思います。

  • 褚遂良が書いた孟法師碑(もうほうしひ)の特徴や碑が建てられたきっかけ

    褚遂良が書いた孟法師碑(もうほうしひ)の特徴や碑が建てられたきっかけ

    初唐の三大家のひとりである褚遂良ちょすいりょう(596~658)の作として、伊闕仏龕碑いけつぶつがんひ(貞観15年・46歳)、孟法師碑もうほうしひ(貞観16年・47歳)、房玄齢碑ぼうげんれいひ(55歳ごろ)、雁塔聖教序がんとうしょうぎょうじょ(永徽4年・58歳)の4種類の楷書碑が伝えられています。

    房玄齢碑と雁塔聖教序は独自の書法を完成させた晩年期の作品ですが、伊闕仏龕碑孟法師碑は虞世南・欧陽詢の長所をもとに隷法を加味した壮年期の作品で、今回紹介する孟法師碑は早くに原石を亡失した幻の名作です。

    孟法師とは

    孟法師とは、道教におけるいわゆる女道士(女仙)のひとりです。

    法師とは、道士の修行によって与えられた称号のことです。

    彼女は湖北江夏安陸の人、俗名は姓を孟、名前を静素せいそといいます。

    幼少のころから仙道(仙人になるための修行)をしたい、世俗にからはなれ、15歳の成人式もすませ、結婚の準備も整いましたが、結婚を取りやめて女道士となりました。

    経典をつつしおさめ、長く野菜だけを食べ、昼間には俗気を洗い、夜中には登仙とうせん飛行ひこうを修業しました。

    登仙飛行(とうせんひこう)とは

    登仙飛行とうせんひこうとは、人間の身体に羽が生えて、天上の仙人世界へ登っていくこと。羽をもって空中を飛行することは、古来、中国人のひとつの理想であり、仙人となって、世俗のいっさいの煩わしさを逃れるのも理想の一つでした。

    ずい武帝ぶていは孟法師の道士としての評判を聞いて長安に招き、武帝自ら開いた至徳観しとくかんに住まわせました。

    この至徳観は『長安史』によると、皇宮の承天門の東南、興道坊の西南隅にあ女冠観で、隋の開皇6年(586)の建立となります。

    女冠観とは、仏教の尼僧にそう寺院にあたり、道教の女道士の道観のことです。

    やがて王朝は隋からとうとなりますが、唐室においても優遇を受けたとされています。

    貞観12年(638)7月12日、長命97歳で亡くなりました。

    孟法師碑の特徴

    孟法師碑

    孟法師碑は褚遂良の他の碑、初唐の三大家の虞世南や欧陽詢の碑にくらべても、初心者の楷書手本として特に優れています。

    特徴として特に注目するべきポイントを紹介します。

    横画の特徴

    横画の起筆は角度が急になっているものが多いです。

    慎重に筆を入れ、軽く抑えたら圧を抜かずにそのまま右に運び、最後はしっかりと置き直しましょう。

    縦画の特徴

    縦画の起筆も角度が急になっているものが多いです。

    軽く抑えたらそのまま引き下ろします。終筆は一度圧を加えてから筆を上げます。

    一般できな縦画の書き方の1つであり、鉄柱勢ともいいます。

    2本の縦画が並ぶときは、左を軽く、右をがっちりさせましょう。

    はねの特徴

    はねるときは、垂直に引き下ろしてきた穂先にいったん圧を加え、はねやすい状態に穂先を落ち着かせてあげることが重要です。

    その時の圧、押し出す力の強さによってはねの太さが決まります。

    右はらいの特徴

    孟法師碑の右はらいは、はらいの止める部分が太く、抜き出す部分が短く鋭いのが特徴です。

    孟法師碑が建てられたきっけかけ

    孟法師碑が建てられるのは、孟法師が亡くなってから4年後の貞観16年(642)5月です。

    弟子の陳光ちんこうらが法師の功績をつづるために建てました。

    文は岑文本しんぶんぽんが作り、書は褚遂良が書きました。

    碑が建てられた場所は至徳観しとくかんです。

    孟法師碑の原石の亡失

    碑はもともと至徳観に建てられましたが、『宣和書譜』によると「長安の国子監(大学)にある」と記されていることから、北宋の末にはすでに元の位置からうつされており、その後いつしか亡失してしまいました。

    原碑からの拓本は、1本しか伝わっていません。

    この原石からの拓本は、清の李宗瀚りそうかんが手に入れたものです。

    彼は富豪で書画に関心が強く、金石碑帖を収集していました。その中でも随の啓法寺碑、唐の孔子廟堂碑、善才寺碑と、この孟法師碑は、この世に1本しかない拓本ばかりで、この4つを「臨川四宝」と呼ばれています。

    その後、現在では日本の三井家聴氷閣ていひょうかくに蔵されています。

    孟法師碑の評価

    中国、明清時代に活躍した知識人たちによる孟法師碑の評価をいくつか紹介します。

    王世貞による孟法師碑の評価

    中国明代の政治家・文人である王世貞おうせいていの跋文には、
    「褚遂良は、この碑を書いたころには欧陽詢に刻意し、それに少しく分隷の法を参え、もっとも端雅で、古意の豊かなものである」
    と言っています。

    王澍による孟法師碑の評価

    清代前期の書家である王澍おうじゅの「竹雲題跋」には、
    「このとき、褚遂良は47歳、年力壮盛で、専ら智永を習っていたときで、王世貞のいうが如く、欧陽詢に似たところは一毫もない。また世間で競ってこの碑を推すが、碑が早くになくなったため、希少価値をあてぶに過ぎない。実は孟法師碑は雁塔聖教序には遠く及ばない。
    と言っています。

    楊賓による孟法師碑の評価

    一方、清代前期の書家である楊賓ようひんの「大瓢偶筆」には、
    「孟法師碑は河南(褚遂良)の第一の法書である。正書で中に隷意を帯びている。また、孟法師碑は何章漢進士のいえに一本あって、小欧(欧陽通)に近似している。故に題籖者はただちに欧書としている。褚遂良の書は、実は欧陽詢から出ているを知らないのである。この碑は欧陽詢の虞恭公碑、欧陽通の道因法師と相似て、少しく隷体をまじえている。雁塔聖教序、尊勝陀羅尼経とははなはだ同じでない。書を学ぶものは知らなければならない。」
    と言っています。

    まとめ

    ここまで孟法師碑の「孟法師」とはどういう意味なのか、碑が建てられたきっかけ、昔の知識人たちの評価を紹介してきました。

    王澍が言うように、早くに無くなってしまった希少価値を重んじている一面は確かにあるかもしれませんが、書法はほとんど冒頭で紹介した伊闕仏龕碑と相通じるものがあります。

    また王世貞や楊賓が言うように、隷意を帯びているのは確かに見られます。

    このことから孟法師碑の書法は欧陽詢からきているといったほうが的を得ていると言えるのではないでしょうか。

  • 礼器碑(れいきひ)について解説/内容・作者・有名書家たちによる評価も紹介

    礼器碑(れいきひ)について解説/内容・作者・有名書家たちによる評価も紹介

    後漢ごかん時代(25年~220年)は、中国書道の歴史上で最も建碑けんぴが盛んだった時代です。

    約百数十碑が建立されたといわれており、その中でも曹全碑そうぜんひ礼器碑れいきひとはともに最も正統的な代表碑として高く評価されてきました。

    曹全碑は優美、礼器碑は方正というように、それぞれ違った雰囲気を持っています。

    今回は、方正な礼器碑について詳しく解説していきます。昔の各書家の評価も紹介することでこの碑の権威性といったものも伝えられたらと思います。

    礼器碑(れいきひ)の基本情報

    礼器碑
    礼器碑

    礼器碑れいきひがつくられたのは、いまからおよそ1800年余り前、後漢の第11代皇帝(桓帝かんてい)の永寿えいじゅ2年(156)のことです。
    正確な日にちについては、古くから9月5日・7月5日の2つの説があります。

    山東省さんとんしょう曲阜きょくふ県の孔子廟内に造立され、今日でも現存しています。

    大きさは165×74㎝の四面碑。

    形式は、碑陽(碑の表面)・碑陰(碑の裏側)・碑側(左右の側面)ともに文字が刻されています。

    碑陽は16行、1行が36字で、序文・銘文の終わりには韓勅かんちょくなど9人の題名があります。
    碑陰は3行、1行が17字、碑側右は4行で4字ずつ、左は3行で4字ずつで、建碑に際して寄付した人々の官職、名称、寄付の額が記されてます。

    礼器碑の内容

    碑文の内容は、の国の丞相じょうしょう(国政をつかさどった最上位の行政官)だった韓勅かんちょく(人名)という人の功績が称えられています。

    韓勅かんちょくの功績とはどのようなものだったのかを紹介します。

    韓勅は孔子こうしを尊敬し、孔子の子孫の一族に対しては一般の人々とよりも特別な待遇をするべきであるとして、徭役ようえき(強制労働)や徴兵などを免除して心からの礼を尽くしました。

    また韓勅は、秦の始皇帝の暴挙以来、あれはてていた孔子の廟を修造し、祭典に使うもっとも大切な器具類つまり礼器を整備しました。

    さらに孔子の旧宅の修復や、廟(宗教建築)のまわりの排水事業などをも行いました。銘文には、韓勅によって整備された礼器が廟の中に納まると、天雨降り潤い、百姓は喜び、国を挙げて祝うとも書かれています。

    このような韓勅の、孔子廟修造を中心とするすばらしい行いに感動した周辺国の人々は、その功績をあおしたい、後の世代にその名を伝えようと石に刻したのがこの礼器碑なのです。

    礼器碑のその他の呼び名

    礼器碑の原碑
    礼器碑の原碑

    題額(碑額)に題名が刻されていないため名称は定まっていません。

    そのため、名称は古い著録によっていろいろな呼ばれ方をしています。

    たとえば、天下碑録(隷釈所収)には魯相韓勅復顔氏繇発碑、欧陽修の集古録(巻2)には修孔子廟器碑、趙明誠の金石録(巻15)には韓明府孔子廟碑、洪适の隷釈(巻1)には魯相韓勅孔子廟器碑などと書かれています。

    礼器碑の筆者は誰?

    ところで、このような高い評価をもった礼器碑の筆者は誰だったのでしょうか。

    確かな筆者はわかっていませんが、古来3つの説が伝えられています。

    鍾繇説

    書者については、かなり以前から魏の鍾繇しょうようであるという伝説があります。

    『袞州府志』には「大尉(鍾繇)の手に出づ」とあるそうですが、礼器碑の成立年代は156年、鍾繇の生卒は151年~230年ということからその説は当てはまらないと言えるでしょう。もし本当なら鍾繇が子供の頃に書いたことになってしまいます。

    そのほかの説として、明確な筆者は分かっていませんが、翁方綱おうほうこうによる「七人書写説」と、王澍おうじゅによる「五節八変説」を紹介します。

    七人書写説

    翁方綱おうほうこうによる「七人書写説」とは、碑文に7人の署名があるから7人が分担して書かれているのではないかということです。

    その根拠として、精拓旧本で見える文末の1行に「七人所作半泐」とあります。翁方綱はこれを「書する所」と解釈し、7人が集まって書いたとしたのです。

    五節八変説

    王澍おうじゅによる「五節八変説」とは碑全体は1人が書くのですが、あとから書き足したり、文字に大小・痩肥があるため書風の変化が生じているというものです。

    私個人の見解をさせていただくと、かりに何人かの別の人が書いたとしてもその書風はほぼ一貫性が見てとれるので、あえて7人にする必要があるとは思いません。したがって、この1人で書いたという説の方が有力なのではないかと思います。

    礼器碑に対する各書家による評価

    礼器碑は百数十にものぼる漢碑のうち第一品として古くからもっとも評価されています。

    礼器碑に対して、昔の中国・日本の各書家たちによる評価を紹介します。

    書家の方々の評価態度を見れば、礼器碑が漢代の代表的な古典としてどれほど高く評価されているのか分るでしょう。

    郭宗昌による礼器碑の評価

    明代のかく宗昌そうしょう(?~1652)は礼器碑を神のたすけによるものであるとして、
    「その点画の妙は筆に非ず手に非ず、古雅前なし。これを神功に得て人造に由らざるがごとし。(『金石史』巻上)」
    と評しています。

    孫承沢による礼器碑の評価

    清代に入ると、考証学こうしょうがくが盛んになるとともに礼器碑への関心はさらに高まってきます。

    収蔵家孫承沢(1592~1676)は、
    「書法の美。旧石の完、書家これ〔礼器碑〕と曹全〔碑〕とを得てこれに従事せば他は問うことなかるべし。(『庚子銷夏記』巻5)」
    と絶賛し、漢隷を学ぶには、礼器碑と曹全碑の2つさえあれば他はなくでもよい、とまで述べています。

    郭尚先による礼器碑の評価

    郭尚先かくしょうせん(1785~1832)もまた、
    「漢人の書は、韓勅造礼器碑をもって第一となす。~意境まさに史晨・乙瑛・孔宙・曹全の諸碑の上にあるべし。(『芳堅館題跋』)」
    と、ほかの碑と比べて格別な注目をよせています。

    潘存による礼器碑の評価

    潘存はんそん(?~1892)はまた、
    「礼器碑は方整峻潔、楷書の廟堂・醴泉あるが如し。自ずからこれ分書の正宗なり。(『学書邇言』引)」
    と、礼器碑を分書(八分隷)の中で、もっとも正当本格なものとみています。

    日下部鳴鶴による礼器碑の評価

    日下部鳴鶴くさかべめいかくは明治時代に活躍した日本の政治家・書家です。鳴鶴は隷書の真髄を示し、漢碑について特に詳しい人物として有名です。

    この礼器碑に対しては、『論書三十首』のなかで、
    「孔廟礼器碑、漢代第一に推す。精妙、筆に神あり、平正、奇逸を生ず。」
    と評価しています。

    樋口銅牛による礼器碑の評価

    書論家として著名な樋口銅牛ひぐちどうぎゅうは、
    「折刀斬鉄式ですらあればそれが古意あるものと決定的に断ずるのは、書風の進運発展の経路に闇い者であるかのように吾人の脳底には感ぜられるのである。波撇(波勢のこと)妍妙なる所の礼器・曹全が後漢八分の代表作であらねばならぬ。(『書学史藁』)」
    とまで論断しています。

    中村不折による礼器碑の評価

    この礼器碑の宋拓旧本の収蔵者でもあった中村不折なかむらふせつは、
    「この碑は技巧ということの一番発達した最上のものというてよく…実に堂々とて森厳犯すべからずの趣がある。…後漢の隷書八分の帝王と称するもいずれも褒めすぎるというものはあるまい。(隷書史、『歴史公論』第四巻第三号)」
    と、これまた最も高い評価をしています。

    比田井天来による礼器碑の評価

    比田井天来は、隷書学習の基本的な代表古典3種類をあげ、その中で礼器碑に対し、
    「孔廟礼器碑は品のいい書であるが、少し力が乏しい。上手に臨書しないとものにならない。」
    と論評を加えています。

    臨書に使える礼器碑の画像

  • 【狂草を作った書家】張旭(ちょうきょく)について詳しく解説・代表作品も紹介

    【狂草を作った書家】張旭(ちょうきょく)について詳しく解説・代表作品も紹介

    張旭(ちょうきょく)は中国のとう時代(7世紀ごろ)に生きた書家です。

    草書の名手として知られ、草書の中でも狂草きょうそうというジャンルを生み出した人です。

    狂草を受け継いだ懐素かいそとあわせて「張顚素狂ちょうてんそきょう」とも呼ばれています。てんきょうはそれぞれ、張旭と懐素に対する人物評語です。

    今回は、狂草を生み出した張旭ちょうきょくとはどんな書家だったのかを解説し、代表作品も紹介します。

    張旭の基本情報

    張旭像
    張旭像

    張旭ちょうきょくは、あざなは伯高、(現在の江蘇省こうそしょう蘇州そしゅう)の人です。

    官職は左率府さそつふ(警備にあたる官庁)の長史ちょうし(古代の官職)にまで出世したので、後世、張長史ちょうちょうしとも呼ばれます。

    草書の名手であるという以外、詳しい伝記のわからない人物で、正確な生年と没年も明らかではありません。

    唐の蘇渙そかん懐素上人草書歌かいそしょうにんそうしょかに、「張顚没来二十年」という句があり、かりにこの詩が作られたのを、懐素かいそ自叙帖じじょじょうが書かれた大暦だいれき12年(777)の前後とすると、およそ天宝てんぽう(742年 – 756年)の年末ごろまで生存していたことが推定できます。

    唐時代の文豪である韓愈かんゆは「張旭は他の技能に手を染めず、草書に専念した」といいますが、書に関する逸話は多く残っています。

    とくに有名なのは、“詩聖”杜甫とほの「飲中八仙歌いんちゅうはっせんか」に「張旭3杯、草聖伝う、帽を脱ぎあたまさらす王公の前、ふでり紙にけば雲煙のごとし」とうたわれたことでしょう。

    酒好きで、酔っぱらうと奇声をあげながら草書を揮毫し、ときには頭髪に墨をつけて書きました。

    酒の酔いがさめると、自分の作品を見て、神を得たとし、もう1度同じものを書くことはできないとして感じ入っていました。

    そんな彼を人々は“張顚ちょうてん”と呼びました。

    張旭の書学歴

    張旭ちょうきょくは、おじにあたる陸彦遠りくげんえんに書法を習ったといいます。

    陸彦遠の書法は王羲之おうぎしを基にしているため、もしこれが真実なら、張旭も王羲之書法の脈流を受けているでしょう。

    一方、張旭自身は「公主(内親王)の輿こしかつぐ人夫が道を争うのを見て、また鼓吹を聞いて筆法を会得した。また公孫(伎女の名)の“剣器舞”(舞踏の演技名)を観て書の真髄しんずいさとった」と言っています。

    ただ目の前にある特定の現象にもとづいて書法の発想を求めているのです。

    張旭は、こうした独自の技法と酒に酔って我を忘れている状態で書作したのでしょう。

    しかし、そうした彼の普通から逸脱いつだつした草書が本物であると信じれる作品は1つも伝わっていません。

    張旭の作品を紹介

    ここからは張旭の作品を紹介していきます。

    張旭の作品はほとんどが石に刻された碑帖ですが、最初に紹介する古詩四帖こししじょうは肉筆で書かれています。

    草書古詩四帖(こししじょう)

    張旭の作品「草書古詩四帖」
    張旭「草書古詩四帖」

    草書古詩四帖そうしょこししじょう:1紙、縦29.1㎝で5種類の色ちがいの彩箋を接いだ195.2㎝の巻子装です。遼寧省博物館に現蔵されています。

    いかにも普通から逸脱いつだつした草書ではありますが、結構はゆるみ、点画も浮薄なところが目立ちます。

    またその「自言帖」なども、張旭が創始したと伝える“折釵股せつさこ”めかした筆法を随所にみせていますが、技術は劣っています。

    じょ邦達ほうたつ氏は、黄庭堅こうていけんの証言によって、こうした放縦ないわゆる“狂草”は、晩唐の亜栖あせいの手によるものだろうと言っています『古書僞訛考弁』。

    顔真卿がんしんけいが「張長史は、姿性は顚佚てんいつであるが書法は極めて規矩にかなっている」といい、黄庭堅は「どの字も法度にかなっている」と評価しています。この「規矩」「法度」は、すなわち王義之の書法の規範をさしています。張旭の逸話のどれもが、書くときの状態が変わっているというのであって、作品が変わっているとは言っていないのです

    晚復帖(ばんふくじょう)

    張旭の作品「晚復帖」
    張旭「晚復帖」

    晚復帖ばんふくじょうは、淳化閣帖じゅんかかくじょうの第五巻に収められています。

    しかし、二王におう王羲之おうぎし王献之おうけんし)の草書の典型を学んだ痕跡がうかがえます。

    張旭の本領は、連綿草ではあっても字の形は確かで筆勢が力強い書風であったと思われます。

    郎官石記(ろうかんせっき)

    張旭の作品「郎官石記」
    張旭「郎官石記」

    開元29年(741)

    張旭の作品と言えばほとんどが年紀不詳の草書ですが、楷書の作品もあり、その年紀は明らかとなっています。

    原石は北宋の末に失ってしましました。

    郎官(郎中と員外郎)に任ぜられた人名とその年月を刻し都庁に建てた、これはその序文で「郎官石柱記」「郎官庁壁記」ともよばれます。

    蘇軾そしょくは「簡遠な書風で、あたかも晋宋の書人の作のようだ」と評価していますが、この書には南朝風の楷書の趣が色こくただよっています。

    厳仁墓誌(げんじんぼし)

    張旭の作品「厳仁墓誌」
    張旭「厳仁墓誌」
    張旭の作品「厳仁墓誌」
    張旭「厳仁墓誌」部分

    天宝元年(742)

    1991年、河南省偃師えんし県で出士しました。

    末行に「呉郡張旭書」と銘記されています。

    書体は郎官石記と同じ楷書ですが、書風は異なり、右肩下がりの字がまじり、波法の扱いに一貫性がなく、左払いや懸針の呼吸が短いです。

    また後半3分の1ほどは、結構のゆるい字が目立ち統一感に欠けます。

    しかし郎官石記にみかける別字が、この墓誌にも同一体につくること、また両方に共通の用字が30個ほどありますが、共通の筆ぐせであることなどによって、張旭本人の書とされています。

    文字を刻した人の腕のせいもあって郎官石記より一格劣りますが、重要な発見です。

  • 懐素(かいそ)が書いた狂草の書風の特徴、代表作品を紹介

    懐素(かいそ)が書いた狂草の書風の特徴、代表作品を紹介

    懐素(かいそ)は、中国とう時代に狂草きょうそう(草書の種類)を書いた書道家として有名です。磊落らいらくな性格で、酒を飲んでは心のおもむくまま、ところかまわず草書を書き散らしたといいます。

    今回は、懐素かいそとはどんな書家なのかを解説した後に、彼の書風の特徴である狂草について、代表作品も紹介していきます。

    懐素について解説

    懐素像
    懐素像

    懐素かいそは、中国とうの8世紀後半に活躍した僧侶、書道家です。

    俗人としての苗字はせんといい、僧侶として出家しゅっけした後の僧名を懐素かいそと名乗りました。あざな蔵真ぞうしん湖南こなん零陵れいりょう県の人。

    出家(しゅっけ)とは

    出家しゅっけとは、これまでの生活や家族、友人など修行の妨げとなる世俗の生活を捨て、仏教の修行をすることです。

    生没はあきらかではなく、開元かいげん13年(725)ころ~貞元元年(785)ころとされています。

    貧しい家に生まれた懐素は幼いころに出家し、禅の修行に努めながら、書道によって心をきよさとりを求めました。

    郷里ではすでに書道家として有名でしたが、古人の名品を見る機会がないのを残念に思っていました。そこで一念発起し、大暦だいれき12年(777)都の長安ちょうあんに出ます。長安では名士たちと出会い、歴代の名品にもめぐりあうことができました。唐の四大家の1人、顔真卿がんしんけいにも会っています。

    書道家としての懐素

    懐素は、張旭ちょうきょくの弟子であり自分のいとこにあたる鄔彤おとうから、王羲之おうぎしの書法や、草書の極意を学びました。

    のちに顔真卿がんしんけいと知り合い、顔真卿から、家の天井や壁をつたって流れ落ちた雨漏りのあとを見て草書の筆法を悟ったという屋漏痕おくろうこんの話をききました。
    懐素自身もまた、風にしたがって限りなく変化する夏雲を見て、そこから草書の真髄を得たといいます。

    自由奔放な懐素の草書は「狂草きょうそう」と呼ばれて一世を風靡し、李白りはくらにも絶賛されました。

    懐素の特徴「狂草」

    懐素かいその草書の特徴は「狂草きょうそう」です。

    狂草きょうそうは、懐素より少し前の張旭ちょうきょくという書道家が、酒に酔った勢いで自由奔放ほんぽうな草書を書いたのが始まりです。張旭ちょうきょくは、ときに頭髪に墨をつけて書くということまでやってのけたらしいです。いわゆる宴会の余興のようなものでしょうか、パフォーマンスとしての書道です。

    懐素かいそも酒を飲んで酔うと、大声で叫びながらあたりを走り回り、やおら筆を執り草書を書きました。寺院の壁や堀、食器、着物など手あたり次第にどこにでも書いたので、伝存する作品が少ないです。

    懐素と同様に酒好きで奇行のおおい張旭ちょうきょくとともに、「張顛素狂ちょうてんそきょう」と呼ばれていました。

    懐素の書道にまつわる逸話

    懐素の書道にまつわる逸話を紹介します。

    • 書が好きでしたが、家が貧しく紙が買えなかったため、一万株もの芭蕉ばしょうを植えてその葉に手習いしました。その芭蕉の葉にちなみ、自分の書斎を緑天庵りょくてんあんと名付けました。
    • 葉を使い尽くすと、今度はうるしを塗った板に書いては拭き消し、書いては消し、を繰り返したため、こすれて板がすり減り穴があくまで書き続けたといいます。
    • 使い古した筆が山のようにたまると、筆を埋め、筆つかを作って供養しました。

    またお酒が好きで、酔うと好んで草書を書きました。
    かなりの大酒ぶりで、酔っぱらうと、寺の壁、里のしきり、衣装、お皿など、手あたり次第に書いたといいます。そのため、人々は「酔僧すいそう」と呼びました。

    歴代書道家による懐素の評価

    懐素は狂草という草書を書きましたが、彼の狂草に対する評価は人によってさまざまなようです。

    元の沈右(しんゆう)による懐素の評価

    元の沈右しんゆうは、懐素が書の奥義をよく継承していることをとても高く評価しています。

    懐素の書はみごとである。意のまま気の向くままに書かれ、変化の限りを尽くしているが、常に魏晋ぎしんの法度から離れていない」

    懐素が書壇においてかくも崇高な地位を得ることができたのは、

    「意のまま、気の向くまま」でありながら「魏晋ぎしんの法度を離れていない」という、相反する要素をうまく交わらせることができたからです。

    狂草に対する米芾(べいふつの評価

    懐素が出てきてから、草書で有名になる書家が相次いであらわれました。

    高閑こうかん䛒光きょうこうがその代表例であり、彼らによって狂草は後の世代へとつづいていきました。

    しかしこの狂草について、後の時代(そう)の人物である米芾べいふつが否定的な意見を論じています。

    張旭ちょうきょく俗物ぞくぶつ(無風流で金銭や世間の名声を第一としている)で古風を変乱したが、懐素になると少し平淡さを加えて、ようやく完成にいたったが時代のせいか高古さがなく、高閑こうかん以下はみんな居酒屋に掛けられるくらいのものであり、䛒光きょうこうはとりわけ憎悪すべきである」

    と評価しています。

    米芾しん時代の人(王羲之おうぎしなど)を参考にしなければ気格はいたずらに下品となるばかりであるといって、すべて晋人の風土に重点を置いてみている人物です。

    懐素の代表作品

    懐素の代表作品を紹介します。懐素の草書作品には2種類の傾向のものがあり、1つは狂草で、もう1つは伝統的な正しい草書です。

    • 自叙帖(じじょじょう)
    • 小草千字文(しょうそうせんじもん)

    以下詳しく紹介していきます。

    自叙帖(じじょじょう)

    懐素の自叙帖
    懐素の自叙帖 クリック/タップで拡大

    777年(大暦12年)
    台北・故宮博物院の所蔵で28.3×755㎝の紙本巻子装です。

    狂草の傑作である「自叙帖」は、狂草のなかでもとくに代表作品です。連続した線が多く、筆の動きは上下左右によく回転し、軽くて速いリズムが感じられます。

    内容は、自分の経歴を簡単に書いたあとに、親交のあった当時の名士たちが懐素のすぐれた書法をほめたたえる詩文を引用したもので、自己宣伝しています。

    小草千字文(しょうそうせんじもん)

    無紀年、799(貞元15年)頃
    みん時代の姚公綬ようこうじゅ(収蔵家)がこの作品を「1字が1金に値する」と評価したことで「千金帖」と呼ばれるようになりました。
    台北・故宮博物院の所蔵で、18.8×279㎝の絹本巻子装です。

    最晩年のこの作品は、老成した枯淡な境地を示す作品として知られています。
    1文字ずつ単体の草書で書かれた独草の形式をとり、平淡で古雅な趣があります。落ち着いた用筆法で、「自叙帖じじょじょう」とは正反対の傾向の作品です。

    千字文は識字を書道の教育教材として普及したいわばテキストであり、歴代の名家によって書かれた作例も多いです。

  • 曹全碑 全文 日本語訳

    曹全碑 全文 日本語訳

    曹全碑の内容は、曹全という人物の官僚・武将としての功績を記したものです。

    本記事では曹全碑の日本語訳を紹介します。

    曹全碑 全文 日本語訳

    君は、いみなぜんあざな景完けいかん敦煌效国とんこうこうこくの出身の人です。その先祖は、おそらく周室の末裔まつえいでしょう。武王は、天子になる機会をとらえて、殷商いんしょうを討伐しました。天下統一の勲功を成し遂げるにあたって、天からの幸運が集まったのです。弟の叔振鐸しゅくしんたんに曹国の領土を与えて諸侯にすることで、一族はその国名を氏としました。秦漢の頃には、曹参は漢の王室をそばから助けました。世宗武帝が領地を拡げた後、子孫は雍州ようしゅうの郊外に移り住み、また分かれて右扶風ゆうふゆうにとどまり、あるいは安定にあり、あるいは武都におり、あるいは隴西ろうせいに住居を定め、あるいは敦煌に家を持ちました。まるで木が枝分かれして葉を広げていくように、いろんな場所でその地の実力者となったのです。

    君の高祖父曹敏そうびんは、考廉こうれんに推薦され、武威長史ぶいちょうし巴郡朐忍令はぐんくにんれい張掖居延都尉ちょうえききょえんといになりました。曾祖父曹述そうじゅつも、考廉謁者えっしゃ、金城長史、夏陽令、蜀郡西武都尉しょくぐんせいぶといとなり、祖父曹鳳そうほうは、考廉、張掖属国都尉丞、右扶風隃麋候相ゆうふふうゆびこうしょう、金城西部都尉、北地太守となりました。また、父曹琫そうほうは、若くして州郡に名声が高かったのですが不幸にして早世しました。このように位は(早世したために)その徳にそわないのでした。

    君は、幼少より学問を好み、奥深い(意味深い)書物を探求して、通じない文はありませんでした。賢孝の性質の根(生まれながらの)は心から生じます。祖父のめかけに引き取られ、継母に仕えましたが、何も言われないうちに相手の気持ちを察し、望みをかなえて満足させ、また存命中の者、すでに世を去った者をうやまって、その礼にはまったく欠けたところがありませんでした。それゆえ村人は「親を重んじ勧を致す曹景完。易世徳をして其の名をとさず」ということわざを作ってたたえたのです。政治にあずかるようになってからは、清廉さでは伯夷はくい叔斉しゅくせいを手本とし、まっすぐな行いでは史魚をしたいました。郡の重要な職である上計掾史じょうけいえんしをへて、そののち涼州刺史りょうしゅうししに招かれて、そこで治中別駕となったこともありました。そして、万里を治め、正邪(善悪)を誤ることはなかったのです。州内の諸郡を治めるに及んでは、曲がったこと、邪なことを糾弾したので、貪婪どんらんな者はみな心を改め、同僚はその徳に信服し、遠きも近きもみなその威をはばかり恐れました。

    建寧2年(169)には考廉に推薦され、郎中に任命されました。西域戊郡司馬の職を命ぜられ、その時に疏勒そろく国王和徳が父をしいして位を奪い、貢物を献上しなくなったので、君は軍隊を起こして征伐に出かけました。部下に対しては膿を吸ってやる仁徳を持ち、酒を分け与える恵み深い心を備え、城を攻め野に戦うに際しては湧き出る泉のごとく謀事はかりごとを思いついて、その威武はいにしえの専諸せんしょ孟賁もうほんに匹敵するほどでした。和徳は自ら手を後ろ手に縛って死罪についたので、軍隊をととのえて凱施しました。これを祝しての諸国からの贈り物は、に200万にも達し、それらはすべて官府の帳簿に記されました。この後、右扶風槐里令の位に移りましたが、実弟の死にあたって、喪に服するために官を去りました。続いて党錮とうこの禁(宦官との政争)に触れ、7年間郷里の家に隠れ暮らしました。

    光和6年(183)、ふたたび考廉の位に就き、同7年3月には郎中に任命され、酒泉禄福の長を拝しました。妖賊の張角が幽州・冀州に兵を起こし、兗・豫・荆・楊の各州でも時を同じくして動乱がはじまりました。県民や町家も反乱をなし、城市や役所を焼きうちにするなど民衆は騒ぎ立て、不安に恐れおののきました。三郡は危急を告げ、羽檄うげきが頻りに発せられたので、その時、聖主が多くの臣下に相談したところ、みな口々に「君(曹全)こそが(反乱を鎮圧する武将に)ふさわしい」と述べたため、郃陽令こうようれいとなり、生き残りの軍隊をたてなおして、残党を切り平らげ反乱の根を断ちました。そして、古老の商量や、有徳の人物であった王敞おうしょう王畢おうひつらに、民を恵みあわれむ上での要点をたずね、老人をいたわりなぐさめ、老齢の寡夫や寡婦をいつくしみ養いました。自分の金で穀物を買い入れて、重病で目の見えない老女の桃妃とうひらに恵み与え、また匕首薬ひしゅやく神明膏しんめいこうを調合して、自ら遠く離れた亭まで持っていき、部下の王皐おうこう程横ていおうらがそれを病人に与えたところすっかり治ったのです。こうした恵み深い政策が行きわたっていくさまは駅伝よりも速く伝わり、人々は子供を背負ってまで、あたかも雲がわき出るように次々と(故郷に)帰ってきました。壊れたかねきや家屋を修理し、商店が立ち並ぶようになり、季節に従って風雨はやってきて、毎年豊作が続き、農夫織婦、工人らはみな曹全の恩を深く感じたということです。

    県はさきの和平元年(150)に白茅谷はくぼうこくの水害に遭い、戊戌(延熹元年・158)・己亥の間にようやく水は退きました。これを期に城郭を新たに作ったのですが、この後は旧い家柄の者、学問を修めた者の官位は上がらなくなってしまいました。君はこうした優秀な人材が不遇なままに置かれているのをあわれんで、南の方角に役所の門をひらいて華嶽かがく(華山)を望み、南に向かって人民を治めるようにしたので、学者の李儒りじゅ欒規らんき程寅ていいんらにそれぞれ官爵を得させることができました。政治を司る官舎や、役所の建物を広げ、また都へ赴いて皇帝に謁見するに際して、その費用は民から出させることなく、労役は必ず農繁期を避けるようにもしました。門下掾王敞、録事掾王畢おうひつ、主薄王歴おうれき、戸曹掾秦尚しんしょう、功曹史王顓おうせんらが、古い昔、魯頌、商頌といったほめ歌を作った奚斯けいし考甫こうほの先例をよしとしてこれにならい、石に刻してその功績を記すこととしたのです。その辞はこう言っています…

    聖明なる天子はうるわしく、道徳にかなっていることは明らかです。君は朝廷に官として推薦されて、西戎せいじゅうを征伐したので、その威はあまねくゆきわたり、遠国を安定させ、軍隊をひきいて凱施しました。槐里令かいりれいとなって政をとったが、弟を偲ぶ気持ちのあまり、弔に服して官を去りました。ああ、かの逆賊が城市を焼き払ったときに、君は特に命を受け、残党をたいらげ、服従せぬ者を滅して、人々を安んじたのです。役所を修理し、南門を開き、高い山を切り開いて、華山を望むようにしました。明に向かって治め、その恵みはひろくゆきわたり、官吏はまつりごとを楽しみ、民衆の生計は十分に足ることとなったのです。君は高い位にのぼり、三公(最高の位)までも極めてください。

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  • 米芾の蜀素帖(しょくそじょう)を詳しく解説/臨書の書き方・特徴、内容、全文の画像・釈文・現代語訳を紹介

    米芾の蜀素帖(しょくそじょう)を詳しく解説/臨書の書き方・特徴、内容、全文の画像・釈文・現代語訳を紹介

    蜀素帖(しょくそじょう)は、中国の北宋ほくそう時代の書家・米芾べいふつ(1051~1107)のもっとも有名な作品です。

    今回は、蜀素帖しょくそじょうについて特徴や文章の内容、全文の釈門・現代語訳を紹介します。

    蜀素帖について解説

    米芾の蜀素帖
    米芾の蜀素帖 タップ/クリックで拡大

    蜀素帖しょくそじょうは、紙ではなく、しょく(地名)でられたきぬ(布)に鳥糸欄うしらん(黒い縦線の枠)をほどこしたものに書かれています。

    内容は、が書かれています。五言古詩の擬古2首、七言絶句の吳江垂虹亭作2首、七言律詩の入境寄集賢林舍人1首、重九會郡樓1首、五言古詩の和林公硯山之作1首、七言古詩の送王渙之彥舟1首、合計8首の詩です。

    末尾に「元祐戊辰 九月廿三日 溪堂米黻記」とあり、元祐げんゆう3年(1088)に、当時、湖州こしゅう浙江省せっこうしょう)の知事を務めていた林希りんきの招きを受けて、彼の任地を訪れた時に書かれたもので、米芾38歳の時の書です。

    36.7×260cmの巻子装で、真跡は現在、台北・国立故宮博物院にあります。

    作者の米芾(べいふつ)について

    米芾像
    米芾像

    蜀素帖しょくそじょうの作者米芾べいふつは、そう四大家したいかの1人、生涯を通して書画研究に打ち込み、王羲之おうぎしら先人の書を理想としつつ、行草書の新しい書風を確立しました。

    米芾については別記事で詳しく紹介しています。↓

    蜀素帖を臨書するときに気をつけたい3つの特徴・書き方

    蜀素帖の臨書の書き方・特徴を紹介します。

    蜀素帖は表現が多彩たさいで、臨書で再現するのがむずかしいですよね。以下の3点を意識すれば多彩な表現を再現できるようになるでしょう。

    • 太細・疎密の変化
    • 前傾姿勢
    • 露鋒と蔵鋒の使い分け

    それぞれ詳しく解説していきます。

    太細・疎密の変化

    蜀素帖は1字のなかの線の太細たさい疎密そみつの変化が大きいです。
    その太い線と細い線によって、文字がつぶれる部分(密)と余白が多い部分(疎)があります。

    太細の差を遠慮してしまうと変化がとぼしくなってしまいます。太い線はおもいっきり太くし、細い線はおもいっきり細く書くようにしましょう。

    前傾姿勢

    蜀素帖のほぼすべての文字が前傾姿勢ぜんけいしせい(左斜め)に傾いています。

    これは書き進めていくにつれて、右腕が右下へと移動していく自然な動きによるものです。

    露鋒と蔵鋒の使い分け

    蜀素帖を臨書するときに気をつけたい3つの特徴・書き方
露鋒と蔵鋒

    蜀素帖の穂先の動きを追ってみると、露鋒ろほう蔵鋒ぞうほうたくみに使い分けられています。

    露鋒ろほう…筆の穂先を点画の先端に明確に表す起筆。

    蔵鋒ぞうほう…筆の穂先を点画の内側に包み込むように打ち込む起筆。

    蜀素帖の上達には道具も大切

    ここまで蜀素帖しょくそじょうの書風・特徴を紹介してきましたが、上達するためには道具も大切です。

    作品を書く際、
    「お手本のようになかなか上手に書けない…」
    「筆が思うように動いてくれない…」

    という方は、普段使っている筆と違う筆を試してみるとうまく書けるかもしれません。

    ちなみに、おすすめの書道筆は書道筆「紫乃」の魅力:初心者からプロまで愛される万能筆の秘密を参考にどうぞ。

    蜀素帖の全文を画像で紹介

    米芾 蜀素帖#1
    米芾 蜀素帖#1 タップ/クリックで拡大
    米芾 蜀素帖#2
    米芾 蜀素帖#2
    米芾 蜀素帖#3
    米芾 蜀素帖#3
    米芾 蜀素帖#4
    米芾 蜀素帖#4
    米芾 蜀素帖#5
    米芾 蜀素帖#5※本文はここまで
    これは米芾が書いた本文のすぐ後にある董其昌の題識
    ※これは米芾が書いた本文のすぐ後にある董其昌の題識

    みん時代の書家・董其昌とうきしょうは、「自分はさきに蜀素帖の臨模本を手に入れており、それを戯鴻堂帖げこうどうじょうに刻入したが、甲辰こうしん万暦べんれき32年、1604)5月、呉廷から真跡をゆずられた」と誇らしげに書いています。董其昌とうきしょうは、米芾の書に傾倒していた書家として有名です。

    これは左側(巻末)が林希、右側が胡完夫の題識
    ※これは左側(巻末)が林希、右側が胡完夫の題識

    熙寧きねい8年(1075)に、晋陵しんりょう胡完夫こかんふが書いた題識の内容は、「完夫は東海の徐道淵じょどうえん、成都の閭丘公顕りょきゅうこうけんとともに、子中の招きにおもむき、これを観ること数遍」といっています。

    蜀素帖(しょくそじょう)が書かれた経緯

    この蜀素帖ができた経緯について、熙寧きねい元年(1068)林希りんきが巻の一番最後の部分6行に次のように記しています。

    慶暦けいれき4年(1044)に蜀の東川で造られたしろぎぬ1巻を我が家に蔵して20年余りになるが、今度装丁をして、善書の人々に字を書いてもらおうと思う。」

    つまり、せっかく質のいいきぬを手に入れたのになにも使い道がないので、字の上手な人に何か書いてもらおうというのです。

    これは巻末、一番左側に書かれていますが、米芾が書いたのは、それからさらに20年後のことです。つまり右側には字を書いてもらう前提で、邪魔にならないよう一番左端にこれを書いたのでしょう。

    蜀素帖の釈門

    蜀素帖の原文

    擬古。
    青松勁挺姿。凌霄恥屈盤。種種出枝葉。牽連上松端。秋花起絳烟。旖旎雲錦殷。不羞不自立。舒光射丸丸。柏見吐子效。鶴疑縮頸還。青松本無華。安得保歲寒。
    龜鶴年壽齊。羽介所託殊。種種是靈物。相得忘形軀。鶴有沖霄心。龜厭曳尾居。以竹兩附口。相將上雲衢。報汝慎勿語。一語墮泥塗。

    吳江垂虹亭作。
    斷雲一片洞庭帆。玉破鱸魚霜(旁改作金)破柑。好作新詩繼桑苧。垂虹秋色滿東南。泛泛五湖霜氣清。漫漫不辨水天形。何須織女支機石。且戲嫦娥稱客星。時為湖州之行。

    入境寄集賢林舍人。
    揚帆載月遠相過。佳氣蔥蔥聽誦歌。路不拾遺知政肅。野多滯穗是時和。天分秋暑資吟興。晴獻溪山入醉哦。便捉蟾蜍共研墨。綵牋書盡剪江波。

    重九會郡樓。
    山清氣爽九秋天。黃菊紅茱滿泛船。千里結言寧有後。群賢畢至猥居前。杜郎閑客今焉是。謝守風流古所傳。獨把秋英緣底事。老來情味向詩偏。

    和林公硯山之作。
    皎皎中天月。團團徑千里。震澤乃一水。所占已過二。娑羅即峴山。謬云形大地。地惟東吳偏。山水古佳麗。中有皎皎人。瓊衣玉為餌。位維列仙長。學與千年對。幽操久獨處。迢迢願招類。金颸帶秋威。欻逐雲檣至。朝隮輿馭飈。暮返光浮袂。雲盲有風駈。蟾餮有刀利。亭亭太陰宮。無乃瞻星氣。興深夷險一。理洞軒裳偽。紛紛夸俗勞。坦坦忘懷易。浩浩將我行。蠢蠢須公起。

    送王渙之彥舟。
    集英春殿鳴梢歇。神武天臨光下澈。鴻臚初唱第一聲。白面王郎年十八。神武樂育天下造。不使敲枰使傳道。衣錦東南第一州。棘壁湖山兩清(清點去)照。襄陽野老漁竿客。不愛紛華愛泉石。相逢不約約無逆。輿握古書同岸幘。淫朋嬖黨初相慕。濯髮洒心求易慮。翩翩遼鶴雲中侶。土苴尫鴟那一顧。邇(業點去)來器業何深至。湛湛具區無底沚。可憐一點終不易。枉駕殷勤尋漫仕。漫仕平生四方走。多與英才並肩肘。少有俳辭能罵鬼。老學鴟夷漫存口。一官聊具三徑資。取捨殊塗莫迴首。

    元祐戊辰。九月廿三日。
    溪堂米黻記。

    蜀素帖の現代語訳

    擬古
    青い松が強くのびきった姿、空をしのいでいる。わだかまるのを恥じるように、さまざまに枝や葉を出し、引かれ連なって枝の尖端まで上る。秋の花は赤い煙より姿を見せ、ひらひらと雲錦うんきん(紅葉の柄)のあでやかさ。ひとり立ちできないのを恥じたりしないで、光がのびてまっすぐに目を射るよう。柏は吐子の効を見せ、疑いぶかい鶴はくびをすくめて帰ってくる。青い松にはもともと華は咲かない、咲けばどうして冬の寒さに耐えることができよう。
    亀と鶴とは寿命は同じだが、羽と介では身を寄せる所が違っている。それぞれめでたい動物だが、自分の体を忘れることができようか。鶴には空に飛び上がろうとする気持ちがあり、亀は尻尾をひきずる泥の中のすみかを嫌う。竹を2羽の口にくわえ、亀を運んで雲の通い路にのぼった。お前に告げる、慎んでしゃべることのないように、ちょっとしゃべれば泥の中に落ちるぞと。

    吳江垂虹亭の作
    一片のちぎれ雲は洞庭湖どうていこに浮かぶ白い鱸魚すずきの刺身はぎょくを割いたよう、みかんきんを割いたよう。新しい詩を作ってくわの葉をつみ機織はたおりの仕事をつづけるがよい、秋の色はこの江南こうなん垂虹亭すいこうていにいっぱい。
    満ちあふれる五湖の霜の気配はすがすがしく、はてしなく広がって水と空は区別がつかぬ。どうして必要としようか。機織はたおりの女がはたが揺れ動かないように支えたと伝えられる石を、しばらくは月とたわむれて客星かくせい(普段は見れないが、一時的に現れる星)といっておこう。時に湖州への旅をした。

    鏡に入り集賢しゅうけん林舎人りんしゃじん(うえで説明した林希りんきのこと)に寄す
    帆をあげ月をのせ遠くからやってくると、さわやかな大気があふれて歌声が聞こえてくる。道路の落とし物をを拾う者もなく、よく治まっていることが分かり、野に落ちた穂が多いのは、季節が穏やかなため。天は残暑を取り除いて詩を作るやる気を出させてくれ、晴れると酔歌をさしあげようと谷間の山へ入ってゆく。そこで蟾蜍ひきがえるの形の水滴を手にしてともに墨をすり、色模様の紙を書きつくしてから江の波を切り裂いてゆこう。

    重九ちょうきゅう(9月9日のこと)に群楼ぐんろうに会す
    山はすがすがしく秋の空は気分もさわやか、黄色の菊と紅い茱萸しゅゆ(果実)は浮かべた船にいっぱい。千里を隔てた約束にどうして遅れることがあるだろう。立派な人たちがみな集まるのにむやみに前に出しゃばる。杜郎ののどかな客は今はだれがそうなのか。太守謝安の風流は昔から伝わっているが、ひとりで秋の花を手にとるのは何のためだろう。老いこんでくると気持ちが詩にかたよってゆくからだ。

    林公(林希りんき)が峴山の作に和す
    明るく輝く中天の月は、まるまると直径千里。震沢しんたく(大小の湖)はただ1つの湖、占めているのは2つ以上。沙羅さら(木の種類)はつまり硯山けんざん(地名)で、誤って大地に形どったといわれている。この地は東呉とうご(国名)にかたよっているが、山水は昔から美しい。中にすっきりとした人がいて、たま(赤く美しい玉)の服を着て玉は餌となる。位は仙人たちのかしら、学問は無限の時間と対している。目立たぬ生き方で久しくひとりで暮らしていたが、はるばると同類を招こうと望んだ。秋風は厳しさを帯びて、たちまち雲の峰を追い払ってやってきた。朝には輿こし(乗り物)にのって風をあやつり、暮れに帰れば夕日の光は山のふもとに浮かぶ。雲は盲風めくらかぜのかけるにまかせ、蟾蜍ひきがえるを食べるのによく切れるナイフがある。高くそびえる太陰宮たいいんきゅうは、星の様子を見るのではなかろう。きょうが深ければけわしくても平らでも同じこと、理に達すれば高貴は偽り。ごてごてと俗人に自慢するのは疲れるだけ、ひろびろと煩わしい思いを忘れるのはたやすい。はるばると私は行こうとして、あなたがごそごそ起きあがるのを待っている。

    王渙之彦舟おうかんしげんしゅうを送る
    春の集英殿しゅうえいでんに木の枝の音がやみ、神武しんぷの天子(民を治める神権的な君主)がおでましになると光はあまねくゆきわたる。伝臚でんろ(式の発言者)が初めて第一声をあげると、顔の幼い王郎おうろうはわずか18歳。神武が育てるのを楽しむと天下の人材は集まり、勝敗は争わずに聖賢の道を伝えさせる。東南の故郷へ第一位というにしきを飾れば、棘璧きょくへき湖山こざんもともに晴れやか。襄陽じょうよう(地名)の田舎の老人は魚釣りの人、はでやかさは好まず庭にある池と庭石を愛している。たがいに出会ってちぎりは交わさないが、交わせば意気投合し、ともに古書を手にして頭巾ずきんを脱ぎすてる。悪友・邪党は最初から君をしたい、髪を洗い心をすすいで考え直せと要求する。ひらひらと飛ぶ遼東りょうとう(地名)のつるは大空の友、土苴あくたやひよわなとびなどにどうして振り向きもしようか。以来、君の才能と業績はなんと深くまで達していることか、水をたたえた具区ぐくが静まることのないのに似て。あわれ、わずかのことさえついに変えなかった君が、わざわざ立ち寄ってこの私を訪ねてくださった。私は平生あちらこちらに走り回り、英才たちと多く肩肘かたひじを並べている。少しばかりふざけては人を罵倒ばとうするが、老いて鴟夷皮子しいひし(范蠡はんれい)を学ぶ君が、口だけは達者なもの。取るに足らない官職でも三径さんけいの庭くらいは変えるだろう。どの道を選択しようとも、振り返ることなどないのだ。
    元佑戊辰(3年・1088)9月23日、溪堂けいどう米黻べいふつ記す。

  • 蘇軾・黄庭堅・米芾が代表される宋時代以後、行草書の法帖が増えた理由

    蘇軾・黄庭堅・米芾が代表される宋時代以後、行草書の法帖が増えた理由

    欧陽詢おうようじゅんなど初唐の三大家などに代表される唐時代は、楷書の法帖が多いのに対して、蘇軾そしょく黄庭堅こうていけん米芾べいふつが代表される宋時代以降、行草書の法帖が多くなります。

    これには唐から宋にかけての文化の変革によるものがあると考えられます。

    今回は宋時代以後、行草書が増えた理由について考えていきます。

    宋の時代の書は意を取る

    みん時代の董其昌とうきしょう(1555~1636)は、「しんの人の書はいんを取り、唐の人の書は技を取り、宋の人の書は意を取る」(『容台別集』巻4、『書品』)と言います。

    これを受けてしん時代の馮班ふうはん(1620~71)は、「晋の人は理にしたがいて法生じ、唐の人は法を用いて意出で、宋の人は意を用いて古法具さに在り。これを知りて方めて帖を看るべし」(『鈍吟書要』)と言い、「晋の人は理を用い、唐の人は法を用い、宋の人は意を用いる」とも言っています。

    さらに、清の梁巘りょうけんは「晋は韻を尚び、唐は技を尚び、宋は意を尚ぶ。元・明は態を尚ぶ」(『評書帖』)と言います。

    董其昌とうきしょうが王義之・王けん之(息子)の二王に代表される晋時代、欧陽詢おうようじゅんなど初唐の三大家などに代表される唐時代、蘇軾そしょく黄庭堅こうていけん米芾べいふつの三大家に代表される宋時代の書風の特徴を韻・法・意の3つを説明すると、馮班ふうはん梁巘りょうけん はこの1文をふまえて少しアレンジした文章を書いたのでした。

    韻・技・意、理・法・意の意味を説明するとなると難しいのですが、一応、韻は風韻、理は自然の原理、法は技法、意は意趣いしゅというような熟語に置き換えられると思います。

    董其昌の考え方は基本的には今日でも受け継がれていて、唐時代と宋時代の書風に大きな違いがあることを認めています。

    唐から宋への変化は唐宋変革期といわれていて、この時代は中国だけでなく東アジアが大きく変化した時代と一般に認識されています。

    書風の変化もこのような変革と関係していることになり、宋の三大家はこの変革の時代に生き、多くの作品を残したのでした。

    唐から宋への変革

    顔真卿がんしんけいが活躍した安史あんしの乱以後、中国は社会・経済・政治・文化などのあらゆる面で変化します。

    唐の貴族政治から宋の中央集権的な官僚体制へ、貴族文化から士大夫したいふ文化へ、そして庶民の文化も盛んになってきます。

    書は士大夫の文化であり、彼らの書斎しょさいから生み出されました。

    文学では唐の韓愈かんゆのころから古文を復興させようという文学運動の動きがはじまり、この動きは文章や詩に新しい表現をもたらし、そして新しい思想を生み出しました。

    書風変化の背景

    このように唐から宋にかけての時代は変革の時代であり、書風も大きく変化したのですが、この変化にはいくつかの理由が挙げられます。

    まず、『宮崎市定全集 巻24』によると、唐時代までの書法は単帖の作品が代表され、宋時代以後は集帖の作品が代表されます。

    集帖派は多くの作品を見て鑑賞眼を養い、自分の趣味に合った書法を選択しました。

    宋の初めに『淳化閣帖じゅんかかくじょう』が作られ、以後、つぎつぎと集帖が作られましたが、書風の変化の背景にこのような法帖の変化が挙げられるのです。

    もう1つの理由に毛筆の発達が挙げられます。

    北宋の中期ごろから従来の巻き筆に代わって、筆の穂が柔らかい水筆すいひつが一般化したため、筆の機能を生かした柔らかい字が書けるようになりました。

    水筆が開発されたことによって宋人の意は表現しやすくなったのです。

    唐時代では優れた楷書作品が多いですが、宋時代になると少なくなり、行草書が中心となります。

    この背景には水筆の出現があるのです。

  • 蘇軾の黄州寒食詩巻の内容・特徴を解説:釈文も記載

    蘇軾の黄州寒食詩巻の内容・特徴を解説:釈文も記載

    蘇軾の作品「黄州寒食巻」
    蘇軾「黄州寒食巻」

    この記事では、蘇軾そしょくの代表作である黄州寒食詩巻こうしゅうかんしょくしかんの内容・特徴を解説していきます。

    また、釈文も記載しました。

    黄州寒食詩巻の基本情報

    蘇軾の作品「黄州寒食詩巻」
    蘇軾の黄州寒食詩巻#1(クリックで高画質表示)

    作者:蘇軾 

    時代:元豊5年(1082)

    紙本 33.5×118.0cm 

    台北・故宮博物館蔵

    州寒食詩巻の内容

    蘇軾の作品「黄州寒食詩巻」
    蘇軾の黄州寒食詩巻#2(クリックで高画質表示)

    元豊げんほう5年(1082)の春、蘇軾は左遷されている黄州(湖北)において寒食の季節を迎え、冷たく寂しい雨がおもいをよせて作った五言詩二首の草稿です。

    蘇軾の作品の中でも最もすぐれた作品と言われています。

    この詩巻は蘇軾にとってもっとも身近な黄庭堅こうていけん跋文ばつぶん(書物の終りにその来歴や編著の感想・次第などを書き記す短文。あとがき。)を加えて、「蘇軾がもう1度書いたとしても、これ以上のものはできないだろう」と、蘇軾の会心の作品であることを認めています。

    落款らっかんが書かれていませんが、これは元豊2年(1079)に新法党を悪く言った詩を書いたことが罪に問われ、左遷されてからのものなので、名前を書くことを避けたということです。

    また、詩の最後に余白がかなり多く残されています。
    これは、蘇軾が知人の孫子思そんししに与えた書簡に、

    「かれが普段書をかくときは、その末尾に余白を残して、500年あとの人の跋文に備えるのである。」

    と言っているところから考えて、この場合もおそらくそういう理由でこのようにしていると思われます。

    州寒食詩巻の特徴

    蘇軾の作品「黄州寒食詩巻」
    蘇軾の黄州寒食詩巻#3(クリックで高画質表示)

    蘇軾は若いころは王羲之の字を学び、中年になって顔真卿の字を学んだと言われています。

    巻の末尾に書かれた黄庭堅の跋文ばつぶんに、「この書は顔真卿、楊凝式、李建中の筆意を兼ねている」とあります。

    本文全体的に見て、用筆は太くたくましくて、字の形は左右の一方が空間が多くて、もう一方が密になっています。

    行間の間隔は気の向くままに書かれていて、心地よい抑揚よくようや絶妙ながありあす。

    書き始めはややおとなしいですが、書き進むにつれて感情豊かに、リズムに乗って筆が動いています。

    州寒食詩巻の釈文

    蘇軾の黄州寒食詩巻#4
    蘇軾の黄州寒食詩巻#4(クリックで高画質表示)

    州寒食詩巻の原文

    自我來黄州 已過三寒食 年年欲惜春 春去不容惜 今年又苦雨 兩月秋蕭瑟 臥聞海棠花 泥汚燕支雪 闇中偷負去 夜半眞有力 何殊病少年 病起頭已白

    春江欲入戶 雨勢來不已 小屋如漁舟 濛濛水雲裏 空庖煮寒菜 破竈燒濕葦 那知是寒食 但見烏銜帋 君門深九重 墳墓在萬里 也擬哭塗窮 死灰吹不起

    右黄州寒食二首

    東坡此詩似李太白。猶恐太白有未到處。此書兼顏魯公楊少師李西臺筆意。試使東坡復爲之。未必及此。它日東坡或見此書。應笑我。於無佛處稱尊也。

    州寒食詩巻の口語訳

    私が黄州にやってきてから、もう3回の寒蜀が過ぎた。年々、春をいとおしむ気持ちはあっても、春は過ぎ去っていき、惜しむゆとりもない。今年はその上、雨にも苦しめられ、2月は秋のようにわびしかった。横たわって海棠かいどうの花のかおりを聞き、臙脂色えんじいろの花びらもむなしく泥にまみれる様を思いやった。暗闇にまぎれてこっそりと背負ってい逃げるのは、夜半にこそ力がある。それは病気の若者が、起き上がってみると、すっかり白髪しらがになっていたのと、どうして異なろうか。

    春の長江は水かさを増して戸口にせまり、雨の勢いはおさまりそうにない。このちっぽけな住まいは漁舟にも似て、暗くたちこめる水と雲のなか。人気ひとけのない台所で粗末な野菜を煮ようと、壊れかけたかまどに湿ったよしの葉をくべる。寒食の日だとは知らなかった、ふと見れば鳥が紙銭しせんをくわえて飛んでいる。天子のいますところ、宮門は九重あってあまりに深く、郷里のお墓は万里のかなた。行きづまって道なきを慟哭どうこくしようにも、冷えきった灰は吹いても燃えたたぬ。

    右、黄州寒食二首

    蘇東坡(蘇軾)のこの詩は李太白(李白)に似ているが、太白もこの境地にまでは至っていないのではないかとさえ思われる。この書は、顏魯公(顔真卿)、楊少師(楊凝式)、李西台(李建中)の筆意を兼備しており、東坡にもう一度これを書かせてみても、これほどの出来ばえになるとは限るまい。いつの日か、東坡がこの跋を見たならば、きっと私を笑うに違いない。仏のいないところで尊者を標榜ひょうぼうしていると。